竜の腹

黒田八束

竜の腹

竜の腹

 最涯てにそびえる活火山、東の大海原の先にある母国が滅亡してなお八〇〇年の繁栄を築く辺境副王領アウディエンシア、三〇〇年に渡って統治者であった偉大なる君主、パパ・グランデ、黎明に崩御す。あらゆる金銀財宝、黄油の金毛・かぐわしい黒髪・ときに赤毛の数多の女奴隷、銀の玉蜀黍とうもろこしが実る三つのエンコミエンダ、水銀鉱山、埋蔵金、清冽な水源、うち棄てられた旧き神の家、まばゆい白蘭の畑、道ゆく女の紫貝の染織、その喉もとで揺れる首環の玲瓏なさえ――この国のすべては、生前、かの老君主のものであった。父の死をすべての国民はおおいに嘆いた、葬儀の朝、宮殿に続く大街道はあらゆる人種――征服者の子孫、混血、異民族、そして原住民インディヘナで溢れかえり、みながその死を悼んだ。


(葦月一日 書記官フアン・マルケスの記録)




竜の腹




 ホホは目を覚ました。

 耳元でブンブンと飛び回る黄金虫に、眠りをさまたげられたのだった。

 吐き気がするほどの熱気がわだかまる屋内。

 彼はちょうど天窓の下、ひび割れた化粧タイルの床に寝そべっていた。身を起こしかけ、瀝青の黒いは脇の寝台に向く。

 そこに明け方まで横たわっていたはずの人間はいない。

 ホホは鼻先を寄せ、シルクの敷布シーツを匂った。皮脂と凝血。腐った排泄物、樹脂ボムの香煙――それらをとり混ぜた異臭がする。多量の膿で黄ばみ、常にじっとりと湿っていたはずの生地は乾ききっていた。

 こびりついた膿を剥がすホホのそばで、ブンブンと、数匹の黄金虫が飛び回った。

 中天にかかる陽が、天窓からその光を屋内に注いだ。ホホのみすぼらしいまでに痩せたはだかに浮く骨が、銅色の肌に陰を落とす。苛烈な陽は、浴びるだけでひりつくような痛みを伴い、青年の裸体を露骨なまでに晒してみせた。砂と塵の絡む黒髪、癖のある陰毛は汗ばみ、目は虫を追ってうつろにさまよう。

 ホホは不安だった。たったひとりの相手を失って、自分がなにをなすべきか、ほとんど何も分かっていなかった。

 物音がした。

 寝台の脇にある鳥籠が揺れていた。

「オイ、ココカラ出セヨ」

 立ち上がって、ホホは鳥籠を開け放った。

 中から、一羽の金剛鸚鵡が飛び出した。

 凝血色の翼を羽ばたかせ、鋭い二本の足で青年の肩をつかむ。

 そして、青い尾っぽでホホの頬をぶった。

「オイ、ホホ! ウットウシイ顔ヲシテルナ! オレ様、コノ〝グワカマヨ〟様ガ退屈シテイルトイウノニ! ホホ、ホホ! 顔ヲアゲロ! 旅ダ、旅二出ルゾ!」

 ホホは目をみひらいた。グワカマヨの声は、天啓がごとく、心を打った。

 「彼」の所有物であったとき、ホホにとっての世界はこの白亜の宮殿であり、それで充ち足りていた。しかし彼が死んだいま、ホホは今度こそ生きる場所を失ってしまった。

 ――探しにいこう。

 ホホは決断した。

 ――運命のつがいを、探しに。

 かつて、征服者たちが現れる以前。

 数多の都市国家が繁栄するよりも昔。

 原住民の土地には神が棲んでいた。ククルカンと呼ばれる、羽毛ある蛇たちのことだ。かれらが人の子とともに暮らしていた時分――ほんらい意思の疎通のかなわない二つの種に、絶対的な縁が生まれることがあった。

 それが運命のつがいだ。

 羽毛ある蛇ククルカンのつがいとなった人の子には恩寵が与えられる。ホホにはその確信があった。じぶんには運命のつがいがいて、その恩寵がある。ならば探しにいかなければいけない。それがじぶんにとっての次の居場所だ。太古が昔、羽毛ある蛇ククルカンたちが去ったという、最果ての島をめざすしかない。

 ――南の港へ。

 そこは唯一、「あの島」に通じる船が出る。

 彼は隅にまとめていた布を頭からかぶった。紫貝で染色された織物は日に灼け、白茶けていたが、丈夫で、どんな旅にでも耐えられるであろう。グワカマヨが再度肩にしがみついたとき、なにものかにその痩せた背を爪弾かれ、ホホは寝室を飛び出した。

