走るムニャムニャ ②

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 夜になるのを待ってから、わたしはコトラのレストランに向かった。

 ちょうど店を閉めたばかりで、コトラと二人、テーブルに向かいあって座った。


「コトラ、今日はおまえにお願いがあって来たんだ」

「兄ちゃんからお願いなんて、珍しいね、なに? 何でも言ってよ」

 コトラはニコニコして話の続きを待っている。


「実はさ、お前のレストランで働かせてくれないかと思ってさ」


 だがそれを聞いてコトラは困ったような表情を浮かべた。そして白衣の袖をまくり、腕組みしてしばらく考えこんだ。


「ウェイターでも皿洗いでも、下ごしらえでも掃除でも何でもやる。僕にできることがあったら何でも言ってくれ」


 わたしはそう言ったのだが、コトラの返事もケンちゃんと同じだった。


「うーん……レンジ兄ちゃんは他にやることがあるんじゃない? そりゃ兄ちゃんの気持ちも分からなくはないけどさ、ちょっと違うんじゃないのかな?」


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「そうなのか?」


 わたしはそんなに頼りないのかな?

 わたしは悲しくなってしまった。

 牢屋に閉じ込められていことで、ここまで自分がすり減らされていたのかと思うと、とても情けない気分になった。


「誤解しないで欲しいんだけどさ、兄ちゃんがちゃんと働けるのは分かってるんだよ。でもそれはここにいる他の子供でもできる仕事なんだし、兄ちゃんはもっとさ……」

「分かったよ。もういいんだ」


 わたしはコトラの言葉をさえぎった。

 もう恥ずかしくて聞いていられなかった。


「分かってくれたならいいんだけどさ。ねぇ、それより晩御飯食べていきなよ。なんでも作ってあげるからさ、ね? おいしいごはんを食べれば、悩みだってふっとんじゃうよ」

 コトラはニッと笑ってそう言った。


「そうだな……」

「ねぇ、何が食べたい?」


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 コトラはと心から信じていた。

 それを信じて毎日それを実践していた。


 ちなみにこれはまぎれもない事実である。

 わたしはこれをコトラから教わった。


 おいしい食べ物はどんな境遇の人間でも幸せにすることができる。

 そして楽しい食卓はどんな料理もおいしい食べ物に変える力がある。


 じっさい、わたしたち大家族の食卓はいつもにぎやかで、コトラの心のこもった手作り料理がいつもテーブルにあった。


 わたしたちにとって食事の時間はいつも天国のように幸せな時間だったのだ。


 毎日の生活の中では気づかないかも知れないが、振り返ってみれば、そしてそれをなくしてみれば、そのことが良く分かるものなのだ


 料理の力をあなどるなかれ。


 そして料理人には、常に感謝の気持ちをもつように!


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「じゃあミートソーススパゲッティを作ってくれないか? 牢屋にいたとき、あれがずっと食べたかったんだ」

「まかせといてよ! うちの店の看板メニューなんだ」


 このときコトラの作ってくれたミートソーススパゲッティは本当においしかった。

 いじけていた自分が吹き飛ぶほどおいしい料理だった。


 食べ終わるとスタッフのみんながわたしのところにやってきた。ウェイターの子、下ごしらえの子、皿洗いの子、調理場の子、会計係の子、みんなで大きなテーブルを囲んでいろいろ話した。


 みんなが自分の仕事を楽しそうに、うれしそうに、説明してくれるのを聞いた。


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 みんなの話を聞きながら、わたしはわたしの居場所がここにない理由が分かった。

 ケンちゃんの言おうとしていたことも今でははっきりと分かった。


 わたしは自分で道を決めるべき時期にきていたのだ。


 それは焦って決めるようなことではなく、立ち止まってじっくり考えるべきことだったのだ。


 そしてわたしは決めた!


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 しかし……正直に言えば、わたしの進路がすぐに決まったわけではなかった。

 それにはもう一人、レイの協力が必要だった。


 前の話で格好よく宣言しておいて言うのもなんだが、わたしの進路を実際に決めてくれたのはレイだった。


 わたしもとんだムニャムニャだったというわけだ。


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 その翌日の昼間の事である。

 わたしは珍しくレイから呼び出しを受けた。


 ちなみにマンションには誰が持ってきたのか緑色の公衆電話が一台あり、それをみんなで使っていた。

 その電話にレイから電話がかかってきたのだ。


 昼に街に出てこないか、という。


「もちろん構わないよ」

 わたしには何も予定がなかった。

 それにレイからの誘いというのはなんとも嬉しかった。


 彼女はお昼ごはんを一緒に食べようと言った。


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 そこでわたしは出かけて行った。


 わたしの着ている服はボロだったし、履いている靴もボロだったが、そんな事はあまり気にならなかった。たとえ街の人間がどんなに綺麗な格好をしていても、わたしはうらやましいと思わなかった。


 だが彼女が現れたとき、彼女がわたしと大差ないボロを着ているのを見たとき、なんだか胸が痛んでしまった。

 彼女は街中にいる誰よりも美人なのに、服のせいでそう見えないのはなんともかわいそうだった。


「公園に行かない? 実はサンドイッチを持ってきてるの。コトラ君が作ってくれたのよ」

「うん。そうしよう!」


 そうして二人並んでベンチに腰掛け、サンドイッチを食べた。


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 季節は夏。


 となりには楽しそうな笑顔を浮かべたレイ。

 二人で笑える話題はいくらでもあった。


 セミの鳴き声がうるさく聞こえていたけれど、木陰には涼しい風が吹いていた。

 芝生は青々と繁り、噴水から流れてきた水滴がくっきりとした虹を作っていた。


 そんな中でわたしたちはベンチに並んでサンドイッチを食べ、水筒に入れた冷たいレモンティーを飲んだ。


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 時として人はなんでもない光景を生涯の記憶としてとどめることがある。


 わたしにとって、まさにこのときの光景がそうだった。


 


 そんな瞬間を見逃すのはもったいないことなのだ。

 だからいつでも周りをよく見ておくといい。


 これはまぁ、人生を楽しむためのちょっとしたアドバイスだ。

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