大人になりたくない

草野原々

その1(起床から登校まで)

 渦島廻うずしまめぐるはよく悪夢を見た。突然、何の準備もなく、自分が大人になってしまうという夢だ。自分の意思と関係なく、大人になっていく感覚はまさに悪夢的といえた。一通りの苦しみを味わった後、現実に引き戻され、己がまだ子どものままであることを知って安堵する。それとともに、いつかは大人になるときが訪れることを思い出し、嫌悪感で吐きそうになるのだ。

 渦島廻は大人になりたくなかった。大人になることが当たり前の社会が嫌で嫌でたまらなかった。そんな考えを持っているため、時間が過ぎるのが怖い。起きるたびに、一日分大人に近づいてしまったという恐怖の念が浮かび上がる。一日のはじまりである朝にそんな感情を持って起き上がると、ろくなことがない。その後の二十四時間はブルーな気分に支配されてしまう。本来ならば、朝日を浴びて新鮮な空気を胸いっぱい吸い込むべきところを、ベッドに寝転がりながら、また時が一日経ってしまったことを嘆く。そんな朝のスタートが健康的であるはずがない。

 廻は、健康的に生活することがどうしてもできなかった。普通の子どもは、大人になることなんて悩まない。そんなこと考えもせず、日々を楽しく生きている。学習をして、社会に参加することを誇りに思う。もちろん、大人になることを習いはするが、当たり前のこととして受容する。なかには大人になったあとのことを楽しげに話す人すらいる。分からない、分からない。怖くないのか。自分が逐一、一秒一秒、大人に向かっていることが。大人になったら後に戻れない、不可逆だ。

 悪夢を見た朝は、恐怖感でベッドから起きられなくなる。布団を腕で囲み、ぎゅっと抱きしめる。緊張緩和に有効な方法だが、ますます布団に依存することとなる。一度このような状態になったら、もはや起き上がりは期待できない。うつらうつらと意識は遠のき、再び眠りの浅い沼へと漂うことに救いを見出してしまう。そんなときに、救いのノックの音が響く。廻の姉、あゆむだ。

「あゆねえ、おはよう……」

 歩の登場で、廻は眠りの沼から地上へと打ち上げられる。なんとか挨拶するくらいの元気を取り戻すことができた。

「めぐちゃん、またあの夢を見たの?」

 歩は屈みこんで、よしよしと頭をなでてくれる。良い気持ちになると同時に、罪悪感も沸いてくる。もうすぐ出勤時間なのだ。また、遅刻させてしまうだろう。廻は自分の存在が歩の社会生活にとって邪魔であるということを分かっていた。

「あゆねえ、遅刻しちゃうよ……」

「大丈夫、かわいい妹のためならば遅刻なんかへっちゃらだから」

 罪悪感のなかに、優しくて大好きな姉を独占できるという快感が潜んでいる。こうしてベッドに寝込んでいると、歩は必ず傍に来てなぐさめてくれる。歩の存在こそが、廻を起き上がれなくする一番の原因かもしれない。頭をなでてくれる歩がいることが分かっているからこそ、廻は無意識のうちにわざと意気消沈してみせている可能性がある。たとえそうだとしても、彼女の苦痛は本物であった。苦痛を緩和するのは、歩の添い寝が一番だ。

「大人になりたくない、大人になりたくない、大人になりたくないよぉ」

 短く、何度も、恐怖を口にする。発作のように止まらなくなる。廻にとって、目の前の現実と戦うには自分の感覚を言語化するしか方法はなかった。正直、勝つ見込みのない戦いだ。真面目に聞いてくれるのは歩だけであり、彼女にしても廻を説得する方向へと誘導していく。

「めぐちゃんの悩みは分かるよ。けどねえ、人は大人にならなきゃいけないんだよ」

「おかしいよ! どうして、そんな風にできてるの。なにがわたしたちをそうしたの?」

「大人になることは、自然なことなんだよ。悩むようなことじゃないの」

 また、歩の説得がはじまった。廻はまったく納得できなかったが、歩が喋ってくれたという事実が気力をもたらす。なんとか、起き上がり、朝食を食べることができた。

「お仕事行ってくるからね。また怖くなったら電話してね」

 歩は出勤して行った。彼女の心遣いに感謝する反面、自分が依存していることに情けなく感じる。情けなさでまた意気消沈してしまうが、また寝込むわけにはいかない。パンとスクランブルエッグを口に押し込み、鞄をとって登校する。

