第10話 初恋の思い出

 3年前。中学3年になり、全国大会を終えてアメフト部を引退した頃。

 俺はその時、初めて恋というものを知った。


 何気ないまま進級し、受験シーズンを迎えたものの未だ志望校を決められない。

 というより、決める気がない。


 どうせ市内のどこかにある普通の高校に入るのだろうが、担任からは「お前の成績ならもっと上に行ける」、などと無責任な期待の言葉を掛けられていた。


 確かにスポーツの内申はあるだろうし、成績も学年内ではマシな方だったが、別にいい高校に入りたくて勉強してたわけじゃない。アメフト以外にすることがなかったってだけの話だ。


 それでも周りの連中は俺を優等生のように見ていた。


 特に何かいいことをしてきた覚えはないが、成績が良かったり、人畜無害だったり、人の相談には一応乗ってやったりで、(俺にとっては)当たり前のことを重ねてきた結果らしい。


 体育の時間には、他所のクラスの名も知らぬ女の子と話し、名乗ることも忘れて仲良くすることもあった。

 そうした平凡で、荒波のない中学生活を送っていた俺が、担任に早く志望校を決めるようにと言われだした日。


 昼休みで飯を食い終えた後、トイレに行こうと階段を降ろうとした瞬間だった。


「――お?」


 足元に見える自分の足とは違う影。


 見上げれば、頭上には教科書やらノートやらが軽やかに空中を漂っていた。


 そして地球の引力に引かれて迫る、それら諸々。


 手で顔をガードする暇もなく、雨あられとばかりに顔面にラッシュ。


「ほびゃぁ!」

「あああっ! 大丈夫ですか!?」


 顔を覆ってうずくまる俺に、上の階段から同学年と思しき女子が駆け降りて来る。


 目に当たらなかったのが不幸中の幸いと言ったところだが、それを差し引いてもこれは結構痛いぞ。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 階段の所で人とぶつかった時に落としちゃって、下にいたあなたに……ごめんなさい!」


 振り子のように頭を振って謝る彼女に、俺は目を合わせた。


 滑らかなラインを描いて腰まで伸びたロングヘアに、ぱっちりとしたつぶらな瞳。

 美の神が手掛けたであろう流れるようなボディに、整え尽くされた目鼻立ち。


 正直に申し上げます。一目惚れだ。


「あ、あの……大丈夫ですか?」

「ほぇ!? ――お、おお、大丈夫大丈夫! 大丈夫過ぎて死にそうだ!」

「えぇ!? どっちなんですか!?」


 悟られまいと必死に取り繕う俺の言葉に、少女はますますテンパる。


 それが俺の初恋相手、文倉ひかりとの出会いだった。


 ◇


 それから、俺は迅速に志望校を決め、隼のような速さを以て本格的な受験勉強に取り組んだ。


 目指すは名門私立――宋響学園。


 担任は「やっとその気になってくれたか」とホクホク顔。その通り、俺はその気になった。


 何たって、文倉がそこを狙うって言うんだからな!


 普段以上に机に向かい、普段以上のペースで過去問を解く。今まで必要としていなかった参考書にまで手を伸ばし、「10分でわかる英会話」などと胡散臭いタイトルを次々と買い込んでいった。


 それでも塾には通わなかった。文倉と話す時間が減るからだ。


 俺は文倉が通う塾の近くで待ち伏せては、勉強を終えた彼女を癒そうと喫茶店に誘ってコーヒーをおごった。


 典型的な文学少女であった彼女は俺にいろいろなこと(特に国語と古文)を親身になって教えてくれた。


 交通事故で両親が亡くなってから、加室孤児院かむろこじいんという養護施設で暮らしているという身の上を聞いてからは、なんとか力になってやりたい、とも思うようになった。