 髪が背を流れ、身をつつむ染織が揺れる。彼が走った先には広大な庭があった、宮殿の門前には列をなす群集があった――偉大なる君主の葬列が。この明け方に死んだ男を悼む者たちの列が! みなの心が耐えがたい砂嵐の渦中にある。

 そのなかでただひとり、列の流れに逆らって、彼は走った。


 ――明け方、ひとりの老人がこの世を去った。

 三〇〇年に渡りこの辺境副王領を治めた、“偉大なる父”、パパ・グランデ。彼がその死によって手放したものは、あらゆる金銀財宝・権利の数々に限らず、ひとりの青年にまで及んだ。

 少年の時分より彼に仕えた、原住民の青年。かつてこの世を支配し、信仰対象とされ、やがては太古に東の海に去った羽毛ある蛇ククルカンの恩寵のしるしをもって生まれた、口の利けない男。

 それが、ホホだった。

 

 一、屠り場


 はだしで駆け回ったせいで、足の裏がひりひりした。

 太陽が道を焼いている。宮殿から飛び出してさほどもたたないうちに、ホホは椰子の木陰で足を休めるはめになった。

 目前の大通りは、葬儀にむかうひとでごった返している。

「ホホ、ホホ!」

 おとなしくしていたはずのグワカマヨが、肩の上で凝血色の翼を広げた。鳥が羽先でさし示したのは、人の流れに逆行する一台の幌馬車だった。

「アレニ乗ロウ! キット遠クニ行クゾ!」

 ホホは逡巡したが、すぐに立ち上がって、葬儀の列にわけいった。押したり押し返されたりをくり返しながら、いつにない人出に立ち往生する車をめざす。御者が痺れをきらしたのはその矢先だった。

 一際大きな鞭の音とともに、車輪がキリキリと前進する。ホホの肩を飛び立ったグワカマヨが、一足先に幌のなかに飛び込んで、さっさと来いとばかりにしきりに羽ばたいてみせた。地上の人間に揉みくちゃにされながら、ホホは必死に腕を伸ばした。やっとの思いで荷台の端を掴む。

 ともすると、馬が威勢よくいなないた。

 幌馬車は猛烈に走り出した。突進する馬の蹄に子どもがけりとばされ、暴走する車輪に人の手足が押し潰される。ホホは荷台にしがみついたまま、両足を粗悪な石畳にひきずられた。砂埃がもうもうと立ち込め、叫び声がほうぼうで響く。

「オイ、ホホ! コノ根性ナシ、クソッタレ! サッサト上ガッテ来イ!」

 ホホの頭のまわりを、グワカマヨが飛び回った。ホホは両腕に力をこめると、汗だくになりながら荷台に這いあがった。

 馬は荷台をひっぱって、ぐんぐんと前進した。ともすれば車が空中分解するのではないのかと思うほど、上下左右に激しく揺さぶりながら。

 くたびれた豚革でできた幌が、風にたゆんではへこむ。

 幌の内側では、老若男女、混血に人種を問わず、さまざまな人間がひしめいていた。突然乗りこんできたホホ(と、一匹の鸚鵡)にも興味をしめす気配はない。ホホは皮のずる剥けた膝の痛みをこらえながら床の上を這い、なんとか落ち着ける場所を探した。

「ナアナア。コノ馬車、イッタイドコ行クンダ?」

 座りこんで安堵のため息をついたホホを置いて、グワカマヨが人々の頭上を飛び回る。そのひとりにうっとうしげに翼を払いのけられたグワカマヨが、突然、飛び上がってホホの後ろに身を隠した。ひとりの女が錆びた鉈をつきつけてきたのだった。

 グワカマヨは萎縮してすっかりおとなしくなった。

 ホホはすりむけた膝の皮を剥がしながら、だんだんと遠ざかってゆく葬列をながめた。ひとびとの頭上でさんざめく光は、彼にみたこともない海を思わせた。


 幌馬車は、延々、段差の激しい道を走った。

 白いぬり壁と干し煉瓦、そして石畳の道。砂埃に黄ばんだ街並みが遠ざかると、征服者の植えた糸杉が点在する曠野こうやに入る。川沿いに進むこと数刻、馬車は竜舌蘭リュウゼツランが多く自生する丘陵で止まった。

 ホホはうつらうつらと船を濃いでいたが、荷台に詰めこまれた人々がガヤガヤと降りてゆくのに目を覚ました。グワカマヨとともに外に出ると、〝ターミナル〟とでもいうような、ぼろい荷馬車が数多く集結する場所であることがわかった。

