第207話 ハル VS アーバイン1
「旦那様、お召し物を変えられますか?」
「……不要だ。私には時間がない。一分一秒が惜しい」
アーバインが雇っているメイドに支えられながら、白いバスローブ風の服を着たままピアノがある部屋へ向かう俺とアーバインと数人の使用人。
使用人達はとても心配そうにしているが、鬼気迫る雰囲気を纏っているアーバインに対して、口出ししても聞き入れないのは目に見えていた。
俺は、こんな雰囲気を纏った音楽家を何人か見た事がある。
自身を追い詰めて、普段の技術以上の演奏を見せる、まさに命を削って生きている音楽家だ。
もしかしたらアーバインは、死に際にその境地に至ったんじゃないだろうか。
アーバインの歩く速度に合わせて、時間を掛けてピアノ演奏部屋に辿り着いた。
アーバインの息は切れているが、汗は一切出ていない。
だが、眼力は鋭いままだ。
空気が張り詰めている。まるで炎天下の真夏日を直で浴びているように、肌がぴりぴり刺激されるのを感じる程に。
こりゃ、今のアーバインはひと味どころか二味も違うかもしれねぇ。
「さぁ、始めよう、ハル。前に教えて貰った《ハンガリー
「ああ、わかった。俺が高音を担当しようか?」
「いいや、そこは私がやろう。今なら出来る」
アーバインはこの曲は演奏できるものの、高音部分に関しては正確な指捌きと力加減を苦手としていた。
俺と連弾をやっていた時は大体低音を担当していたが、今日は高音をやると言い出した。
相当自信があるんだろうな。
「ならやってみな」
「ああ」
使用人に支えられつつ、ピアノの前に置かれた椅子に腰かける。
俺はその隣に座る。
俺がアーバインに教えた《ハンガリー舞曲》は一番と五番。
特にこいつは五番がお気に入りになっていた。まぁ俺も好きなんだけど。
この《ハンガリー舞曲》は、ヨハネス・ブラームスが作曲したものだ。
元々ピアノ連弾用に作曲されたとされていて、当初は爆発的な人気を得たようだ。
連弾演奏の際、好んで演奏する音楽家が多い程の定番曲で、オーケストラ曲にもなっている。
五番に関してはCM等でも起用された事もあるし、知名度は圧倒的に五番に軍配が上がるだろう。
「何番をやる?」
「……五番だ」
「了解」
会話は本当に最小限だった。
アーバインは指を鍵盤に置いて、すでに準備完了だった。
さっさと演奏しろって事なんだろう。
「んじゃ、行くぜ?」
俺は演奏を始めた。
――アーバイン視点――
ああ、視界がぼやけている。
鍵盤の輪郭だってしっかりしておらず、自分の指だって何処に置いているかすらわからない。
だが、私の身体はちゃんと鍵盤の場所を覚えていた。
こんな死に行く老体でも、身体の感覚だけは研ぎ澄まされている。聴覚だって健康体の頃よりずっと聞こえが良い程なのだ。
視力以外は間違いなく、最高の状態になっている。
隣でハルが演奏を始めた。
私もそれに応えるように演奏をし始める。
静かな出だしだ。
この《ハンガリー舞曲》の五番、ゆったり流れる部分と時に激しくなる部分が明確になっていて、人間の気持ちを上手く揺さぶって来る曲調が気に入っている。
ハルと初めて会った時、確か「音楽は人を殺せる」と言っていた。
私は最初は「そんな馬鹿な」と思っていたよ。だが、ハルと交流を深めて様々な曲を聴き、「ああ、音楽とはこんなにも奥が深く、こんなにも深淵のようなものなんだ」とわかってしまったのだ。
音楽は人を殺せる。
別に聴き手が対象だけではない、作り手すらも対象なのだとわかった。
私は数々の曲をこの世に送り出してきた。そして思い出すのが面倒な程の称賛も浴びた。
私は有頂天になっていた。いつしか天井を勝手に設けて、極めたつもりでいた。
しかし、上には上がいた。まさに天上に近い程の才能と技術を持った子供だった。
ハル・ウィード。
彼が私の天井を、あっさりとぶち壊したのだ。
久々に見た、私より遥か高みにいる存在に、心が震えた。歓喜した。
今の地位を守る為に保守的になっていたのに、久々に野心が沸き上がった。
この子供を、追い抜きたいと。
もっと私は上に行きたい、と。
だが、ハルはそう簡単に追い抜ける存在ではなかった。
彼の最大の武器は、技術もさる事ながらその引き出しの量だろう。
音属性の魔法によって仕入れた異世界の音楽の知識を発揮、数々の楽器の考案と演奏形態を世に送り出したのだ。
何よりも作詞作曲技術もあり、さらには歌も上手い。音楽に関しては追従を一切許していない傑物だ。
私は何度も嫉妬した。
私も音属性の魔法に目覚めていたら、異世界の音楽の知識を仕入れて、ハルと同じ程の技量を得られたのではないか、と。
異世界の音楽を聴き、知識を蓄え、そして自身の演奏技術に反映させるのだ。そうすればきっと、私もハルを追い抜けていたのではないか、と。
だが、待てよ?
演奏技術は異世界の音楽を聴いただけで得られるものなのだろうか。
否、得られる訳がない。
音を聴いただけで演奏も出来るようになるなんて、それなら私はハルの音楽を間近で聴いているから上達しているはずだ。
今思えば、音しか操れないのに、どうやって数々の異世界の楽器を取り入れたのだろうか?
