past night
一度はスルーしたのだ。
閑静な住宅街に間遠に設置された街灯の下にうずくまる人影。
顔も背格好もわからないが若い男性のような感じだ。
人通りはなく、民家の明かりも消えているところが多い。
触らぬ神にたたりなし。
世の中、物騒で、どこで何に巻き込まれるかわからない。そこにうずくまる人影が変質者じゃないと誰が言い切れるだろう。
そういうわけで、出来るだけ気配を殺して、うずくまる人影と距離を取りつつ、通り過ぎる。
ある程度離れて、ようやくほっと息をつく。
振り返ると人影はまるで置物のように同じ体勢のまま、薄暗い街灯の下にいた。
……実は死んでるんじゃないだろうな。
年の瀬押し迫った年末のこの時季、忘年会で飲みすぎて、急性アルコール中毒とか、そうでなくても、酔いが回って道端で寝てしまって凍死とか。
そういえば、この寒い中、コートも着ていなかった気がする。
どうしよう。
これ、放置して大丈夫なヤツなのか?
今はまだ息があっても、このまま朝まで誰も何もしなければ……。
見上げればピカピカと星が瞬く晴れた空。これは冷え込む。
スマホを取り出し、少し迷って、いつでも110番できるように準備して、おそるおそる近づく。
「あの。大丈夫ですか?」
お互いが手を伸ばしても届かないだろう距離から、そっと声をかける。
反応はない。
もう二歩近づいて、もう少しだけ声のボリュームを上げる。
「大丈夫ですか?」
もう少し近づいて体をゆすったほうが良いのだろうか。
手を伸ばしかけたところに、人影がゆるゆると顔を上げ、慌ててひっこめる。
金色の眼。
それは確かに薄暗闇に不自然なほど明るく浮かび上がっていたのに、人影の主が瞬きをした後、忽然と色を失った。
蒼白い顔に黒の瞳。穏やかな表情。
見間違い、だったのか。
とりあえず、顔色は悪いけれど生きていたし、特に問題なさそうだ。
「あなたは神を信じますか?」
ダメだ。ダメな人だったわ。
見た目が大丈夫だからといって安心しちゃいけなかった。
さて、どうする。どう答える。
踵を返すのが正解な気がするけれど、これだけがっつり目が合った後、背中を見せて逃げ出すなんて、失礼とか以前に追いかけてこられた時が怖い。
「……神は死んだとか聞いたこと、ありますけど」
これはひどい。我ながら、考えた末に出たはずの言葉がこれというのは、どうしたもんだ。
大体「信じますか?」とか聞いてくるってことは肯定してほしかったのだろうし。
つまり、やっぱり最悪の返答だ。
どう言い繕おうかと口ごもっていると、青年は蒼ざめた顔に淡い笑みを浮かべた。
「いいね。それ」
それってどれだ?
「えぇと?」
「でも、生きてるしなぁ。困ったね」
独り言なのか、同意を求めているのか、しみじみした声が冷たい空気に溶ける。
「とりあえず、風邪ひくから、帰ったほうが良いですよ?」
とりあえず、私が帰りたい。
悪い人ではなさそうだけれど、ここでずっと付き合ってあげられるほどの親切心は持ち合わせていない。
「あぁ、ごめんね。気を遣わせて。僕は大丈夫だから、キミは帰って?」
街灯を支えに立ち上がった青年は「気を付けて」と、続ける。
「あの、さ。うちに、来る?」
口を突いて出た言葉に、自分でちょっと驚く。何言っちゃってるんだよ。
「何言ってるの。女の子が見ず知らずの男にそんなこと気軽に口にしちゃ駄目だよ」
優しく、たしなめるような青年の声。
おっしゃる通り。
わかってるけど、そんなの。気軽にとか、そんなことしたことないし、今まで。
ただ、寒々しい格好だとか、ぱっと見でわかる顔色の悪さとか、辛そうなのに立って見送ってくれようとしたり……理由とか、あげようと思えばいくつも出てきた。
でも、そうじゃなくて、もっと根本的に。
「迷子みたいなんだもん。放っておけない」
本当は捨て犬みたいだと思った。
家に戻れずに、途方に暮れているみたいに。平気なふりをしても。なんだか。
「迷子ではないですよ」
「どっちでもいいから」
生真面目に訂正する青年の手を取る。
手袋越しにも伝わる冷えた感触。
「行こ」