「オイ、ホホ。来ルトコロ間違エテ無イカ? グワカマヨ様、肉ニナルツモリハ無イナァ……」

 彼らが手にした刃物をみて、グワカマヨはホホの服を嘴でクイと引いた。そして勝手知ったる顔で中にもぐり込んでくる。羽毛のむずがゆさにホホが身をよじると、気ままな鳥は頭だけを首の後ろから出した。

「ウーン、臭イ、臭イ。アンモニア臭タップリ、グエッ」

 そしてふたたび服のなかに隠れてしまう。グワカマヨの言う通り、〝ターミナル〟は、集結した馬の垂れながす糞尿のにおいが立ちこめていた。それだけでなく、風下から、もっと強烈な悪臭が漂ってきているのだった。

 我さきにと丘を下ってゆく群衆を追い、ホホは歩き始めた。斜面は一面ホホの背丈よりも高い竜舌蘭の群生があって、そのむこうで、まるで人目を忍ぶかのように――鉄の柵がいならんでいた。視界がかすむほどのすさまじいアンモニア臭は、その内側に原因があるようだった。

 ホホは柵の手前で立ち止まった。

 柵は赤錆びて脆くなり、ところどころが湾曲していた。そのゆがみのすき間から、ホホはなかを覗きこんだ。

 そこはひび割れた化粧タイルを敷いた、四角い空間から成っていた。人々は服の裾をまくってはだしになり、日よけの麦わら帽子をかぶって、その上を歩いていた。垢まみれの黒ずんだ足がタイルを踏むたびに、ぬちゃぬちゃと、なにかの液体が跳ねる音が響く。その床は、オイルのような――太陽光を浴びて虹色に光る、透明な粘液に覆われていた。

 粘液の層が厚くなったところに、いきものの死骸が並べられていた。かっさばかれた腹から今なおとうとうと、透明な粘液をしたたらせているそれは、巨大な蛇だ。若い去勢牛と同じくらいには大きい。羽毛はむしられ、翼は工芸品の材料になる皮骨だけを除いてむざんに折られている。それらは黄色い脂肪の塊とともに下の川に投げ棄てられていた。屠り場のもっとも低地には深い溝が走り、そこに川の水が流れ込んでいるのだった。

 ――屠殺場だった。

 今まさに解体のさなかにあるそれは、かつて東の海を渡り、最果ての楽園に去ったという羽毛ある蛇ククルカン、その〝なりそこない〟だった。

 一説には、同族間で性交渉を行ったがために――罰として醜い姿を与えられ、この不浄の土地に残されたものたちの子孫であるという。その肉は強烈なアンモニア臭がする一方で、滋養があり、美味という話だった。

 偉大なる君主パパ・グランデの治世では、〝なりそこない〟の捕食は御法度だった。しかしその裏では繁殖が盛んに行われ、肉や個体そのものが高値で取引される事実は、ホホもよく知るところだった。

 ひとの群がった蛇の肉が、あっというまに解体されていく光景は、瀕死の黄金虫にたかる蟻を連想させる。色黒の女たちが取り合いをしていた内臓が、もみ合いの末にその手をすべり落ち、柵をへだててホホのめのまえに落ちた。まあたらしいピンク色の肝臓が、乳白色のぶよぶよとした皮膜をまとい、太陽光をにぶく照り返している。

 その瞬間、ホホの脳裡をかけめぐったものは、しかし形をなす前に霧散してしまった。どこからか現れた痩せぎすの少年がそれを掴み、服に隠してしまったからだった。

 ホホはうなだれ、柵の一本を握りしめた。赤錆びがぼろぼろと指のあいまからこぼれ落ちて、粘液の海に落ちた。

 その矢先、ホホはふしぎな声を聞いた気がして、顔をあげた。目をむけた先、柵の周囲に生えた竜舌蘭の根もとには、一匹の蛇の子が隠れていた。肉として解体にするにはずいぶん幼い。それこそまだ生まれたばかりの個体にみえた。

 「蛇」がこの屠り場に運びこまれる際にまぎれていたのかもしれない。ホホはとっさに地面に膝をつくと、まとう染織の裾をくつろげ、その醜いこどもを手招いた。

「ゲェッ、ヤメロヨ、マサカソレ拾イ食イスル? バッチイデショ!」

 ひょっこり顔を出して、グワカマヨがわめく。

 ホホが蛇の子に触れると、指が粘液でぬるぬるとすべり、ひどい痒みをもよおした。かまわず抱き上げると、さきほどの少年がしたように、服の裾にくるんでそれを隠した。

「オイオイ! オレ様トイウモノガアリナガラ! 〝パパ〟ジャアルマイシ! 知ラナイゾ、ソンナバッチイノ拾ッテ!」

 蛇の子は布ごしにも熱かった。ホホは一度きつく目を閉じると、気を落ち着かせ、それからゆっくりと屠り場の囲いを離れた。一度竜舌蘭の陰に身を隠すと、屠り場の熱狂が続いていることをたしかめ、駆け出した。