 今日の天気は雨だ。しとしとしとしと陰気な水がどこまでも降ってくる。気温が低い。体温が下がる。湿気の高い空気が全身を包み込み、気味悪さを感じる。空気から逃げるように走り出す。走る理由には抽象的なものと同時に具象的なものもあった。このままでは学校に遅刻してしまうのだ。廻は、大人になることに違和感を抱いていたにもかかわらず、学校に遅刻したり不登校になったりするほどの勇気はなかったのだ。日常的な権威には粛々と従うのだ。

 普通の道では遅刻は確実。こうなれば、近道を使うしかないだろう。舗装されていない林道だ。晴れた日ですら葉に日光が遮られてほの暗い道であるため、通るのは気味悪いというのが正直な感想だが、背に腹は代えられない。傘を片手に持ち、小走りで林道に入る。腐敗臭が鼻腔に広がる。泥水が跳ねて靴下に染みをつくる。気温は低いはずなのに、蒸し暑く、息が苦しくなっていく。

 足が地面に着くごとに、ぬちゃっとした泥の感触が伝わる。水溜りで足がよろめき、靴の中にぬかるみが入る。気にしない。気にしない。リズムよく呼吸を繰り返し、道を行く。泥も空気も気にするべきでないものだ。走れ、走れ。筋肉を動かすことだけを考えろ。

 リズムよく走り出せば。すべての悩みを打ち滅ぼせるものだ。定期的な呼吸のみに気をかけていれば、身体は自動的に動き出す。脳には酸素が行き渡り、思考がさえる。さえた思考は、廻になにかを教えようとした。今日は大事な日であった気がする。

 ぐにゃ。何かを踏んだ。何かやわらかいものを。泥とは比較にもならないほどの途方もない気持ち悪さだ。思わず足を止めてしまう。足と同時に思考も止まり、せっかく思い出しかけた大事なことを忘却してしまう。止まるべきではなかった。無視して走り去るべきであったのだ。止まれば、好奇心に駆られ、自分が何を踏んだのか、見てしまう。

 バラバラに壊れた緑色の皮膚がひくひくと動いていた。露出した血管がミミズのようにのたくっている。蛙の大人だ。林のなかに群れを作っていたのだろう。廻は気づくことなく小さなコミュニティを破壊してしまった。大人の蛙は妊娠していたらしく、小さな子どもが腹からこぼれる。未成熟の蛙だ。

「くそっ! くそが! 気持ち悪いんだよ!」

 嫌悪感は急速に怒りに変わる。いままで感じてきた社会の理不尽さが蛙に象徴されたかのようだ。目の前に攻撃対象を見出した廻は、八つ当たりを開始する。蛙の群れを次々に破壊していったのだ。身を守るすべがない蛙たちはなすがままに攻撃を受け取るしかない。廻の足という圧倒的な破壊力を目の前にして、コミュニティは一瞬で崩れ去った。

 胸が苦しい。身体が熱い。雨に直接打たれ、肌は寒いのに筋肉が火照っている。廻はイラついていた。大人に、社会に、なにより自分自身に。何の罪もない蛙に八つ当たりをするほど自分が弱かったことを知り、愕然としていた。

「ごめん、ごめんね……」

 謝ったところでもう遅い。蛙の命は帰ってこない。三途の川の向こう側へと行ったきりUターンすることはない。こういうときは反省して、忘れてしまうのが良い対処法なのだが、廻は自分のなかに溜め込むタイプの性格であった。爪を手のひらに立て、蛙の一億分の一くらいの苦痛を感じながら登校を再開する。地面に落ちた傘を持ち直す気力もなくそのまま捨て置く。とぼとぼと歩くにつれ、体温は大幅に低下していった。

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