第21話 その結末はあまりに醜くそして切ない
「ねぇ、亮ちゃん。一条さんの顔、何があったのか知っている?」
額に大きなガーゼをつけた一条さんを遠目に見ながら、通りがかった亮ちゃんに話しかけると、「あぁ」と彼は言葉を濁した。一条さんに聞いた時は、「転んだ」とだけ言っていたけれど、その様子からただ転んだだけじゃないような気がしていた。
「殴り合いの喧嘩とか?」
「いや、ジムの帰りに、突然、何かで殴りかかられたらしいよ」
「嘘!」
驚いた私に、亮ちゃんは真面目な顔でうなずく。
「すぐに逃げちゃって、まだ捕まっていないらしい。花も気を付けてね。最近は変な奴多いから」
一条さん、イケメン過ぎるから、誰かに恨み妬みを買っていたんじゃないだろうか。
痛々しい彼の姿を見ながら、私はそんなことを考えていた。
その日の帰り、
「送って行くよ」
と着替えを終えた私を一条さんが待っていた。
「今日は、まだ人通りもある時間帯なので、大丈夫ですよ?」
彼にはまだ本来やるべき仕事があるだろうから、私は丁重にお断りした。
「いいから……」
なのに、彼が引き下がらない。
あぁ、自分が襲われたから、私のことを心配していくれているのかなと、ちょっと嬉しくなった。
もしかして、気にかけてくれている……?
そう思ったら、ふと、先日、送ってもらった時、口移しで渡されたチョコレートのことを思い出して、ポッと頬が熱くなった。
あれは私への好意? それともただからかっただけ?
「お前、今、エロイ妄想したよな? 悪いけど、そんなつもりで送るわけじゃないから」
なんでもお見通しと言う顔で、一条さんは肩をすくめる。
「ちっ違います!」
「お前がしてくれって言うなら、してやるけど」
「言いません」
そんなやり取りの後、結局、車で送ってもらった私は、隣で運転する彼を見ながら、何だかんだ言って優しいよな、なんて思っていた。
「こないだ……先月分の退館記録を見た立花に、お前のことを遅くまで引き止め過ぎだって、怒られたんだけど」
突然そんなことを話しだした一条さん。
「その中に、ひとつ、俺たち以外のIDが紛れていたんだ。調べたら、そいつ、お前が入会してからしばらく後に入会していて、数日後にはやめていた」
ドクンと鼓動が速くなった。
「渚祐司。お前の元彼なんだろ?」
その名前にドクンドクンとさらに鼓動が速まっていく。
「その話、やめませんか? もう彼のことは過去の話だし」
「そいつにとっては、まだ過去になっていないのかもしれない」
ボソリとつぶやいた一条さんに、私は驚いて首を振った。
「それはないですよ。彼、結婚も決まっているんです。3ヶ月後だったかな。すごぉい美人の社長令嬢と。あ、一条さんも会ったことありましたね。もう、会社中、その話題で持ちきりです」
「ふぅん」
一条さんは何か言いたげだったけれど、ちょうどマンションまで到着して、話はそこで終わった。
家まで車で送ってくれた彼は、ご丁寧に車から降りてマンションの前までついてきた。一瞬、もしかして部屋に寄るつもりなのかななんて思ったけど、そういう訳ではないらしい。彼は、部屋の前まで来ると、「じゃぁな」と言って、踵を返した。
「帰るんですか?」
「帰ってほしくないの?」
「い、いや、そういう訳じゃないですけど……」
戸惑う私に、「ちゃんと戸締りしろよ」と言って、彼は結局そのまま帰っていった。
マンションの廊下から駐車場を見下ろして、彼が出てくるのを待つ。エントランスから姿を現した彼が、ふと顔を上げて、私の姿に気付いた。
目が合った途端、キュゥっと胸が苦しくなった。
私を見ながら、スマホを取り出した一条さんが何かを操作して、私のもとにメッセージが届いた。
『早く入れよ』
『送ってくれて、ありがとうございました』
すぐに返すと、彼は小さく笑って、早く入れと口パクで伝えながら、部屋の方を指差した。
私はうなずいて、彼に背を向けた。玄関を開けた途端、再び届いたメッセージ。
『これからも送ってやるから』
なんか、優しすぎて恐い。まるで恋人同士みたいで、勘違いしそうで恐い。