 歩くときは歩調を合わせ、街を渡るなら自分が車道側に立つ。

 デートの鉄則も忘れない。向こうはそんな認識はないんだろうけど。


 そんな折、年末と共に舞い込んできた模擬試験の結果が帰ってくる。


 俺も文倉も、かなりの高評価。2人揃って手を合わせて歓喜した。


 これで上手く合格すれば、もっと文倉と話せる、もっと文倉と仲良くなれる。

 そんな淡い期待を抱く俺に、彼女は願ってもみない提案を投げ掛けた。


「ね、ねぇ……炎馬君」

「どうした? お腹空いたのか?」

「い、いやその、そうじゃなくて……」


 胸の前で指を絡ませて、頬を染める彼女の姿に思わずクラッと来てしまいそうになるが、グッと堪えて文倉から目を離さないようにする。

 そして、彼女の発した次の言葉に、俺は凍り付いた。嵐の前の静けさの如く。


「もし……もし受かったら、私達、な、名前で呼び合って、みない?」


 硬直。


 体の奥にある全てが凍り付き、それに比例して全身が動かなくなる。


 そして、今度は凍った体の最奥にくすぶっていた熱がところせましと暴れだし、やがてそれは全身の氷を溶かしていく。


 その勢いは体中が氷解してからも留まることなく、彼女の前でその熱は暴発し、狂喜という形になって噴火した。


「――ぶはああああッ!」


「きゃあっ!?」


 体内から火山が爆発したかのように全身で衝撃を表現する俺の姿に、文倉は慌てて腰を抜かす。


「い、い、いいのか!? いいんだよな!? 嘘ついたらハリセンボン!」

「ほ、炎馬君、鼻血すごいよ……」


 混乱と喜びでわけがわからなくなっていた俺に、彼女はややビビってる様子。

 それでも、俺を拒絶することはなかった。


 付き合いはほんの半年足らず。


 たったそれだけの間でも、俺は彼女に十分過ぎるほどに惹かれていた。


 彼女の方はどうかはわからない。

 そもそも、異性としては見られていないかもしれない。だが、俺はそれでも構わなかった。


 一緒にいられて、おしゃべりできればそれで良かったんだ。


「や、約束だぞ! 約束だからな!?」


「うん、うん! ……約束……」


 ◇


 その日の晩、合格すれば文倉をひかりと呼べるんだと、ウキウキした感情に身を任せて帰宅した俺を、アイツが出迎えた。


「よぉ、勇呀ァ! 見たぜ見たぜ、いい女連れて色ボケてんじゃん! そんなんで宋響に受かんのォ?」

獣呀じゅうが――帰ってたのかよ」


 ……年の離れた実兄、炎馬獣呀ほむらばじゅうがだ。


 血の繋がった実の兄弟ではあるが、正直言って、関係は最悪。

 というのも、こいつは女遊びにしか興味を示さず、ろくに働きもせず、引っ掛けた女に貢がせて生計を立てているような輩で、母さんにもほったらかしにされている始末だ。


 最近は、ヒーロー関係を取り扱う役所で働く女性職員にまで、ちょっかいを掛けているらしい。ますます嫌になる。


「で? で? 胸はどれくらいあんのよ? 締まりはいいか? 感度良好?」


 染め上げられた金髪をなびかせ、もたれるように俺の肩に腕を絡ませてくる。

 どうやら、俺と文倉が一緒にいることもご存知らしい。苛立ちに拍車が猛烈に掛かっていく。


「うるさい! 獣呀には、関係ないだろ! 俺に関わんな!」


 家全体に響き渡るように怒鳴り散らし、俺は自室に駆け込んだ。


「はぁ……」


 ベッドに体を投げ出して天井を見上げると、自然とため息が漏れてくる。

 獣呀の起こす女絡みのトラブルのせいで恥をかかされるのは、もうたくさんだ。


 小学生の時は、当時風邪を引いていた母さんに代わって授業参観に来たと思えば、担任の先生の胸を揉んで体育教師につまみ出されていた。


 中学に入ったころには、教師のみならず生徒にまで手を出すようになり、警察沙汰寸前までいってしまったケースもある。


 死んだ親父も生前はかなりのドスケベだったのだそうだ。もしかしたら血なのかも知れない。


 そう思うと結果として自己嫌悪に帰結してしまうのだが、それでもくじけている暇はない。


「文倉……そう、文倉なら、きっと仲良くやっていけるはずだ!」


 頭を切り替え、勉強机に向かう。


 いい家族なら見習えばいい。悪い家族なら反面教師にすればいいんだ。


 要は、俺が俺の嫌うような奴にならなければいいんだから、女の子を泣かせるような奴にならなければいい!