 急いで坂を駆け上がり、荷馬車のターミナルに戻る。ホホは適当な荷台をあさって、ぼろ切れを手に入れた。その布で、蛇の子どもを包み直した。

 ほどなくして、肉を運ぶひとの群れがやってくる。手際よく解体された肉、皮骨、内臓といったものが、竜舌蘭の繊維で編んだ縄に吊るされ、幌の内側に干されていく。ホホはそのなかでも塩をすりこんで吊るした肉のある幌馬車を選んで乗り込んだ。きっと遠くに行くだろうと考えた。

 薄暗い幌の内側で、何頭分もの、巨大な肉がぶら下がっている。たえず悪臭を放つものだから、荷台に乗っただけでクラクラと眩暈がして頭が痛くなった。あまつさえ、ブンブンと、太った蝿が何匹も飛び回っている。

 ホホはなるべく風の通る場所を選んで座った。腹のあたりに隠した蛇の子のぬくもりを感じながら、じぶんの手をじっとみつめる。赤いぶつぶつができていた。

 あの粘液には毒があったのだろう。


二、塩原


 塩肉を積んで、幌馬車は延々、なだらかな坂道を登った。ホホの足もとに太った蝿の死骸が積もる頃、それは高地にある村にたどり着いた。

 肉の解体人、同乗していた浮浪者とともに、ホホは幌から追い出された。木の皮でできた蛇腹の巻物をもって、御者が降りてくる。それは「仕事」をこなした解体人たちの名簿だったが、ホホには文字がわからないし、当然、呼ばれるあてもなかった。賃金をもらうためにぞろぞろと列を成しはじめた人の群れから離れ、ホホは土煙がもうもうと起こる道を歩いた。村落は、小さい。数百年前の「征服者」によって整備された町がみなそうであるように、広場があり、土地の中心には教会堂がある。周辺には漆喰を牛乳で練って固めた陋屋ろうおくがひしめいている。

 ホホは村に寄りつくことを一旦は避けた。幌馬車が進んだ道を逆戻りして、目についた茂みに分け入る。

「ナアナア、ソレドウスルノ? 食ウ? 逃ガス?」

 ホホは服の下から、あの布の包みを取りだした。その場にしゃがみこみ、結び目をほどく。姿を現したのはあの醜い蛇の子だった。

 眠っていた蛇の子は、やがてホホの膝上で目を覚ました。

 黒耀のを瞬き、あくびをする。羽毛ある蛇ククルカンは悠久の時を生きるとされるが、この蛇の子も、なりそこないであっても健康を害したようすはなかった。ホホは安堵のため息をついて、その頭を撫でた。

 ずんぐりと太った胴体を抱えあげ、足もとにその子どもをおろす。それはふしぎそうに、先端がいびつに裂けた尾でぱたぱたと地面を打った。動く気配は一向に無かった。

「ムリムリ、コイツ、ホホニ懐イテルヨ? ケツデモ叩カナイト逃ゲテ行カネエッテ! オイコラ! 赤ン坊ハサッサトオ家帰ッテ、オ母チャンママ・グランデノオッッッパイデモ吸ッテナ! ククルカンニ女ハイナイケド!」

 しきりに騒ぐグワカマヨを払いのけて、ホホは立ち上がった。その場から一歩、二歩と後ずさる。蛇の子も、腹ばいになって地面をぬるぬると進んだ。思いきって距離を取ったところで、何度それをくり返したところで、そのいきものがホホのもとを離れてゆく気配はなかった。

 根負けして、ホホは蛇の子を抱えあげた。

「エッ、本当ニ連レテクノ? 食イブチ増エルジャン? 密猟者二売ッテ金二シヨウゼ? オレ様、餓エルノハヤダヨーーーー! アーーー!」

 蛇の子をくるんでいた布を、今度はじぶんが頭からかぶり、あまった布を上半身に巻きつける。そして服と布の合間のふところに、ホホは蛇の子をしまった。ちょうど女が赤子を抱くような格好になった。

 布ごしに、蛇の子の羽毛を撫でる。ふわふわとして、とても柔らかかった。その姿かたちは――羽毛ある蛇ククルカンが神話のなかで語れるようにうつくしくはない。体のあちこちがいびつに歪んだつくりをしているし、翼にいたっては片側しかない。とても醜いいきものなのだ。しかしホホは、どうしてか、その醜いいきものを手放せなかった。

