第2話 厳しめのイケメンでお願いします

「ごめん。他に好きな人ができた」


 突然、そう告げられたのは、付き合い始めてから半年が経つ頃だった。

 話があると言われて、うちに来たのに部屋には入ろうとせず、玄関先で彼は切り出した。

 本当に青天の霹靂で、一瞬、今日はエープリールフールだったっけ? と11月だというのに、訳の分からないことを考えていた。


「だから、別れてほしい」


 俯いてつぶやく彼に私は何の言葉も出せなかった。

 だって、つい先週までクリスマスは何しようねって、二人でいろいろ計画して、楽しみだねって、ラブラブだったのに……。

 そう思っていたのは私だけだったの?


「どう、して……」

「ごめんね……」


 やだ。謝らないで。謝るくらいなら、そんなこと言わないでよ!


「そんなの……急に……」


 声がうまく出せない。

 喉の奥が熱くなって、今にも涙が出そうで、息が詰まりそう。


「もう決めたから。ごめん」


 彼は振り切るように言って、踵を返した。

 うそ、やだ……待って……。


 彼を追いかけようとして慌ててサンダルを履こうとしたら、足がもつれて玄関の床に両手両ひざを打ち付けた。


「痛……い……」


 ポタポタと玄関の床に涙が零れて、それはもう止められなくて。


「そんなのやだ。渚君がいなくなっちゃうなんてやだっ」


 あまりに急な出来事で、心が張り裂けそうで、大声を上げて泣いた。こんなに悲しいことがあるのかと、私はそれから一週間泣いて暮らした。

 だけど、それが終わりじゃなかったのだ。さらなる追い打ちをかけるように、私を絶望の谷底に落とすような出来事が起きたのだった。


◇◆◇


「ほら、花の大好きな、シナモンズレストランで、何でも好きなもの奢ってあげるから、元気出しな」


 同期で入社当時から仲の良い志保が、会社以外はどこにも出かけず引きこもりとなった私を見かねて、無理矢理、誘い出してくれた。


「いいよ。ただでさえ、やけ食いで太っちゃったのに。今、シナモンズレストランなんかに行ったら、大変なことになるよ」

「家でスナック菓子のやけ食いして太るより、美味しい食事して太る方が健全だって」


 志保は私の腕を掴んで、行列の最後に並んだ。

 あぁ、そう言えば、今度一緒に行こうねって、渚君と約束していたっけ。結局、彼と来ることはもうないのだな……。

 そう思ったらジワリと涙が滲んだ。


「よし、よし。あんなクズ忘れてしまえ」

「クズじゃないよ。渚君は凄く優しかったし、こんな私のことを好きだって言ってくれて……」


 鼻をすすり始めた私に、志保は何だか微妙な顔をして、「クズだよ、あんな奴」とつぶやいた。

 クールでズバズバ物を言う志保だけど、こんな風に棘のある言い方をすることなんてなかったから、私はちょっと驚いた。

 私が傷ついたから、怒ってくれているのかな?

 その時は、そんな風に思っていたのだけど、それから程なくして、彼女の言葉の意味を理解した。


「あっ! は、花。やっぱりまた今度にしよう」


 突然、慌てた様子で列から出ようとした志保に私は戸惑う。


「え? だって、せっかく30分も並んだのに。あと少しで私達の番だよ?」

「ご、ごめん。なんか、お腹の調子悪くて……」


 志保は何でも思ったことをズバズバ言うから、逆に嘘をつくのが苦手だ。嘘つくときは、目を合わさなくなるので、すぐに分かる。


「何隠しているの?」


 そう言ったら、泳いだ視線が一瞬別の方向をむき、志保の顔がしまったと、焦りを滲ませた。


「な、何も隠してない。ほら、早く帰ろ!」


 慌てる志保を制して、彼女が一瞬だけ見た方向に目を移す。


「渚……君」


 一人じゃない。隣にいる子は、秘書課の麗奈姫だ……。

 会社の男子社員みんなが憧れている、麗しの美女。

 きれいでスタイルも抜群でバイリンガルの西園麗奈さん。

 なんで、渚君と一緒に歩いているの。


 二人は私のことなど気付かず、互いに顔を向き合って楽しそうに話しながら、こちらに近づいて来る。

 彼女の腕が渚君の腕に絡まっていて、ただの会社の同僚という関係ではないことは明らかだった。

 好きな人って、麗奈さんなの? だって、だって、だって、僕はぷに子くらいぽっちゃりさんが好きって言っていたのに!


 私の前を過ぎ去って行った二人の後姿を呆然と見送る。

 彼女のウエストの細いことったら。

 すれ違いざま、横から見た彼女は思わず「うすっ!」と叫びたくなるほど、細かった。


 なんなの、なんなの、なんなの!

 なんで、私の次が、あの人なの!?


