ホワイト・ハンニバル

こめぴ

プロローグ とある夜

「はぁ……」


 肺の空気を全て吐き出すような深いため息が漏れた。自然と出たそれは、辺りの暗闇に溶けていく。

 周りに人の姿は見えない。今の時間を考えれば当たり前。明かりだって、たいしたものはない。路地裏だから壁に街灯や家の明かりも遮られ、頼りになりそうな月も今は雲に隠れてしまっている。

 そんな暗闇の中で聞こえてくるのは、たまに遠くの方でする何かの遠吠えくらい。それが逆に俺の不安をかきたてた。


 夜風が俺の髪を揺らした。髪についた液体が乾いて固まったのだろうか。揺れる髪にいつもとはどこか違う、変な違和感を感じる。

 雲が動き、満月が顔を出した。俺の真上にある満月は、いつもは綺麗に感じるのに、なぜだか今は憎たらしく感じる。あいつは、俺に見せつけるかのように足元の死体を照らした。

 地面が月の光を反射して青白く輝く。そのせいで、死体の周りにできた赤黒い池がやけに美しく見えた。


「慣れないよなぁ殺人って。何度やっても」


 特に誰に言うわけでもなく、一人つぶやいた。独り言を吐きたくなるくらいには、憂鬱な気分だった。


「慣れない……本当に、慣れない」


 足元の事態はもちろん、血が飛び散って赤く染まった壁も、むせ返るような血の匂いも、全てが俺を不快にさせる。

 それに加えて、殺した後はなぜかその場から動けない。目線も死体から離せない。何度も経験してるけど、この時間だって俺は嫌いだった。


「ああ、まずい。早くここから離れないと」


ーーそろそろ、切れる。


 そう思った瞬間、どくんと全身が脈打つような感覚がした。俺の中の何かが切り替わるような感じ。頭がズキズキする。

 またこれだ。いつも変わらない。何回やっても、変わらない。


「あ……あぁ……」


 死体を改めて見てしまった。さっきまではただのモノに見えていたのに、今では何よりも、どんな事よりも恐ろしいものに感じる。

 足元から罪悪感が、蛇みたいにズルズルと這い上ってきて、俺を締め付けた。視界がチカチカする。呼吸が荒くなり、足がガクガクと震え、立っていられなくて膝をついてしまう。

 ちょうどそこが血の池で、パシャンと血が跳ねた。


「はっ……はっ……はっ……」


 呼吸がうまくできない。苦しい。息を吸おうとするたび、喉がひゅうひゅうと鳴った。

 死体の前で手をついて、頭を地面につけ、倒れこむ。ちょうど血の池の中で土下座したような体制になり、血に接しているところから血が染み込んでくるような感覚がした。 人を殺した罪悪感に、潰されそうになる。

 死体から目を逸らしたくても逸らせない。

 早く立ち去らないと。

 そんなことを思っても、体は動かない。


 自分の罪を自覚しろ。


 誰かがそう俺に言っているようだ。

 無意識に俺の目は見開いて、自分の罪をこれでもかと目に、頭に焼き付いてしまう。目をそらしたくても、そらせない。

 視界はぼやけて、頬を液体がとめどなく流れていく。


 ああだめだ。もっと強くならないと。こんな弱くちゃだめだ。こんなに弱かったら、目的を果たす前に、狂ってしまいそうだ。

 自分の罪に溺れてしまいそうだ。

 それだけはだめだ。俺が壊れたらあいつはどうなる? 俺が、守ってやらないと……。


 そんな俺の決意なんで御構い無しに、罪悪感が薄まることはない。



「なあ、俺、どうしたらよかったんだと思う?」


 当たり前だが、こいつは何も言わなかった。

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