形も原理も、音だけでは知る事すら出来ない筈なのだ。
私は演奏しながらも考える。
そして一つの結論に達した。
ハルは、その異世界の生まれで、何かしらの原因で記憶を持ったままこの世界に来たのではないだろうか。
奴は歳の割には色々と物分かりが異常に良すぎたし、大人びた雰囲気を纏っていた。
そう、あまりにも規格外過ぎたんだ。
もし、前世の記憶を持ったままこの世界に来たのであれば、奴の音楽に対する自信に関しては、きっと技術が進んだ音楽の世界の競争で勝ち抜いて得たものなのだろう。これだけ複雑且つ発達した音楽業界なのだから、さぞかし競争は苛烈なのだろうな。
今私の隣にいるこの少年は、数世紀先の技術を持った最高峰の音楽家という事になる。
そんな現状神に近い存在に、私が追い抜けるのだろうか?
私はふと、ハルを見た。
本当にこいつは、楽しそうに演奏をする。
どんなに難しい曲だって、常に笑顔を浮かべているのだ。
私はハルのように、演奏を楽しめているのだろうか?
――ハルと
幻聴が聞こえた。
だが、不思議と聞き入ってしまう。
――私はアーバインという音楽家だ。ハルはハル。比べたからといって、技術の差が埋まるわけではない。
その通りだ、埋まるわけではないな。
――なら、私がどうするべきか、わかるだろう?
わかる。わかるが、だんだん身体が重くなってきたのだ。
体力がもう尽きかけているのだ。
――それは燃料がないからだ。それならば別の所から燃料を補充しろ。
別の所?
――そうだ。あるだろう? 今にも消えそうだが、まだ燃え続けている私の命が。
命を、燃料に?
――ああ。どうせもう短い命だ、最後に私がどう使っても誰も文句は言わんだろう。逆に、ここで下手な演奏を見せて、ハルに失望されるよりマシだろう?
そうだ、私はハルを越えたいのだ。
例え神に等しい存在でも、私は越えたい!
私は音楽家だ。私より上に立って見下している存在が、何よりも気に食わない!
――そうだ、それこそが音楽家だ! 常に自分が最上であると思い続け、そして周りにもその事実を認めさせる、最強の我儘な人種。それこそが音楽家の本質だ! いつの間にか私は、ハルという遥か高みの存在にすがり付き、乞食のように技術を与えてもらって満足する程度の存在になってしまっていたのだ!
その通りだ、何故今まで気がつかなかったのか。
まさかこんな死に際に、音楽家の本質を思い出すとは。
遅すぎたな。
――いいや、十分だ。死ぬ前に気付けたんだからな。さぁ、私達がやる事は決まっただろう?
うむ、決まった。
私はハルを――
――そうだ、その気持ちを演奏にぶつけるのだ!!
潰す!!
そう決意した瞬間、身体の重みが取れ、指が思うように動いた。
自分の限界を越えた瞬間を今、しっかりと感じ取った。
これが、本当の私の《最高の演奏》だ!
ハルよ、どうだ!!
――ハル視点に戻る――
驚いた。
こいつ、ギアを数段階も上げて来やがった。
普段のアーバインとは比べ物にならない程、鍵盤を弾く指がスムーズに動いている。
そして音に感情が乗っているのがはっきりわかる。
これは恐らく、敵対心。
俺に対して敵対心がむき出しなんだ。
陥れるとか殺すとか、そういう物騒な敵対心じゃない。純粋に俺に勝ちたいという、ライバル心に近い感情だ。
ははっ、すげぇな。
本当に死に際に、自分の全てを乗せてきやがった。
いいね、俺はこういうのを待っていたんだよ!
俺は別にただ、この異世界でずっと高みで留まって悦に浸りたい訳じゃない。
この世界の音楽レベルを急激に底上げして、俺の今の地位を脅かす存在を作りたかったんだ。
もっと時間が掛かると思っていたが、まさかこんなにすぐ現れるとはね。
しかも、それが死にかけているアーバインだった。
友達として、これ程嬉しい事はない。
いいぜ、俺も遠慮無くやらせてもらう。
そっちが演奏の音に敵対心を乗せてくるんだったら、徹底的に叩きのめしてやる!
ここからは俺も本気だ。
ついてこいよ、アーバイン!!
――アーバイン視点――
な、なんだと!?
ハルはまだ、全力を出していなかったのか!?
もう《ハンガリー舞曲》の優雅な舞いなんて関係なく、私に対して圧倒的な差を見せつけるかのように演奏を始めた。
正規の譜面に対して、即興で音を増やして、まるで時間を速めているかのように指を動かして手数を増やしたのだ。
即興でこんな事、出来るのだろうか?
むしろ譜面通りに演奏するんじゃなかったのか?
くそっ、あんなに手数を増やしたにも関わらず、ハルは変わらず笑顔でいるではないか!
これがハルの本気なのか?
いや、きっとまだ隠しているに違いない。
ならば死ぬ前に、ハルの全てを見せてもらおうではないか!
それが良い冥土の土産になるだろう。
《ハンガリー舞曲》の作者には大変申し訳ないが、私も譜面を無視させてもらう。
ここからは己の技術と発想力を遺憾なく発揮させて行う、即興による音の殴り合いだ!
私の残り時間はさらに縮まっているのを感じる。
もう出し惜しみはなしだ、これならどうだ、ハル!!
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