 そりゃ、彼女と私じゃ月とスッポンだし、誰もが彼女の方を選ぶだろうし、つま先から頭のてっぺんまで、何にも敵うところなんてないけど、だけど、渚君だけは、ぷに子の方が可愛いよって言ってくれる唯一の人だと思っていたのに。


 なんだか、ただ振られただけじゃなくて、それまでの彼との思い出までも踏みにじられたようで、私という存在を全否定された気がした。


 あぁ、そうなのね。そういうことなのね……。

 分かった。よぅく分かった。結局、渚君も可愛くてスタイルいい子がいいんでしょ。私みたいなデブはお払い箱になるよね。


「は、花……大丈夫?」


 遠慮がちに尋ねる志保が若干怯えている。


「大丈夫。逆に吹っ切れた。あんな男、今すぐ思い出から消去してやる」


 そして私は決心した。


「ごめん、志保。エッグベネディクトはやめておく。私、絶対痩せてやる! 結果にコミットだ!」


 行列を抜けた私は走り出した。

 今に見てろ。渚祐司! 勿体ないことしたって、絶対に思わせてやるから!!!


◇◆◇


「高くてもいいので、なるべく短期間で痩せられるコースにしてください!」


 家の近くにあったフィットネスクラブに飛び込んで、私はそう叫んだ。


「え……あ、はい、少々お待ちくださいね」


 受付の女の人が、若干、戸惑った様子で私を見ている。

 ここは、前々から気になっていたフィットネスクラブだ。渚君と付き合い始めて、いつか来る初エッチのために、ダイエットしようと、体験コースを一度試したことがある。

 高級感ある建物も、まるでホテルのスパのようなリラクゼーション設備も、有名ブランドの化粧水や乳液が用意された細やかな気遣いも、全てがパーフェクトだったのだけど、いかんせん値段が高かった。

 だから、その時は諦めて帰ったのだけど……。


 渚君へのクリスマスプレゼントとして貯めていたお金も、彼と年末年始に行く予定だった旅行資金も、将来の結婚式の費用として積み立てていたボーナスも、全部使ってやる!


「それでしたら、トレーナーが、お客様の体質や理想の体型などを加味して立てたトレーニングプランにのっとって、付きっ切りでサポートさせていただく、マンツーマンコースが宜しいかと」

「じゃあ、それで!」

「3ヶ月5kg減量コースで35万円からご用意しておりまして、期間や目標体重によって、値段は変動してまいります。目標については、トレーナーとご相談して決めていっていただくことになります」

「さっ35万!」


 さすがに値段を聞いて青ざめた。

 3ヶ月35万? なんなの、このぼったくり。


「こちらのプランは、普段のお食事やクラブに来られない日のトレーニング指導まで、きめ細やかなサービスとなっておりますので……。ですが、目標体重達成までの保証がついておりますので、万一、期間内に痩せられなくても、お客様のご希望の体重まで永久に延長が可能です。もちろん、その際の追加費用はございません」


 おぉ、永久保証か。

 その言葉に背を押された。

 これまで自分でどれだけダイエットしても成功しなかったのだ。きっと、人の手を借りでもしなければ私の未来はないだろう。


「じゃぁ、そのマンツーマンコースでお願いします」

「こちら、お客様都合のキャンセルはできませんが宜しいでしょうか?」


 一瞬怯んだものの、さすがに35万も支払えば、意志の弱い私でも必死こいて、頑張るはず。


「いいです。それくらい気合い入れないと、痩せられる気がしないんで」

「かしこまりました。では、専属トレーナーを選任いたします。ご希望ございますか?」


 トレーナーの希望か……。

 私は意志が弱いから、厳しめの人の方がいいかもな。でも、厳しいだけだと来るのが嫌になっちゃうから、会いに来たくなるようなカッコいい人だとなおありがたい。


「じゃぁ、厳しめのイケメンでお願いします」


 そう言ったら、受付の女性は絶句して、顔を強張らせた。


 ん?


「ご、ご説明が不足して申し訳ございません。トレーナーには、得意とする分野がございまして……。ヨガを専門とするトレーナー、水泳を専門とするトレーナーなど、選ぶことが可能です。もちろん専門分野以外のトレーニングも組み込みますが、やはり一番知識が豊富なのは専門分野となりますので、お客様の興味のある分野を得意とするトレーナーを指名していただいた方が宜しいかと存じます」


 もう、途中から、何を言われているのか耳に入ってこなかった。

 あぅっ。恥ずかし過ぎる……。

 周囲にいるスタッフさんなのかトレーナーさんなのか、みんな、必死に笑いを堪えて、肩が震えている。


「と、特に興味がある分野はないので、痩せられれば誰でもいいです」


 小さな声で答えると、「じゃぁ、俺が専属になってやるよ」と、突然、低い声がして、背の高い男の人が現れた。


 軽く顎を上げて見下ろすように私を捕える切れ長の瞳。シャープな顎ライン。目も鼻も口もそれぞれのパーツが完璧なだけでなく、その計算された配置に惚れ惚れしてしまう。

 もちろん、その顔を引き立てる体も然り。180cmはありそうな背丈も、Tシャツの上からでも分かる無駄のない筋肉も、どこをどうとっても、素晴らしい。


 彼は、無造作にちりばめられた髪から覗く強い光を持った瞳で言った。


「厳しめのイケメンがいいんだろ?」


 これが、後に私の専属コーチとなる一条侑いちじょうゆうとの出会いだった。

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