第5話 アニー ⑤

 灰谷契はいたにけいは地に倒れ伏していた。


 身体中に裂傷、打撲、単純・複雑骨折、そしてそれらに伴う出血。満身創痍の状態であった。


 タールのような漆黒の影で出来た街の中。


 高層ビル並みの大きさの、頭部が風船のように肥大した巨人の姿をしたヒューマン・イミテーターの口から、涎のように影が流れ出てくる。常にとめどなく流れ出るそれは、地面に着くと黒いマネキンになり、終野と灰谷に襲い掛かる。黒いマネキンは毎秒発生していた。


  灰谷契は現在8体目のヒューマン・イミテーターと戦っている。この影で出来た街で発生したヒューマン・イミテーターは、倒す度に姿が変わり、前よりも遥かに強くなって再発生した。


 その過程、7体目で、ヘンペルは蓄積したダメージで存在を維持出来なくなり、一時消滅した。


(理論上は可能ではあるが……このレベルの魔法を『塔』でも感知できない、発動を阻止できない魔術的トラップとして魔導書に仕込むとなると、常軌を逸した技術と手間とリソースが必要となって来るはず。あまりに非効率すぎる。何のために?)


 この状況化においても灰谷契は思考を続けていた。師から徹底してそういう教育を受けているというのもあるが、何より自分が死んだ場合の事を案じていた。


 その後この魔導書は、物理世界に現実に存在する街を、『塔』を、そして終野澄香ついのすみかをいったいどうするつもりなのか。


 絶対に放置できない。せめて『塔』と連絡が取れれば……と灰谷が同時並列的に考えている所に。


 既に100体以上生み出されている黒いマネキンが、円状に灰谷と終野を取り囲んだ。


 灰谷は辛うじて立ち上がり、戦闘態勢をとった。そうしない理由がなかった。その直後。


 終野澄香が、すっ、と前に出た。そして言う。


「灰谷さん、短い間でしたがありがとうございました。助けて頂いて嬉しかったです」


 終野は爪先で、トントン、と2回軽く地面をノックした。灰谷の足元が底無し沼のように軟らかくなり、一瞬で膝まで沈んだ。


「な……」


「そのまま外の世界に出られると思います。巻き込んでしまって本当に申し訳ありませんでした」


 終野が話している間も灰谷の身体は沈み続け、既に顎まで沈んでいた。灰谷は眼で強く何かを訴え、右手を終野に伸ばした。


「さよなら。お元気で」


 伸ばされた灰谷の手を終野は取る事はなかった。灰谷は沈み、いなくなった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 黒いマネキンが私の周囲を円状に取り囲んでいる。今の所こちらを見ているだけで何もしてこない。


 灰谷君には悪い事をした。彼の真下にたまたま『隙間』があって本当によかった。彼は何者だったのだろう?


 祖母は、やはり私を恨んでいたのだろう。当然だ。死んでも、魔法で私を殺しにきたのだ。直感でそう思った。あるいは願望か。


 やめよう。考えても意味のないことだ。


「もういいや」


 私さえいなければ、きっと皆が幸せなのだろう。


「早く殺して下さい」


 その言葉を合図にしたように、黒いマネキンは一斉に襲いかかった。


 

「はいストップ」


 さっき灰谷君を逃がした『隙間』から男の声がして、初めて見る、無精髭を生やし腰に日本刀を差した中年男性が出てきた。緩い雰囲気の男である。


 襲い掛かろうとしていた黒いマネキンの首が1ダース切り離され、悪い冗談のようにぽーんと飛んだ。


 中年男性は刀を納めた。既に抜刀していたらしい。黒いマネキンの首はゴロゴロと転がり、身体ごと消滅した。


「はいどーも。終野澄香さんで合ってる?この度は大変だったね。ウィッチシーカー所属の常磐木ときわぎといいます。後から来るのは近くにいたフィールドシーカーの皆さんです。」


 『隙間』から5人の人物が入ってきた。皆ごく普通の人々に見えた。


 それにしてもなんとなく勘に障る喋り方をする男だった。


「しかし見れば見るほどヤバいなこのワールドアパート……どんだけ緻密なら気が済むの……

 ああ、悪い悪い。君と君の魔導書にはこれからウィッチシーカー……我々の組織ね……その保護下に入ってもらいます。色々と事情も聞きたいし」


「どういうことですか」


「どういうことですかじゃねえだろ。もう面倒臭えからここで訊くわ」


 男の雰囲気と眼が殺気を纏ったものに変わった。


「今この場で答えろ。何を何処まで知ってる?お前が献本予定だった本はプリンキピアじゃない。お前が終野黒枝ついのくろえの書いた魔導書を持ち込んだ目的は何だ?ヒューマン・イミテーターのセル個体が話してる間に全然攻撃してこないのは何でだろうな?まあ要するにアレだ」


 常磐木は静かに、殺気を込めた声で訊いた。


「お前、俺達の敵か?」


 私は訊き返した。


「貴方達こそ祖母の敵ですか?」


「何?」


「祖母との雑談で『ウィッチシーカー』という単語が出た記憶はあります。会話の流れはもう忘れましたが、敵意のある話し方ではありませんでした。何故貴方達が献本の事を知っているのか知りませんが、あの本は祖母の遺言で持ってきた大切な本です」


 そのせいで灰谷君を傷付けてしまった。


「灰谷君は、巻き込まれただけです」


 ならば、きっと私は灰谷君達の敵なのだろう。


「私だけが死ねばよかったんです」


「ん、了解。死ぬな」


 先程までの殺気が嘘だったかのように、けろりとした顔で常磐木はあっさりと言った。緩い雰囲気が戻った。


「君に敵意がないなら敵じゃないよ。俺は死にたい奴は勝手に死ねばいいと思ってるけど、灰谷ちゃんの頑張りが無駄になるから死ぬな。俺らがどうやってこのワールドアパートに入ってきたと思ってる」


 私の足首を指差す。いつの間にか黒い帯のようなものが巻き付いており、『隙間』に繋がっていた。


 「それ、『バンダースナッチ』っていう魔法。このワールドアパートクソ固くてさあ、俺でも外側からじゃ正攻法での侵入は無理なんだよね。でもそれを灰谷ちゃんが使ってくれたから楽に侵入ルートを確保できたってわけ。

あと、終野黒枝死んでないぞ」


「は?」


「発動体が魔導書ってだけで、ワールドアパートは……ていうかウィッチクラフト全般の存在根拠が使用者の意思だけだから死んでると発動できないぞ。おーあったあった。灯台下暗し」


「???」


 常磐木は混乱する私をよそに刀で足元を軽く斬り付けた。中から祖母の本が出てきた。祖母の本は慌てたようで蝶のように空を飛んで逃げようとしたが、常磐木に素早く紐で縛られた。それでもまだジタバタしていたが、やがて観念したかのようにおとなしくなった。常磐木は「ほい」と私に本を投げ渡し、巨人のようなヒューマン・イミテーターと戦っているフィールドシーカー5人に、「終わったぞ!撤収!」と呼び掛けた。


 そして私に向き直り、こう言った。


「まあ、とりあえず『塔』に来てよ」





 

 



 




 

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