 やがてホホは、グワカマヨを連れて歩きはじめた。

 村を抜けた先にある塩原を渡るつもりだった。

 幌馬車に乗りあわせた人間が、ホホにその話をした。そのひとはこの土地や、首都の生まれではなく、また、征服者による土地経営エンコミエンダにも捕らわれず、流浪して働く身だった。ホホのことを、じぶんと同じように、故郷を離れた原住民インディヘナであると考えたのだろう、口ぶりは親しく、同胞に対する愛情に満ちていたことをホホはおぼえている。

 彼は口の利けないホホにも優しく、その脆弱なからだつきをみて、教会や司祭の保護を受けるべきだとさえ言った。彼自身は、塩原を渡り、南の水銀鉱山にむかうと語った。

 南。――エル・スール

 今となっては――その響きほど、ホホを歓喜させるものはなくなってしまった。

 彼から聞いた話を頼りに、ホホはこぢんまりとした村落を抜けた。すると、竜舌蘭がまばらに生える以外はなにもない、だだ広く荒れ果てた曠野があった。

 中天にかかる太陽の日差しが、一面に照りつけていた。わずかな風は熱と砂を巻き上げる。砂埃はとろける乳脂バターの黄色をしていたが、ホホのくちびるのすき間に押し入る砂粒はじゃりじゃりとして乾燥しきっていた。

 ホホは渇いた砂をはだしで踏みしめた。方角もさだかでなかったが、まっすぐに進んでいけばよいと思った。道の果てはみえず、みずからを追いかける影帽子以外なにもない。時折、壊れかけの馬車が隣を通り過ぎてゆくばかりだ。そのたびに馬の蹄が砂をけちらし、ホホの体に吹きつけた。砂埃は汗とまじりあい、ホホのあかがね色の脛や首筋にこびりついた。

「オレ様、モウ飛ブ気力ガナイ……」。

 最初は意気揚々としていたグワカマヨも、しだいに弱って、ホホの肩に止まった。くったりと体の力を抜いて、頭にもたれかかってくる。

 鸚鵡の頭を指でかいてやり、ホホは片腕で抱いた蛇の子をみおろした。それはホホの痩せた腕にはあまる重さだった。蛇の子は、じっと、黒いでホホをみあげていた。時折首をのばしては、濡れた鼻頭で、ホホの喉や胸もとをくすぐってくる。そのたびに、ホホは、頭の奥の、ずいぶんとやわらかい場所を引っかかれるきもちになった。

 太陽が傾きはじめた頃、ホホは目的の塩原に辿り着いた。

 雨季であればうつくしい塩の湖が広がるという話だったが、あいにく今は乾季だ。ひび割れた大地には、塩の結晶がそこかしこにへばりついている。果てがみえぬほどの巨大な窪地には乾いた熱風が吹いていた。

 斜面の手前でたちどまっていると、古びた馬車が横を通りすぎた。木製の車輪がギリギリと音をたて、塩の層に沈みこむ。すると底に溜まった水が噴出する。馬車は難儀しながら窪地を渡っていった。

「グェーーッ、カライ、カライ。砂モ水モ塩モカライ、グェッ、グェッ」

 太い嘴で地面をつつき、滲みだす水を吸ってグワカマヨが文句をいう。ホホもその場にしゃがみこみ、試しに塩を数センチ掘った。

 あふれ出した水が、日の残照にギラギラと光った。

 ホホは立ち上がった。そして、歩きはじめた。

 窪地は広大で、見渡すかぎり、ひび割れた塩の大地が広がっていた。越えるには長い時間を要するだろう。ホホは幌馬車で盗んだ肉を取りだしてちぎり、グワカマヨに与え、噛み砕いたものを蛇の子に与えた。

 やがて夜になった。頭上の星は青白く光りはじめた。

 ホホはそれでも休みなく歩いたが、疲労を感じていないわけではなかった。いつからか下半身はおぼえのある痛みに支配されていた。腰が熱っぽく、時折、腹の奥の内蔵がぎゅっと絞られるような痛みがあった。

 歩けないほどの苦痛ではない。しかし思うように手足が動かせなくなると、ホホはついにその場で座り込んだ。蛇の子に並んでふところにもぐりこんだグワカマヨが、心地よさそうに寝息を立てている。ホホもまた、しばらく休息をとろうと考えた。

 そうして時が経った。

 ホホが目を覚ましたとき、めのまえには二人組の女がいた。樹脂の明かりを灯したランプを挟み、塩の大地に座り込んでいる。ともに黒い染織をまとい――黒い膚をした、一見してジプシーとわかる女たちだった。