手を引くと、青年は抵抗せずに隣に並んだ。
「あの……どこかで会ったことありましたっけ?」
エアコンを入れ、ようやく暖まり始めた部屋で対面に座った青年の顔を改めて確認して気付いた。
記憶の片隅に引っかかる。どこかで見たことあるような気がする。
「……いいえ?」
「そう、ですよね」
否定の言葉にあっさり頷きをかえす。
実際、会ったことがあるという気がするのに、どういう状況だったかは全く思い出せないのだ。
電車の中で見かけた、とかそういう一方的なものではなくて、会話を交わしたような……。
たぶん、最近じゃない。ずっと前。
「うん。ごめんなさい。やっぱり気のせいです。人違いだ」
思い出した。入院してた頃だ。
目の前にいる青年とよく似た雰囲気の研修医と話をしたことがあった。
「そういえば、あの人も神様がどうとか言ってたっけ」
「その人はなんて?」
青年に促されて、記憶を探る。
あの頃の私は少しずつ症状が悪くなっていて、入院も長引いていて、ちょっと自棄になっている頃だった。
病室にいても息が詰まって、よく屋上に逃げ込んでいた。
「クリスマスの頃だったから、クリスマスの奇跡の話になって、神様は奇跡を起こさなくって、神様の目を盗んで天使が奇跡を起こすとか」
患者を安易に慰めるためだけの、くだらないおとぎ話だと聞き流してたから、うろ覚えだ。
意味不明な説明にもかかわらず、青年は静かにうなずく。
「奇跡はあると思う?」
「あるよ」
即答すると、青年は驚いたのか、こちらを凝視する。
「私、長くないって言われてた。小さなころからゆっくりと悪くなっていく病気で、治る見込みもなかったはずだった。だから、その時の研修医の話もバカみたいって思ってた」
奇跡なんて信じられなかった。
「今は?」
「全部過去形。何故だかわからないけれど、病気は消えてしまって、私は今、ここにいる。奇跡はあるんだって思ってる。っていうか、あるんだって知ってる」
その後、あの研修医に会うことはなくて、目まぐるしい日々に紛れて忘れてしまっていたけれど。
「キミは、今、幸せですか?」
静かに真っ直ぐ射貫く青年の視線は切実で、焦っているようにも見えた。
「うん」
もちろん、嫌なことだってあるけれど、好きなことだってやれてる。
だからためらいなく頷ける。
青年は穏やかに微笑んでいた。
心配そうに引き止める彼女の家を辞し、息を吐く。
「アナタ、謹慎中でしょ。何やってるの」
暗がりに仄かに浮かび上がった白い人影に軽く肩をすくめて見せる。
「新たな御子候補は生まれたかい?」
質問に答えないこちらに、『妹』は文句を言わず、ため息をつくだけにとどめた。
「…………ええ。つつがなく」
神は『言葉』たり得る特別な御子の誕生を心待ちにしておられる。そのため、クリスマスイブの夜は神の目も行き届かず、かつての御子候補である自分たち天使の行動も多少の無茶が効く。
それを良いことに、小さな『奇跡』を起こしてきた。
幾度も繰り返したせいで、さすがに目に余ったのか力を取り上げられ、今年は何もできずじまいだったのだけれど。
「奇跡にあったよ」
「……だって今、アナタは」
「あぁ。おれは何もしていない。ただ昔、病気を消した子が大人になってて、会えた。今は幸せにしてるってさ」
やさしい子だった。覚えていて、思い出してくれた。
「奇跡、ね。その顔、アナタ、懲りてないわね」
「今更。おれが何度、罰を受けてると思ってるんだよ。続けるよ。その力があるときは」
基本、自己満足で、享けた人間すべての為になっているかどうかはわからないけれど。
彼女のように笑ってくれる人が一人でもいるなら。
「オマエもどう? 奇跡起こしてみない?」
「アナタねぇ。怪しげな勧誘止めてよ。まったく、困った人ね」
笑いながら背に負う純白の羽を広げる。
「アナタも早く帰りなさいよ……考えておくわ」
振り返らないまま夜空に飛び立つと同時に残された言葉に小さく笑みがこぼれた。
【終】
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