第209話 アーバイン、逝く
結構長く演奏をしている。
俺達は即興で音を紡いできた。
だけど、俺は感じているんだ。
音楽家にとって幸せな時間が、もう終わる事を。
アーバインが何度も演奏中に、一瞬だけ手を止める事が多くなってきた。
ちらりと横目で見ると、まさに鬼の形相で自分の下唇を強く噛んでいる。
意識を飛ばさないようにしているのだろう、下唇に歯が食い込んでいて、だらだらと血が流れている。
顎を伝って滴り落ちる血は、アーバインが着ている白いローブに赤い染みを作っている。
だが、アーバインはそんな事を気にせず、目を血走らせて鍵盤だけを見ていた。
本当に、演奏だけに集中しているんだ、こいつは。
凄い、こいつは本当に凄い。
もう死ぬっていうのに、強い意思で意識を保って演奏を続けているんだ。
それに何度も俺を一瞬でも追い抜いていく。
まぁ俺も遠慮しないで何度も追い抜いているけど。
アーバインは、生粋の音楽家だ。
本当に、尊敬できる程に。
今アーバインは、どんな気分で演奏しているんだろう。
きっと俺に勝ちたい一心で、指を動かしているんだろうなってのは感じる。合っているかどうかはわからんけど。
本当なら演奏が終わった後に感想を聞いてみたい。
だけど恐らく、それは出来ないんだろうとも感じていた。
後どれ位演奏出来る?
後どれ位で死んじまうんだ?
俺は止めるべきなのか?
(……いや、止めるべきじゃねぇ)
アーバインは下唇をあんなに強く噛んででも、この演奏に全てを賭けている。
ならば、友達である俺は受け止めるべきなんだ。
今更こいつは、身体の具合なんて気にされたくねぇだろうしな。
だから俺は演奏を続けた。
俺の限界を遥かに越えた、異次元レベルの演奏を。
ちなみにちゃっかりだが、この演奏は俺のサウンドボールで《録音》している。
こいつが紡いだ最期の音を、形として残したいと思ったからだ。
そして、ついに終演を迎える。
アーバインの音が、完全に止まったんだ。
さっきまでの断続的な演奏中断じゃない、数秒も止めてしまっていた。
俺はアーバインを見る。
目に生気が宿っていない。完全に死んでしまった。
おい、アーバイン。
まだ演奏中だろうが。
前に俺が教えたよな? 音楽家がやっちゃいけない事。
それは、演奏を途中で止めちまう事だよ!
死ぬならきっちり、演奏し終えてから死にやがれ!
「アーバイン!!」
俺はアーバインに呼び掛けた。
――アーバイン視点――
「アーバイン!!」
深淵の中から、ハルの声が聞こえた。
まさか、私は完全に意識を手放そうとしていたのか?
演奏の途中で!?
音楽家としてやってはいけない事をしてしまう所だった。
私は演奏を再開しようとする。
だが、私の身体はもう限界のようだ。
燃料として燃やせる命は、もうないようだ。
腕が思うように動かないし、視界は暗いまま。
ハルの声以外は、まるで水の中で演奏しているかのように、音の聞こえが非常に悪い。
もう、私の身体は死んだも同然だ。
しかし、私は、音楽家としての私は、きっちりと演奏を終わらせたいと願っている。
頼む、少しだけでいい。どんなにみっともなくていい。
私の全てを出し切ったこの最高の演奏を、終演させたいのだ。
だから動け、動け、動け、動け!!
聴覚もいらない、触覚もいらない。私の経験だけあれば十分だ。
経験以外は全て焼べてやるから、ちょっとでも動くのだ!!
すると、願いが届いたのだろう。
鍵盤に触れる感覚、そしてわずかに聞こえていた音が完全に無くなった。
代わりに、少しだけ腕が動く。
ああ、きっと神様が私へ最期の餞別を与えてくださったのだろう。
私はこの素晴らしい音楽を締める為に、静かなイメージで演奏する。
感覚もない、音も聞こえないから、ハルがどう私に合わせているかは全くわからない。
だが、隣にいるこの男は、きっと最上の形で合わせてくれていると信じている。
ああ、もう少しでこの演奏は完成する。
完成する。
完成すると、終わる……?
終わると、私は、死んでしまう……。
そう思うと、どす黒い感情が生まれてくる。
嫌だ、嫌だ、死にたくない、死にたくない!
せっかくここまで自分を高めたのに、死んでしまうなんて!!
認めたくない、諦めたくない!
死にたくないのだ、もっと演奏していたいのだ!!
だが無常かな、運命はそれを許してくれないらしい。
徐々に遠退いていく思考。
わかる、私は今死に向かって歩み始めたと。
この歩みは、どう頑張っても、どう願っても止められないと。
受け入れるしかない。そんなのは私にだってわかっている。
それでもどうしても受け入れたくないのだ!
私は、自分が思っている以上に、強欲だったのだな。
ハルには何度か指摘されていたな、強欲さが足りないって。
自分が一番でいたいという欲こそが、技術を高める為の燃料となると。
この死に際でようやく理解したよ、ハル。
私も、なかなかな強欲だった。
貴族という面子を気にするばかりに、私の欲を押し殺していたようだ。
ああ、もうだめだ。
指が動かなくなってきた。
もっと続けていたいが、ここら辺で終わらせよう。
ダラダラ続けていたら、この素晴らしい曲が一気に駄作になってしまうからな。
くそっ、結局ハルには勝てなかった。
それでも一矢は報いたと思っている。
どうだ、ハル。
これが私だ。
これが、アーバイン・シュタインベルツの全てだ。
お前の、その、傲慢ちきな性、格に、傷……を与え、る事ができ――――――――
――ハル視点に戻る――
アーバインが、何とか演奏を終わらせた。
俺はアーバインに合わせて、きっちり伴奏したんだ。
しかし、最後の終わらせ方が凄かった。
静かに締めに掛かると思っていたんだけど、急に激しくなったんだ。
まるで、何かを叫んでいるように。
蝋燭の灯が消える瞬間、激しく燃え盛ったかのようだった。
それがこの曲にとっては最高の終演になったんだ。
俺はあいつが死ぬ前に褒めちぎろうとした。
その瞬間、俺の右肩にのし掛かる重みがあった。
俺はわかってしまった。
アーバインが俺に寄り掛かり、死んだ事を。
激しく燃え盛ったような締めは、死ぬ直前のこいつの葛藤だったんだろう。
死にたくないって、そう思ったんだろう。
「……何だ、お前もしっかり強欲だったじゃねぇか」
遠慮無く体重を預けてくるアーバインは、異様に重かった。
アーバインの魂の脱け殻は、精一杯生き抜いたからこれ程の重みがあるんだろう。
ああ、憧れてしまう。
俺も音楽家として、最期は死にたい。
そう思える程に。
「お疲れ様、アーバイン」
俺はアーバインの頭を撫でる。
「そして、ありがとう……アーバインっ!!」
そして襲ってくる深い悲しみに、俺は涙を流して慟哭した。
異世界の音楽の同志、そして歳の差を越えた友人は、演奏の中で生涯を終えた。
俺に異世界で音楽の道を示してくれた、偉大なる音楽家に、悲しみに暮れながらも最大の感謝と、次の人生でも素晴らしい活躍を祈った。
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