 片側の、歯のない老婆は、膝に乗せた布の上でタロットを広げていた。皺がれた手で、その束をかき混ぜる。

 もう片方の女も年を取り、甲状腺腫をわずらっている。彼女はホホをみて、にんまりと笑った。やはり歯がなかった。

「玉蜀黍からつくられし民よ、南は黄金色に輝いているだろう。熟す前の玉蜀黍の穂、あの燃えるような色に。しかし人の子の魂は東に生まれ、西に沈む。南は生命が宿る前の場所、人の子が忘れ去った場所。ならばなぜ南に向かうのか」

 ひび割れた声が響いた。

 ホホは黙って立ち上がった。ふいに股に違和感があり、ためしに力をこめると、ざらざらと大量の石灰が排泄された。それまで彼の腹のなかにあった異物だった。

「人の子が向かうべきは西の方角。偉大なるパパ・グランデの魂が日没を迎えたように」

 ホホはおとがいをあげたが、それ以上の反応は示さず、頭から被った布を引き下げて目もとを隠した。そして今度こそ、一睡することなく歩きつづけた。

 夜明けとともに、ホホは塩原を渡りきった。


三、遺跡


 塩原の先には森が待ちかまえていた。

 深く、レモンの葉の清々しいにおいに満ちていた。

 曙光の薄あかりが、苔を厚くよろう樹幹、視界を覆う蔦のカーテンのあいまからほのかに光ってみえた。ハチドリは錦織の翼をはばたかせて、頭上のハタンキョウの実をつつく。

 かきわけるのが困難なほど茂ったイラクサを、ホホは拾った木の枝で懸命に押しのけた。ようやくできた隙間に身をくぐらせては、両手足にすり傷をつくりながら進む。

 一方で、グワカマヨは鼻歌まじりに地面を掘っていた。ミミズをくわえては「オ前モ食ウ?」とホホに話しかけてくる始末だった。

「イツモミミズ食ッテタシ、好物ナンダロ? 本当ニイラナイノカ? 栄養タップリ滋養タップリ! ムカシムカシ、ママガオレ様ニ食ベサセテクレタ懐カシノ味!」

 グワカマヨは近くの枝に飛びうつった。そこで凝血色の翼を勢いよくひろげると、ホホの頭上に大量のミミズが降ってきた。

「ミミズ、ミミズ。遠慮シナクテイイゾ、ホホ! オレ様ハ優シイグワカマヨ様、ミミズノ雨ダッテ降ラセチャウ!」

 グワカマヨは尾で枝を叩いて拍子をとり、左右に腰を振っては陽気に歌った。ホホは孔雀羊歯をちぎる手を止め、髪や服にまとわりついたミミズを払い落とした。でっぷりと太った何匹ものミミズが、地面の上で身をよじらせる。

「アーア、モッタイナイ。ナア、〝ばぶばぶ〟チャン、オ前ミミズ食ウ? オレ様ガ食ベサセテヤロウカ? アーン、ッテナ」

 グワカマヨは、ホホが片腕に抱いた蛇の子を覗きこんだ。赤子をあやすかのように小声で歌い、生きたミミズを恭しく嘴の先で差し出す。しかし蛇の子がホホしかみてないと分かると、呆れたように大仰な溜息をついた。

 ホホはグワカマヨのからだを押しのけた。握った木の枝に孔雀羊歯の蔦を巻きつける。

 すると突然、その奥から一匹の鳥が飛び出した。

 翠玉色のククル(ケツァール)だった。小鳥はまたたくまに飛び上がり、宙へと消えていった。

「キイッーーー! オレ様ヨリキレイナ鳥ナンテ! キライ、キライ! 密猟者ニ捕マッテシマエ!」

 グワカマヨは全身をふくらませて、ケツァールの飛び去った方角にむかって叫んだ。

 ホホは騒ぐ鳥を置いて、茂みにできた穴に身をくぐらせた。そして白い蘭の咲く地に出たのだった。

 あたりは霧につつまれていた。それはホホや蛇の子、そして後を追ってきたグワカマヨを乳白色の繭で包んだ。

 蘇合香とレモンの葉のにおいが遠のく。そしてあるときを境にして、蝋燭の火を一息でかき消すかのように、ホホの意識は忽然と闇のうちに落ちたのだった。

 やがて訪れたまどろみのなかで、ホホはひどい肌寒さを感じた。とっさに、熱いトウモロコシ牛乳アトゥールを飲みたいと思った。彼の頭をよぎったのは、失われた時間――故郷の家、壁にしみついた埃とかびの臭いだった。ホホは死んだ父親の染織を着て、トウモロコシ牛乳をすすっていた。炉の石鉢には火種があった。ホホはくすぶる灰を眺めながら、うまれもった余剰な器官に思いをはせていた。