 その一心で、俺は宋響学園を目指した。


 ◇


 やがて迎えた卒業式。


 俺も文倉も無事に合格を果たし、互いに名前で呼び合う、という感無量な報酬も手に入れ、まさに幸福は絶頂期を迎えていた。


 そして、俺は決めていた一つの挑戦に臨もうとしている。


 もし受かったら――名前で呼び合えたら――俺、告白するんだ。彼女に。


 それが危険な賭けだとはわかっていた。ここまで行っておいて、もしフラれたら全てが水の泡。


 だが、今なら行けそうな気がしていたんだ。そうでなくても、この気持ちを抑える余力は、もう残されてはいなかった。


「大丈夫、きっと、大丈夫だ」


 文倉――いや、ひかりをメールで呼び出し、体育館裏を待ち合わせ場所とした。


 『君に伝えておきたいことがある。体育館裏へ来てほしい』。

 我ながら陳腐な文章だ。


 でもきっと、俺と同じように卒業生のバッジを付けたひかりが、来てくれる。そう信じていた。


 約束の時間。約束の場所。全て間違いはないはずだった。


 しかし、彼女は来なかった。


 ――なんだ? やっぱり性急過ぎたのかな。


 やはり焦り過ぎたのか……そう後悔の念が込み上げてきた時、俺の携帯がメールの着信を知らせようとズボンのポケットの中で暴れ出す。


 取り出したところで、俺はそこに表示された発信者の名前に目を見開いた。


「ひかりからだ……」


 どんな内容だろう。俺の用を察して、恥ずかしがってメールで返事しようってとこなのか?

 そんな考えが過ぎった時、再び俺の体に緊張が走った。


 震える指で、恐る恐る操作していく。着信された、ひかりからのメール。


 それを意を決して開くと、


『今までありがとう。さようなら』


 とだけ、淡泊に書かれていた。


「なっ……!?」


 言葉が、出なかった。


 さようならって――なんだよ!? 俺、まだ、何も言ってない。好きだって、言えてないッ!


 納得が行かず、俺はそんな焦燥を胸の内に抱えながら『どうしたの?』と返信する。

 しかし、いつまで経っても返事はない。


 ――ひかりだって、宋響には受かったはずなんだから、さようならだなんて、ありえないだろ!


 やっぱりアレか、俺なんかとは付き合えないってことか!? それとも、突然の引っ越しとか!?


 ……その時、またしても携帯が着信を知らせる振動を俺に伝えてきた。


 一瞬ひかりからの返信かと期待していたが、この着信音は電話のものだ。


 握りしめた携帯を開き、発信者の名前を見る。


 そこで、目を疑った。


「な、なんで獣呀から……!」


 このタイミングで獣呀から電話が掛かってくる。

 その意味は考えなかった。考えたくはなかった。


 目に浮かんだ真相の姿を必死に掻き消し、俺は敢えて通話に応じる。ひかりとは関係ないのだと、自分に確信を与えるために。


『よぉ、勇呀ちゃん。青春ハッスルしてるかい?』


 いつもと変わらない、軽薄な声で俺の耳をつんざく。

 本当ならいますぐ切りたいところだが、それではわざわざ電話に出た意味がない。


「御託なんていらない。何の用だよ!」

『まーまー、そういきり立つなよ。お前の絶倫じゃあ彼女だってブッ壊れちまうだろ』

「彼女……? ひかりのこと、言ってんのか!?」


 すると、俺の怒号に反応するかのように、誰かがすすり泣く声が聞こえてきた。かすかだが、確かにこの声――間違いない。


「なんでひかりがそこにいるんだ! 答えろ!」


 最も恐れていた事態が、考えたくもなかった結末が、徐々に真実味を帯びていく。


『んー、いやまぁ、なんつーかさぁ』


 そこで一旦言葉を切ったかと思うと、電話から聞こえよがしにひかりの泣き声が響いてきた。


『ごめんなさい、ごめんなさい、勇呀君、ごめんなさい!』


 泣き叫ぶひかりの悲痛な声が、俺の耳から全身へと訴えかけてくる。その瞬間、俺の体中に電流がほとばしった。


 涙声な余り、正確にはそれくらいしか聞き取れなかったが、状況ははっきりした。


 ――獣呀が、ひかりを泣かせやがった!


