第10話 人間には見えないモノ

「わああぁぁ……」


 目を開いていても何も見えない光の中を過ぎると、眼下には広大なビーチが広がっていました。ガジュに言われていた木が一本も見えないうちに地上が迫ってきたので、翼を開くことを忘れていましたが、どうやらそれで正解のようでした。

 海は水深がくるぶしくらいまでしかなくて、カーラの体は勢いよく海中の砂にもぐり込んでいきます。でも、苦しいとか目に海水が入るとかいう心配をする前に、今度は目の前が真っ暗になりました。それまでは聞こえていたはずの、耳元で空気がごうごういう音もなくなり、いよいよ不安に駆られ始めると、再び唐突に視界が開けました。


 足の先に見えるのは、間違いなく地上の風景です。緑に見えるのが山で、灰色に見えるのが都市部だとカーラにもわかりました。木が生えている様子が見えないか、目を凝らします。温厚そうな顔立ちが少しだけ険しくなりましたが、幸いなことに見ている者はいません。そして……


「見えたー!」


 漠然とした緑色の塊が、一本一本の木に見えてきたとき、カーラは夢中で翼を広げました。


「うわー!」


 降下速度は緩やかになりましたが、翼がもげそうです。でも、歯を食いしばって耐えます。地面が自分めがけてぶっ飛んでくるようです。それに、今になって気づいたのは、呼吸がままならないという大変な事態。風圧で、思うように息が吸えません。こんなところで窒息したら……獣天使が死ぬと、どうなるのかしらん? なんて考えていると、足の裏が何かに触れました。


「うわっ!」


 そのまま、地面に盛大な尻餅をついて、カーラは記念すべき第一回目の降臨を終えたのです。あまり様になっているとは言い難いものですけれどね。


「やはり、着地をミスったナ」サングラスのスマイルが見下ろして言います。「まあ、おれのようにカッコよく着地するのは、かなり練習しないとムリだから、ガンバレ!」

「そう……なんだ、でも、着地できただけでよかったよー。ちょっとお尻痛いけど」

「さあ、降臨したらスグに索敵だ! もしくは、依頼人を探すゾ」


 ガジュは張り切って駆け出しました。

 二人が降臨したのは、どこかの町の遊歩道のようです。木が茂っているせいでしょうか、朝だというのに薄暗く感じます。車道がないので、イヌの散歩やジョギングなどにうってつけなはずですが、人通りがまったくありません。


「ガジュ、近くにいるよー……黒い人。臭いがする」

「さすがだナ! まだ所属も決まっていない見習いなのに、もう残留思念の存在をキャッチしたか」


 嬉しげに後輩の肩をたたいてから、また先頭に立って歩き出します。ガジュも人間に比べれば何倍も嗅覚が優れていますが、イヌ族には到底敵いません。猟兵部隊に所属すれば、この嗅覚にさらに磨きをかけるのですから、姿をくらました残留思念をどこからでも嗅ぎつけられるようになります。

 ――と、後ろから声が聞こえて、カーラは振り返りました。


「どうもども。お二人も来てくださって」

「あー」


 見れば、コンクリートブロックの隙間から黒猫が半身を覗かせ、カーラに話しかけていました。


「あなたがガジュを呼んだんですかー?」


 と、カーラ。


「ちょっと前に、近くで火事があってね。一家四人、全員焼け死んじゃったらしい」

「だからかなー? ここの残留思念、ほかで嗅いだことのある臭いに比べて、コゲ臭いんだよねー」


 カーラが言えば、黒猫はすぐに答えます。


「それからというもの、ここを通ると息苦しくなる人が続出して、めっきり人通りがなくなってしまった」

「あのー?」

 一歩踏み出し、カーラは黒猫をよく見ようとしました。全身真っ黒なのはわかりますが、ネコって耳の中や目まで黒かったでしょうか?


「カーラ、何も聞かずスグに右へ飛べ」

「え?」


 思わず振り返ると、ガジュは笑って空中スライディングをかましてきました。ほぼ同時に、背後で爆音が聞こえます。ガジュが叫ぶのも。


「セイクリッド・バリアー!」


 ガジュの翼の後ろに、カーラは庇われるかたちになっていました。目の前にいる先輩獣天使の金の輪は、今や直視できないほどまばゆく輝き、白かった翼も同じく黄金に輝いています。その前方――黒猫のいた方向からは、炎が渦を巻きながら襲いかかってきて、二人を飲み込もうとしていました。


「長くはもたないゾ。すぐに後ろへ下がるんだ」

「う、うん」


 今度こそカーラは、反射的にガジュに従いました。五秒間の全力疾走。けれども、さらに足を進めようとしたとき、前方の地面から真っ黒なものがせり上がってきて、阻まれてしまいました。

 ただの影ならそれほど気味が悪くはなかったでしょう。けれども実際は、小さな子どもが黒いクレヨンで乱雑に塗りつぶした絵、それが高速で回転しているようなモノでした。しかし不気味ポイントは一つではありませんでした。折り紙で作る切り絵で、人の形に切り抜いて広げると、ずらずらといくつもつながって完成するものがありますよね。ちょうどあんな具合に、今カーラの前に現れた残留思念と、ガジュが向かい合っているそれは、長い手によってつながっていました。

 だからカーラは、ダッシュでガジュのところへ戻る羽目になったのです。


「四体いるナ」

「あたしたち、囲まれちゃってるよー」


 ピンチにあることはわかっているようですが、ガジュは落ち着いたものです。口元は変わらず楽しげで、サングラスで表情がみえないものの、黒い目をくるくると輝かせているのは間違いありません。手だけが伸びてつながっている残留思念の集団に、まるで「かごめかごめ」でもされているように囲まれているというのに。


「隙があったら離れるんだゾ。この愉快なフォークダンスの輪からどうしても抜け出せなかったら、なるべく小さくなって身を守っていろヨ」

「う、うん……」


 その直後、残留思念たちは一瞬で輪を狭めてきたのと、カーラが腰を抜かしてすっ転んだのは、ほぼ同時でした。四体の残留思念が、ちょうど人型の顔の部分に鋭い突起を生じさせ、回転はそのままにガジュを押しつぶそうとしたのです。背後に回った二体は、金色の翼によるバリアを警戒したのか踏み込みを途中でやめましたが、残り二体はガジュの顔面を狙って襲いかかってきました。


「ナルホド、ムダに踊っているわけではなさそうだナ」


 そう言いながら、両腕でガードします。ガジュの腕は残留思念のトゲに切り裂かれ、あっという間に血だらけになってしまいました。


「イテテ……」

「わーっ!」恐る恐るガジュを見上げて、カーラが悲鳴をあげます。「骨がみえてるよー!」


 そうなんです。サングラスをかけているうえ口元の笑顔が消えないので、たいしたことはなかったかというと、そうではないのです。左腕の傷口からは、何やら白っぽいものが覗いているのでした。「イテテ」ですまされる怪我ではないことは、救護部隊の訓練を受けていないカーラにさえわかります。


「あ……あ……」


 残留思念は勝ち誇るでもなく、たたみかけてくるわけでもなく、ため息のような薄気味悪い声をときおり漏らすだけ。けれども、ガジュたちを取り囲んで回るスピードは緩めたようです。


「ヨシ。じゃあチョットだけ気合いを入れるか」

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