 あのときも寒かった、家には沈鬱な気が満ちていた……。

 ホホは目を開いた。

 彼は濡れた土のうえに横たわっていた。あたりには白い蘭が群生していたが、先ほどいた場所ではなかった。

 なぜならば彼のめのまえには、それまでは存在しなかった、巨大な石造建築がそびえたっていたからだった。砂岩と石灰でかたちづくられた階段状の建物は、ホホの何倍もの背丈があり、長い年月に黒ずみ、一面をぶ厚い苔でよろっていた。

 ――「遺跡」だった。

 五〇〇年前に海からやってきた「征服者」のために、かつての国は「遺跡」となった。古く、ホホたち原住民インディヘナが奉じたという神の館は打ち棄てられた。「征服者」たちはホホの先祖たちの国を悉く破壊し――あらゆる知識、役に立つ道具、思想、嗜好品、音楽、伝染病、言語をもちこんだ。そのなかには新たな神のすがたもあった。

 みずみずしい青空は消え、曇天が、樹幹のあいまから覗いていた。霧がたえずたちこめている。ホホは身を起こし、あたりを見回した。隣にグワカマヨが横たわっているのをみて、死んでいるのかと思って触れると、それは心地よさそうに眠っているだけだった。

 ホホは立ち上がった。

 ――蛇の子のすがたがみえなかったのだ。

 ホホは蛇の子が包まれていた布を握りしめた。うろうろと遺跡の周辺を歩きまわる。そしてどこからか鳴き声が聞こえたのに、小走りになって、ホホはその出所であろう方角にむかった。

 蛇の子は遺跡の影にいた。

 あわてて駆け寄って、ホホはそれを抱き上げようとしゃがみこんだ。蛇の子は腹ばいになって近づいてきた。

 ホホは蛇の子に足の指を噛まれた。突然のできごとだった。甘噛みで、痛みはともなわなかったが、行為は執拗だった。

 ホホはとっさに、足で払いのけようとして空ぶった。ぬるぬると、蛇の胴体が脚の間にもぐりこむ。ふくらはぎや内腿に触れる羽毛の感触がこそばやく、同時に、ひどく後ろ暗いきもちにさせられた。太ももで挟んでしまえば、奥に進みたくてたまらない蛇の子は、あのミミズたちのようにウネウネと身をよじらせた。

 蛇の子の胴体をつかみ、今度こそ引き離す。一度はホホの腕に抱えられた蛇の子は、大きく口を開いた。そしてその鋭く尖った歯で、ホホの喉もとに噛みつこうとした。

 すんでのところで蛇の子を突き放したものの、ホホは体勢を崩してその場に倒れ込んだ。すかさず、蛇の子がすりよってきて、今度こそとホホの喉を噛んだ。

 ホホは痛みに目をすがめることとなった。

 深手には至らない、しかし確かに、やわらかい皮ふと肉に歯が突き立っている。蛇の子の口から、どろどろと、あの虹色に光る粘液が溢れだしてはホホの首筋を垂れた。

 発情のきざしがあった。

 ――ホホは彼らの生態をよく知っている。

 執拗に喉を噛んだ蛇の子は、今度はホホの服の上を這って、その下にもぐりこもうとした。

 ホホの黒髪、鎖骨をつたってあばらのくぼみにまで、粘液がどろどろと垂れこんでくる。頭皮や皮ふの薄い部分がひどく痒く、発熱した。このいきものをどかそうにも腕に力が入らず、ホホは焦点のさだまらぬ目で頭上をみた。

 空は遠く、木々の梢に覆われていた。

 霧がひとりと一匹をとりまいた。厚い雲の底に沈んでいるようだった。ホホの腹でうごめいていたいきものは、霧のなかで突然動きをとめた。

 海綿が水を吸うようにたちどころに膨張し、羽毛が周囲に抜け落ちる。それは変貌したのだった。いくつもの太い管が複雑に絡みあった異形の姿かたちに。無数の肉筒は白い。熱した牛乳の膜のような、薄く脆い皮ふが、呼吸をするたびにぬるぬるとかすかにうごめいた。

 ――羽毛ある蛇ククルカンは、時に、白い顔の男として現れるという。そのためにホホの不幸な先祖たちは、突如海の方角からやってきた征服者たちを、神の再来だと信じてやまなかった。めのまえのいきものはそうした古い伝承を連想させた。しかしそうと言い切るにはひとの子にはほど遠い姿である。

 無数の白い管はたがいにもつれ合い、風に揺られた。

 ホホは、そのいびつな生物が生殖行為をはじめるであろうことを理解していた。ホホの肉体にはその資格があって、めのまえのいきものは、本能でそれを知っているであろうから。

