第20話 闇の帝王の本当の姿

「すみません。お待たせしちゃって」


 受付の小泉さんが、あたふたしながら私に謝った。


「全然、大丈夫ですよ。急いでいないので。というか、できればトレーニング行きたくないので」

 と言ったら、くすくすと彼女は笑った。


「山田さんって、すごいですよね。あんな風に、一条さんと言い合えて。私なんか恐くって……彼の前に出ると蛇に睨まれた蛙の気分です」


「えぇ! 私だって恐いですよ。心の中で、闇の帝王って呼んでいます」

「闇の帝王?!」


 吹き出した小泉さんは、「そういえば」と何かを思い出したように話し始めた。


「こないだ早乙女ナナさんが、こちらのフロアでトレーニングをした日があったじゃないですか」

「あぁ、ありましたね」


 あの地獄のトレーニングだ……。


「その時、仕事置いて野次馬で集まったスタッフなんて、一条さんの怒りに触れて、その日の営業終了後はもう血の海でしたよ。まさに、闇の帝王!」


 そんな会話をしながら笑っていたら、受付の電話が鳴り出した。


「あ。ごめんなさい。今日はスタッフが一人風邪で急にお休みしちゃったから、バタバタしちゃって。はい、これ」


 小泉さんは慌てた様子で、私にトレーニングウェアを渡した。いつも着替えは自分で持ってくるのだが、今日は社外研修だったので荷物を少なくするために、ジムのウェアをレンタルすることにしたのだ。

 受け取ったウェアを持ってロッカールームに行き着替えたものの、なんだかサイズが大きい。どうやら間違えられたようだ。彼女、おっちょこちょいっぽいもんな。さっき、電話を保留しようとして、切っちゃっていたし。

 というわけで、もう一度、ウェアを交換するため受付に行ったけれど、鳴り響く電話と来客の対応でバタバタしている小泉さんに、私は言いそびれて、結局そのまま、裾をまくってトレーニングルームに入って行った。


「おせーよ。時間厳守は社会人の基本だろ」


 苛立った様子で私を迎えた一条さん。


「すみません。多分、潜在意識が行くのを拒んで」

「はぁ? っていうか、何だよその恰好」


 ダボダボのウェアに眉を顰める。


「まぁ、大は小を兼ねると言いますし」

「バカ。走っている間に裾が落ちてきて踏んづけたら、危ないだろうが」


 ため息交じりにつぶやいた一条さんは私を連れて受付に向かった。

 そこで、なんだか小泉さんが四十代くらいの女性会員の方相手に平謝りしている。


「悪い。ちょっといいか?」


 私に断りを入れて、一条さんは彼女の元へと近づいて行った。

 一条さんの姿を見止めた途端、小泉さんは明らかに顔を強張らせて、体を硬直させた。


「遠藤さん。どうかした?」


 怒っている女性に向けられた爽やかな笑顔。

 遠藤さんの怒りがすっと和らいだのが見て取れる。おぅ、相変わらずのイケメンパワーだな。


「プライベートルームが空いているって言うから来たのに、長いこと待たされた挙句、ダブルブッキングだったって言うのよ。せっかく、仕事の合間を縫って来たのに」

「それは申し訳ないね。遠藤さんの職場は確か青山だったよね?」

「あら、覚えていてくれたの?」


 彼女の顔に嬉しさが滲む。


「もちろん。よければ、青山周辺の店舗にプライベートルームの空きがないか確認するけど、どうかな?」

「うーん。移動するのも面倒だしもういいわ。その代り、次来た時は、一条君がトレーナーとしてついてね。いつ電話しても予約でいっぱいなんだから」

「喜んで」


 最後に、ダメ押しの、イケメンスマイルで締めくくった一条さん。機嫌を直して帰って行く彼女の姿を見送った後、クルリと振り返った途端、鬼の形相で、小泉さんを睨み付けた。