ひとりでも大丈夫ですよと返事を送ってから、部屋の中に入った私は、奥から聞こえて来た物音に体を強張らせた。
部屋の中でカサリと何かが動く。
「お帰り、花」
私のベットの上に座って、ニコリと微笑んだ渚君。
私は恐怖で声も出せず、咄嗟に踵を返し玄関から飛び出した。
だけど、背後から飛び掛かり私を羽交い絞めにした渚君は、そのまま体を引きずるようにして部屋の中に私を連れ戻した。
「いやぁっ、やめてっ!」
「何で逃げるの、花……」
叫ぼうとした私の口を大きな手でふさいで、渚君が耳元で話しかける。
お酒臭い。相当酔っている……。
私は落ち着くために、目を閉じて、息を整えようと試みた。だけど、渚君の手に覆われてうまく呼吸ができない。
「あぁ、ごめんね。苦しかった? 大きな声を上げないと約束するなら、手を放す」
苦しくてもがきながら、何度も頷くと、彼は体の拘束はそのままに、口元だけ解放した。
「渚君……どうして、ここにいるの?」
「どうしてって、花に会いに来たんだよ。花だってそうしてほしいから、僕に鍵を渡したままにしていたんだろ?」
え……? 何言っているの……。合鍵なんて渡したことない。
「鍵って……何?」
「あぁ、言っていなかった? 花の身に何かが遭った時、すぐに駆けつけられるように、ちゃんとスペアキーを作っておいてあげたんだよ」
合鍵を作られていたことも恐かったが、それを私のためだと思い込んでいる彼の狂気に背筋が凍った。
「渚君、どうしちゃったの……?」
「花、ごめんね。寂しい思いさせて。僕が花を一人にしたから、あんな男に捕まっちゃったんだよね。だけど、ダメだよ、花。変な男から食べ物なんかもらったら。あのチョコに睡眠薬が入っていたらどうするつもりだったの?」
全身が恐怖で泡立った。
見られていた……。
どこで……、一体いつから……??
「そう。僕はずっと、花のこと見守っていたんだ」
猫なで声で囁いた彼が、私のことを振り返らせた。
「花を穢そうとする奴は絶対に許さない」
憎しみが込められた声に、ふと、一条さんの額の傷を思い出した。
あぁ、あの傷は渚君にやられたんだ。
きっと一条さんはその可能性を疑っていた。だから、私を心配して……。
「花、僕さ。いいこと考えたんだ。僕たちの子供を作っちゃえばいいんだよ。そうすれば、離れないで済む」
「渚君……なに、言っているの……?」
「ね、そうしよ。もう嫌なんだよ。結婚なんてしたくないのに、勝手に周りが盛り上がってさ……でも、花に子供ができれば、全て解決する」
そう言って、渚君は私を引きずりベッドの上に押し倒した。
「やだ……渚君、やめ……て」
「僕の愛をいっぱい注いであげるからね」
ニコリと微笑んで、渚君は私の服を引き裂いた。
「いやぁっ!」
両手で彼を押しやって、脚をバタつかせて、私は懸命に彼を拒んだ。
「言うこと聞けよ!」
だけど、彼が叫んで私の首を絞めて……。グッと強くなった彼の力に、息が吸えず、恐怖で体が硬直する。
私を見つめる渚君の狂気をはらんだ瞳に、私はそれ以上、抵抗することができなくなった。
「いい子にしていれば、優しくするから」
渚君はニコリと微笑んで、私に口付けした。
自分勝手なキスを無理矢理与えられて、恐怖と不快感で震えが止まらない。
「あぁ、泣くことないのに」
彼は私の瞳から零れ落ちた涙をペロリと舐めて、その手でゆっくりと私の足を撫でた。
「ほらぁ、いつもみたいに、感じてごらん」
「やめ、て……渚君……」
「いい加減、諦めなよ、花」
低く囁いた彼の手が、スカートの中に入り込んでいく。
「ここを僕の愛でいっぱいにしてあげる。二人の愛の結晶を作ろう、花」
「いやぁっ!」
その時――
「花っ?!」
怒鳴り声と共に、ドンと玄関が大きな音を立てて開いた。
部屋に飛び込んで来た一条さんが、渚君の姿に眉を顰める。
「やっぱり、お前だったのかっ」
一条さんは、怒りを滲ませた瞳を細めると、渚君を私から引きずり離して、その頬を殴りつけた。
衝撃で吹き飛ばされた渚君が、怒りに顔を歪める。