「獣呀ァッ! てめぇ、どこにいる! ひかりに何をした、彼女がなんで泣いてんだァッ!」


 逆鱗に触れられたように、俺はここが学校であることも忘れて叫び散らす。


 思えば、クラスが違うとはいえ、今日は一度もひかりに会っていない。何か変だと、気付くべきだったのに!


『だぁーから、んなキレんなっつーんだよ。孕ませちまっただけだって』


 その言葉で、俺の心は冷水を被せられたマグマのように、一瞬にして固まってしまった。


「は……は、ら、ま……」

『おぉ、そうなんだよ。んでな? これからデキちまったガキを堕ろしに行くとこなんだ。心配ねぇぜ? その金くらい俺が奮発してやっからよ。ひかりちゃんの方は、ガキのことがバレて入学取り消しになっちまったみてぇだけどな』


 まるで土産話のように楽しげに話す実兄の声が、俺の心に幾度となく突き刺さる。槍で何度もめった刺しにされるような感覚だ。


『実は前々から声は掛けてたのよォ~。顔はかわいいし、胸はあるし。嫌がってるみてぇだが、断りきれねぇって感じだなぁ。何でかわかるか?』

「……そ、そんなこと……」

『お前の兄貴だからに決まってんだろォ!?』

「――!?」


 俺の心は、更にその一言という巨大な斧で切り裂かれた。


『俺がお前の兄貴だって知ったらよぉ、嫌がってたのに段々と従順になったんだよ。無下にしたら勇呀君に嫌われちゃう〜ん、ってなァ!』

「……そ、そんな、そんなのって!」


 女に疎い俺だって知っている。強姦は、女性にとっては殺されるに等しい屈辱だと。

 そんな非日常の極致に、初恋の人が――ひかりが巻き込まれて……まして、その原因の一端が自分にあると知ってしまったら、俺はもう、何も言えなかった。


 何を言うべきか、誰を恨むべきか、それすら見失うほどに錯乱していた。


『まぁ、そーゆーわけだから、ひかりちゃんのことは俺に任して、お前は宋響で新しい女でも引っ掛けとけや。女子高生の方がほどよく熟れてて美味いんだぜ? じゃーな』


 プツン、と携帯が切られた。

 それに比例するように、俺の心も、原形を留めないほどに崩れ落ちた。


 後になって、ひかりと同じクラスだった同級生から、彼女が俺を好いている友人のためにその人の背中を押していたという話も聞かされたが、そんなことはどうだってよかった。


 確かなのは獣呀が、俺が、彼女を苦しめたということ。

 泣かせた、傷付けた。それも、殺人に等しい重さで。


 ――なら、どうする?


 答えは簡単だ。もう、誰も好きにならなければいい。

 誰とも、仲良しにならなければいい。


 卒業式の後、俺は真っすぐ宋響学園に向かった。

 ひかりの入学取り消しを撤回して欲しい。責任は俺にあるんだからと。


 しかし、話を受け入れてくれる人間は、誰ひとりとして存在しなかった。


 問題を起こしたのは、ひかりと獣呀であり、俺は関連性がない、というのが彼らの言い分だった。


 食い下がる俺を生活指導の教員がつまみ出すまで、彼らは俺の話に関心を向けることはなかった。


 俺には、彼女を救える力なんてなかった。

 誰も救えない。誰も救えないなら、誰かを守れるような人間でいる必要はない。


 そして、それまで積み重ねたものに自ら泥を塗るように、俺は髪を真っ赤に染めた。


 俺はアイツと……獣呀と同じような、人を傷付けることしかできない。


 そういう風にしか生きられない、そういう星の下に生まれてきた愚者なんだと、自分自身にそう証明するように。


 それを裏付けるかのように、宋響学園に入ってから、俺は毎日喧嘩に明け暮れていた。


 殴られて、蹴られて、刺されて、血を流して。


 終わることのない自傷に身を投じ続けて、俺は自分の全てを破壊しようと躍起になっていた。

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