「おい。なんで、すぐに俺か立花を呼ばなかった」

「た、立花さん、今、スイミングのクラスで……」

「俺に一声かけることは可能だったよな?」


 低く怒りを滲ませた声に、小泉さんが可哀想なくらい小さくなっていく。


「すみ……ませ……ん」

「自分でクレーム処理して、うやむやにするつもりだったとか?」

「そ、そういうわけじゃ……」

「トラブルが発生したら、まずは俺か立花に報告しろって、いつも言っているだろ? なんでそんな基本動作も出来ない」


 しょんぼりとうつむく小泉さんを責め立てる一条さんに見ていられなくなって、私は思わず口を出してしまった。


「それは一条さんのせいじゃないかと……」

「はぁっ?」


 途端、ギロリと睨み付ける一条さん。


「ほら、それです、それ! きっと、小泉さんは、あなたが恐いから、報告できなかったんです! 報告する側にも責任はあるかと思いますが、報告される側にも問題があるんじゃないですか?」

「ほぉ? 俺が悪いと?」

「だ、だって、そんな風に責められたら、言えるものも言えなくなっちゃうじゃないですか!」

「失敗したら、指導してやるのが上司の役目だろうが」

「今のは指導じゃなくて、処刑です! 一条さんは基本が闇の帝王なんだから、もっと相手の気持ちを考えて、言動すべきです」


 私はもう口が止まらなくなって、思わず言いたいことをぶちまけてしまった。


「や、山田さん。もういいから……」


 小泉さんが心配そうな様子で間に入ったけど、もうここまできたらどこで止めても変わらない。


「いえ。私も散々、傷ついてきたのでこの際言わせていただきます。一条さんは口が悪すぎます。ついでに目つきも悪いです。大体、風邪でお休みになった人の分まで、一人でやらせる方が悪いんじゃないですか? シフトの調整もしてあげられない上司が自分のこと棚に上げて何が上司ですか!」


 これまで彼に対して溜め込んだフラストレーションをまとめて一気に爆発させた。

 あぁ、言ってやった。言ってやったとも!

 

「あ。や、山田さん。今日、シフト一人で大丈夫だから任せてほしいって、頼んだの私なんです」

「え……?」

「わ、私いつも失敗ばかりだから、みんなに小泉には無理だって言われて、でも一条さんが、お前に任せるって言ってくれて……だ、だから、信頼してもらった一条さんに申し訳なくて失敗したこと言い出せなくて……」


 泣きそうな顔で説明する小泉さん。

 はぁうっ。

 誰か……。誰か、私をこの場から消し去ってくれ……。


 恐る恐る一条さんを見てみたら、彼は恐ろしいほど静かに私を見ていた。


 コホン。

 取りあえず、咳払いなんぞ、してみたり。


「小泉、お前は仕事に戻れ。次、何かトラブったらすぐに言えよ。責任は俺がもつから」

「はい。申し訳ありませんでした」


 小泉さんはペコリとお辞儀をして、カウンターに戻っていった。

 あぁ、帝王が……帝王が私を見ている。


「こっちこい」


 一条さんはそれだけ言って、スタッフルームに入って行った。せ、説教部屋でしょうか……。


「ほら」


 恐る恐る彼の後をついて行くと、一条さんは新しいスポーツウェアを差し出した。


「あ、どうも、すみません」

「俺は、お前をそんなに傷つけていた?」

「え?」


 驚いて顔を上げると、彼はえらく真面目な顔で私を見ていた。


「これからは気を付ける」


 短くそう言って、踵を返すと、背中越しに、「早く着替えて来い」と言い残して、トレーニングルームに戻っていってしまった。


 嘘……。

 てっきり、怒鳴られると思ったのに。

 私は彼の背中をただ呆然と見送った。


 どうやら闇の帝王は改心してくれたらしい。

 いや、違うか。本当はもう私もわかっている。闇の帝王は、とても口が悪いけど、本当はとても優しい心の持ち主だ。

 改心しなければならないのは、私の方か……。


 私は闇の帝王への認識を改めなければならないと、ちょっと反省したのだった。

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