「花は僕のものだっ! 誰にも渡さないっ! 奪われるくらいなら壊してやるっ!」
渚君はサイドボードの上にあったハサミを取ると、私に向かって飛び掛かって来た。
「花!!」
「きゃぁぁぁぁぁぁぁっ!」
激しい衝撃に見舞われ、一瞬気が遠くなった後、ヌルリと首元に伝わった感触に、私は息を呑んだ。
私に覆い被る一条さんから大量の血が流れている。血塗られたハサミを手にしたまま、渚君は呆然とした顔で立ち尽くしていた。
「一条さんっ!!」
自分の悲鳴が、まるで誰かの声のように、遠くに聞こえた。
◇◆◇
「花、大丈夫?」
病院の廊下で、一条さんの怪我の治療を待っていた私のもとへ、心配そうに眉を寄せた亮ちゃんが駆け寄って来た。
「侑から、君のそばについていてほしいって連絡があった」
あぁ、一条さん、大怪我を負ったっていうのに、私の心配なんかして……。
「大丈夫?」
「私は、大丈夫です……だけど、私を庇った一条さんが、腕に傷を負って。結構、その傷が深くて……」
話している間に、先ほどの光景が思い出されて、恐怖で体が震え出した。
「恐かったね」
亮ちゃんは、私の肩をそっと抱いて、胸の中に頭を引き寄せた。
「もう大丈夫だよ」
優しく囁く彼の温かい声に、ホッと息を吐く。
その時、一条さんがいる処置室とは別の扉から、渚君が出て来た。
酔いも冷めて冷静になったのだろう、その瞳が後悔に揺らいでいる。
一条さんに殴られ腫れた顔でうなだれたまま、所在なさげに立つ姿は、あまりに惨めだ。
「亮ちゃん、ちょっと待ってて」
「花?」
様子を窺う亮ちゃんを置いて、私は渚君のもとへ近づいていった。
強張っていく彼の顔を見ながら、私は自分を落ち着かせようと息を整えた。
「一条さんが、警察には言わないって……」
その言葉には答えず、渚君は泣きそうな顔でうつむいた。
いっぱい言ってやりたいことがあったのに、本当は警察に突き出してやりたいって思っていたのに、その顔を見たら、胸が苦しくなった。
「渚君は、もしかしたら殺人犯になっていたかもしれないんだよ。自分のしたことが分かっている?」
「うん……ごめん……」
消え入りそうな声でつぶやいて、そのまま黙り込んだ渚君の両頬を、私はむぎゅっとつねった。
「花……」
「ねぇ、渚君、会社の飲み会で私にこうしたの覚えている? その時、ここを僕の専用にしていい? って渚君言ったの」
そう言うと、彼は驚いた顔で私のことを見つめた。
「私、男の人にほっぺたなんて触られたことなかったから、すごくドキドキしちゃって。今でもその時のこと、はっきりと覚えている」
彼の戸惑いを隠せない表情を見つめながら、私は続ける。
「それから、初めてキスしたときに見ていたDVD覚えている? ゾンビランドっていう、ホラー映画だよ。ホラーなのにやたら陽気なの。私が思い描いていた、ファーストキスとは全く違う展開で、だけど、胸が苦しくなるくらい嬉しかった」
「花……」
唇を噛みしめて、眉間に深い皺を刻んだ渚君。かつて、私が大好きだった人。
「渚君、渚君は私が初めて付き合った人で、初めてキスをした人で、私の初めてをあげた人で。渚君との素敵な思い出が、私の中にたくさんあるの。私、渚君のことが本当に好きだった。だから……」
彼の頬に手を添えて、私は彼と目を合わせた。
「もうこれ以上、その思い出を壊さないで……」
ポロリと渚君の瞳から涙が零れ落ちた。
その翌日、渚君と麗奈姫が婚約を破棄し、渚君が会社を辞めることになったというニュースが社内を驚かせた。
彼は最後にメールをひとつよこして、私の前から姿を消した。
『ごめんね、花。僕も、花のことが大好きだった。だから、花との思い出を大切にする。今までありがとう。さようなら』
その後、渚君は実家に戻って家業を手伝っていると風の噂で聞いたけれど、きっと、再び彼が私の前に姿を現すことはないだろう。こうして、私の初めての恋は、あまりに醜く、そして切ない結末を迎えたのである。
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