ABSENCE

 大学の講義など無視し、一目散に研究所へ向かった。三度目の訪問も松菜さんが礼儀正しく家の扉を開けてくれたが、温度を失った死神のようにやつれている姿には居た堪れない。

「松菜さん! 璃々亜さんが帰って来なかったって本当ですか!?」

「ええ……昨日、新宿に出掛けるって言ってからそれっきり……もしかしたら菅野さんや垂水さんと一緒だったのかなと思いまして電話した次第ですが……」

 今にも松菜さんは泣き出しそうだったが、親子愛に感動する余地は無い。

「確かに昨日の璃々亜さんは異常でした。別々に解散してからの心当たりはありませんが……家出ってどういうことだ……?」

「今まで私に無断で家に戻ってこないことなんて、ありませんでした。母親の私がしっかりしていないから、こんなことに」

「落ち着いてください。何か理由があるはずです。松菜さんが悪いと決めつけないで……」

 松菜さんのみずっぽい眼から零れそうになる滴を抑えるべく、理由なき否定をした。同時に、璃々亜さんへの憤りを覚えた。母親を悲しませてまでやることがあるか!

「純玲ちゃんにも相談して、彼女を探してみます。純玲ちゃんは……」

「つい先程、御越しいただきました。娘の研究室にいらっしゃいます」

 失礼させてもらって靴を脱ぎ、松菜さんの案内を待たず其処へ移動すると、璃々亜さんが普段座っているデスクに純玲ちゃんがいた。

「庵さん、貴方も璃々亜さんの電話番号、知っているでしょ! 繋がらないの!?」

 僕と半日振りに再会するやいなや、椅子を後方に倒して焦燥を表す。追い詰められているのは互いに同じだ。

「携帯の電源が入っていないのか、全く駄目だ。メールも送ったけど、抑々あのアドレスはパソコン用のだ」

「そんな……」

 屹度、彼女も松菜さんの電話をもらってから繰り返し璃々亜さんへダイヤルしたのだろう。そしてその度に、『御掛けになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていない為かかりません』との常套句にうんざりしていたことであろう。

「こんな事になってしまうのであれば、あの時……璃々亜さんを呼び止めておけば良かったわ。一緒にこの街へ帰っていれば……」

「悔やんでも仕方がない。あの瞬間、彼女の家出を考慮する徴候は……」

 ゼロでもない、と僕は自己否定しかけた。彼女の胸中を完全に汲み取ってやれなかった僕が悪いのかもしれない。自由人極まる外層でも内部は非常に脆く、日常からの逃走を決めた?

 憶測に浸っていても状況は変わらない。駄目元で彼女の携帯へ再度コールしてみる……と純玲ちゃんへ伝えようとした僕の眼路は、彼女とは違う一つの対象に独占せられた。

「璃々亜さんのパソコン、電源入れたの?」

「え?」

 不意の質問にきょとんとする純玲ちゃんだった。数秒置いて、身体を九十度回転させてデスクと向かい合うと、彼女の身体が数十センチ浮いた。

「うわっ! 何よこれ……勝手にパソコンが起動されているじゃあないの」

「何かのはずみで電源ボタンを押したのでは? 純玲ちゃん、機械音痴だし」

「機械音痴と間抜けを一緒くたにしないで」

「――画面が変だ」

 僕の意識は純玲ちゃんの反論を無視し、ディスプレイに集中していた。デスクトップ型に限らず、僕が普段使用しているノートパソコンやタブレット等……どれもハードウェアの差はあれども、OSが同一であればメーカーのロゴ以外の画面遷移は変わらないはずだ。

 だが、其処にはスタートアップ上の障害を示唆するように、黒一色の背景から白文字が浮かび上がってきた。パソコンの起動が不審な時は大概、英文でエラーを通知するイメージがあるが……日本文の話し言葉だった。


