-Chapter2-
FAMILIAR
「ポストモダンを履き違えている小説に、何の魅力も感ぜられなかった。此処に残す講評のスペースですら無駄だと思ってしまうくらいに」
無音の声が目の前にちらついた。いや、これは文字だ。明朝体の文章が灰色の湖から滲み上がってくる。
「十七歳、という若さに惹かれた瞬間が
文字の凄みを肌で感じ、慄いては湖へと水没する。氷よりも冷たい水中で、もがき苦しむ。
「女流作家K氏に感化されているらしく、稚拙な模倣で終わっている。私は推さなかったが、彼の将来性を高く見積もった少数の選考委員を信じた」
水泡に閉じ込められた文字は呪詛の如く僕の心を蝕み、深底へと沈めていく。
「アトウイオリという作家は、果たして小説世界で何を叶えたかったのだろうか。無目的の物語で超現実主義の亡霊をただただ追跡したかっただけなのか。本当にそうだとしたならば、今すぐに彼は小説家を辞めて除霊師にでもなった方が充実した人生を送れるであろう」
こんなにも糾弾されるくらいだったら、むしろ受賞しない方がマシだった。下手に選ばれてしまったことで、僕は余計に惨めになったのだ。
識者達の暴力に屈服して、僕は無底の底へと今も、堕ち続けている――。
「――あああっ!?」
情けない悲鳴を上げて、僕はベッドから飛び起きた。寒々とした冬の朝なのに、じんわりと汗をかいていた。
こういう悪夢は、稀ではなかった。
あの時、希望で満たされていたはずの彼は、新人賞選考委員からの痛烈な叱咤に酷くショックを受け、胸裡にトラウマを刻んだ。
こんなはずではなかった。歴代でも最年少の受賞者として、華々しくデビューするはずだったのに。蓋を開ければ、嫌々乍らアトウイオリの『三位一体なる冥園』を許した識者が多数だった。
救いだったのは若さだけで、僕は一応小説家にはなれた。ところが、肝要たる創作には彼方此方から批判が相次ぎ、畢竟僕はB誌の新人賞の顔に泥を塗り、塗られた側も御立腹だった。
それから二年。B誌の購読者層の大半は僕を一発屋だと見做しているに違いなく、筆を折ったと思っているだろう。臆見などではなく、的を射た事実だった。
斯くの如き経緯もあって、停滞していた僕を木津さんがライトノベルへの転向に導いてくれたのだが、未だに僕はあの頃のアトウイオリと同一であり、商業的理由で変遷するアトウイオリと完全に乖離されている。
「……こんなメンタルで、璃々亜さんとの合作小説と向き合えるのだろうか」
深い溜息をついても、時計の針は電池切れ以外で止まることを知らない。本日は師走に入って初めての月曜日。年の瀬でも変わらず、僕は経済学の講義に出席しては空き時間で小説を書くルーティンを欠かせない。必修が一限に予定されている曜日なので目覚ましを七時に設定していたのだが、その五分前に起こされてしまった。
寝間着のまま自室を出て、眼をこすり乍らリビングへと向かった。
「おはよう、庵」
「おはよ、お兄ちゃん」
既に朝食を終えた母と妹は、食器をシンクへと片付けていた。食器洗いは妹がしていた。
「おはようございます。イオリさん」
「ん」
言葉にならない単音の挨拶を璃々亜さんに返し、彼女の対面に座る。
「お兄ちゃん、飲み物はココアでよかった?」
「うん、ありがと」
朝食の準備は大抵、妹がしてくれる。焼いてくれたトーストにブルーベリーのジャムをつけて齧る。璃々亜さんはピーナッツバター派だった。
「妹さん、高校二年生らしいですネ。イオリさんに似て、可愛い女の子じゃあないですか」
「あはっ、璃々亜お姉さんに可愛いって言われちゃったー」
キッチンから嬉しそうな声が届いた。社交辞令的な褒め言葉を口にする時も、璃々亜さんは感情の振れ幅を極力抑えている。その微笑が、彼女が保有する最低限の善悪を保証し、僕という他者に彼女の心中を知りたくさせるのだ。
「寝癖、ついていますヨ」
「寝起きですから」
「毎朝、こんな感じなのですネ」
「ええ。父親は単身赴任で不在でありますので、母と妹と僕の三人がこんな感じで」
「あったかそうな家庭ですネ」
否定はできない。母は穏やかな人であり、妹も年頃の割には僕を邪慳にしない。
「はい、デザートよ。増井さんも食べてねえ」
ガラスの器に入ったヨーグルトを二人分、母親が持ってきてくれた。刻んだリンゴが入っている。
「有難うございます。お気を遣わせてしまってすみません」
「お綺麗な女の子が折角菅野家に来てくれたんだから、どうってことないですよう。増井さんも息子の結婚相手だったら、殊更望ましいんだけどねえ」
「私なんかがイオリさんと釣り合うとは到底思えません。ビジネスパートナーとして互いに貢献している関係が現状の理想ですネ」
母親の七面倒な会話に対しても、温度の低い語調であしらう彼女だった。仮に媚びに徹する女性であれば赤面して『結婚だなんて……そんなあー』みたいな恥じらいを言葉にするのでああるが、増井璃々亜は凡俗な色恋沙汰という概念を最初から放棄しているようだ。僕はそんな彼女が粋であると感じるし、彼女らしい百点満点の態度だと勝手乍ら採点させていただく。
「ところで、イオリさん」
「はい」
食パンの耳を最後まで食べ終え、デザート用のスプーンを持った彼女は僅かに首を傾けた。
「私が菅野家の食卓へ闖入している事態について、何か疑問を抱かないのですか」
「
ほう、と彼女は小さく嘆じた。
「流石はシュルレアリスムの世界に通じた作家さんですネ。現実界の異変にも動じず対応しているところが、イオリさんらしいって思えます」
僕が彼女らしさという属性を得たように、彼女もまた僕らしさとは何かを探し当てたようだ。ややこしい文章になるが、彼女が知り得た僕らしさは僕が知っているはずの僕らしさとは多少捻じ曲がった僕らしさである。
「へー、やっぱりお兄ちゃんって凄いんだー」
「小説家というだけあるねえ」
御気楽に笑う妹と母は賛辞の拍手を僕に贈る。ここまでされると、やりづらくなる。
「僕のプライベート空間まで来られたということは、気分的偶然以外の目的もあるのでしょうね」と、僕は肉親を無視して訊いた。
「はい。<SCTE>のオートリライト結果の報告です。イオリさんの原作……第二話で再度テストしましたので」
その話は大学への登校中にしようと二人で決めた。璃々亜さんも丁度、一限から講義が入っているらしい。ココアでトーストを喉の奥へと詰め込む。
身だしなみを整え、玄関で待機している璃々亜さんに一言詫びて、今日は一段と冷え込むようなのでムートンブーツを履こうとした時だった。背後より忍び寄った妹が僕の耳元で囁いた。
「頑張ってね、お兄ちゃん。執筆も、璃々亜お姉ちゃんとの恋愛も」
僕と彼女を恋仲にさせようとするのは、木津さんだけではない。皆が御節介なのだ。
「純玲お姉ちゃんにフラれても多少は安心できるね」
流石にイラっとしたので、のしかかるように妹の首を絞めてやった。小動物特有の鳴き声を聞いて兄妹の力関係を再確認した次第である。
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