 <この文言が誰かに見られた、ということは>

 <私、増井璃々亜が失踪した緊急事態を意味するだろう>


「璃々亜さんの……メッセージ?」

 マウスにもキーボードにも触っていない純玲ちゃんは、自分が倒した椅子を戻して尻をつける。文言はゆっくりとフェードアウトして、別なるメッセージを提示する。


 <そして、これを見ている誰かというのは>

 <菅野庵、垂水純玲の二人だと私は信じている>

 <と云うより、二人が失踪した私の部屋へ来たことをトリガーに>

 <このプログラムが動き出すよう、予め準備しておいた>


「回りくどい置き書きだな」僕は半分呆れ、半分驚愕している。

 

 <屹度、菅野庵が「煩わしい置手紙だ」などと文句を言うだろう>


「なかなかに緻密な未来予知ね」と、純玲ちゃんが幾分感心する。


 <でも、私の親不孝に目を瞑って聞いて欲しい>

 <いや、聞くだけでなく……かつてあった世界を五感で知って欲しい>


「何を言いたいんだ、璃々亜さんは」

 掴みどころのない文章に、靄がかかる。

「待って、凄く不気味だわ。こういうメッセージを送る人って映画やドラマとかでは……」

 だが、純玲ちゃんは先に不安へ先駆していた。


 <これは、私の《遺書》>


「遺書だって!?」

 僕は声を荒げ、純玲ちゃんはやっぱりかと肩を落とした。


 <私が現時点で死んでいるかどうかは、知る由もない>

 <大事なのは、私が死ぬ理由を直前になって我慢しきれなかった情意にある>

 <せめて、御世話になった二人には実直でいたかった>

 <そして私が遺した世界……《遺界》の虚像は>

 <《Surreal Character Transfer Engine》の裏側に内在されている>


 最後の二文で文言の流れが停止した。

 死という単語より焦眉を告げられた僕等が向かう先は、彼女が誘う《遺界》にあるらしい。

「どうして璃々亜さん、死ぬなんて言い出すのよう……」

「<SCTE>の裏側ってどういうことだ……ああもう、解らないことだらけだ!」

 阿鼻叫喚に陥る寸前、若しくは既に狼狽の泥沼に片足を突っ込んでいる僕達は狂いそうだ。不条理なサイエンス・フィクションに巻き込まれているかのようで、無前提の惨禍に心が圧し潰されてしまう。

「くそっ! 璃々亜さんを狂わせたのは絶対に<SCTE>なんだ! あの脳波測定器が璃々亜さんの脳と相互的にリンクして、精神的に影響を与えているのは間違いないのに……」


 ――脳波測定器?


 須臾、内界で二つの言葉が衝突した。

 感情的になっている方の自分が言う。「頑なに真意を隠す身勝手な君が憎い」

 冷静に場を目視した方の自分が言う。「あれは……?」

 畢竟、具象的に声音と化したのは後者だった。

「何……どうしたのよ、庵さん」

「見ろよ、純玲ちゃん。そのパソコン……脳波測定器が接続されている」

 説明不足な言述であったものの、聡明に回帰した彼女は直ぐにハッとした。

「嘘……まさか、突端なる情報科学の世界が《遺界》なの?」

「早急に確かめられることだ」

 硬い動作で頷いた純玲ちゃんと一緒に、デスクに置かれていた測定器を一つずつ手にする。

「これを装着して何も起きなかったら、わたくし達って滑稽ね」

「漫画やアニメの観過ぎかもな」

 消極的な冗談を軽く言い合うのは、限りなく黒に近い白であると悟ったからだ。

 増井璃々亜は非合理の裡で合理性を重んじている。滅多矢鱈に性格を変えて破天荒な人生を選んだ理由は衝動では語り得ず、僕と純玲ちゃんの未来を先読みしたように超越的な計画と目的が確かに存在しているのだ。


 ――だから僕は、次の一文で敢えてその語頭を相応しく附ける。


 、脳波測定器を頭部に装着した僕の意識は変転した。手術室に運ばれたことの無い僕は、全身麻酔を打たれた時はこんな感覚なんだろうなと云う臆見を言いかけたが、別に言葉にするような感想でもないと思い、僕という存在が語るべき御話に備えて黒の静寂しじまに横たわる。

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