 何本ものいびつな手足がホホの肉体に絡んだ。

 ひんやりと冷たく、ぬるぬるしていた。

 ホホはふいに息苦しさを覚えた。喉もとでなにか形にならないような感情がつかえている。眩暈に暗んだ視界に、ある印象が過ぎった――その紫ばんだ帳のむこうに幼い少年がいる。痩せほそる腕になにかを抱いている。乳白色の皮膜に包まれた、やわらかくて、あたたかい……。

 ホホは叫ぼうとしたが、そもそも叫ぶための声がなかった。

 代わりに、だらりと投げだした腕の先に、冷たく、硬いものがあることに気がついた。石だ。遺跡から崩れてきたものかもしれない。ホホはとっさにそれを掴んだ。

 そして、そのいきものを殴った。

 白い手足は脆かった。ぐずぐずに煮た玉蜀黍とうもろこしと同じくらいにはやわらかかった。石は無数の管を叩き潰し、破裂させた。そのたびに内側から粘液が噴出した。何度も、何度も、ホホはくりかえし、握った石で蛇の子を殴った。やめどきがわからなかった。この手の動きを止めたら最後、後悔で身がつぶれるであろうことを理解していた。

 ちぎれた管が、無数のミミズのように、土の上でのたうち回る。むせるようなアンモニア臭が漂っている。

 ホホは全身から虹色に光る粘液をしたたらせている。頭皮も、頬も顎も首も、衣服も、手足も、赤い発疹が浮いていた。

 ホホはうなだれた。


四、火山


 ホホの手足はむざんに腫れている。無数の爪あとがある。夜通し、痒みに耐え切れずかきむしったせいだった。赤いまだら模様は、その癖のある毛髪に覆われた頭皮、喉、足のつまさきにいたるまで、彼のからだに力強く根を張っていた。

 ひび割れた岩のくぼみに溜まる湯に、彼は赤く腫れた足を浸していた。いたるところにある噴気孔がもたらす水蒸気で、視界は白くくぐもっている。熱気は、湯だまりで棒立ちになったホホのはだかを、やさしくとりまいたが、かきむしりすぎて敏感になった皮ふは、それにさえピリピリと静電気の走るような痛みをよびおこした。

 ホホはぼんやりと、爪の間に溜まった皮ふと膿のにおいを嗅いでいたが、ふとその場に屈みこんで、湯の底に沈めていた布を引き上げた。染色が溶け、水のなかで青い渦を作っている。肉のない尻を岩底に沈め、彼は布を硬く絞った。繊維まで絡みついていた粘液は、すっかりきれいになっていた。立ち上がって頭から布をかぶると、今度は、じぶんの足もとで揺れる細い布いれをみおろした。

 破れかぶれの薄い布は、みずからの毒にのたうち回る蛇のように、湯をたゆたっていた。


「ナア、ホホ、“ばぶばぶ”チャン、ホントウニドコニ行ッタンダ? マサカオレ様ニ黙ッテ食ッッチャッタノ? 目ガ覚メタラ、ドコニモイナイナンテ!」

 噴気孔の密集地帯から戻ったホホを、グワカマヨが出迎えた。この鳥は翼が湿るのを嫌がって、ホホとともに行くことを拒んでいたのだった。

 ホホは濡れた髪を絞りながら、うつむきがちに、その横を通り過ぎた。それが不満だったのか、グワカマヨは後ろから回って、ホホの前に躍り出た。

「ナアナア、ホホ、ナアーーギャッ」

 無言でグワカマヨの胴体を掴む。グワカマヨはうめき声をあげて、手足をばたつかせた。ホホはすぐに鳥を離した。

「ナニ怒ッテンノ? バーカバーカ、ホントニチンチンハエテンノ? オイッ」

 悪態をつきながら、グワカマヨがホホの鳥の巣のような頭をつつく。猛攻をしかけてくる鳥を、ホホは何度も追い払わなければいけないはめになった。

 遺跡の森を抜けたふたりは、ほどなく火山地帯に至った。ゆるやかな稜線をえがく熱の大地は、ほうぼうで水蒸気の柱が立ち、点在する竜舌蘭や蘇合香の樹を濡らしている。ふもとにはトウモロコシ畠の広大なエンコミエンダが広がり、その濃やかな緑が赤い土地を覆っていた。

 辺境アウディエンシアは、元来火山の多い土地である。噴火と地震をくりかえし、そのたびにたくさんのものを無に返しながら、原住民インディヘナたちが綿々と系譜を繋いできた土地であった。

 ホホも昔はその話を聞かされたものだった。

 いまだ痒みをともなう腕をボリボリとかきながら、ホホは畠沿いの道を進んでいた。遠目に村落をとらえていた。幌馬車で盗んだ干し肉は森を出たところで尽き、空腹は頂点に達していた。玉蜀黍が実る季節だったが、はだしで畠に立ち入って毒蛇に遭遇することは避けたかった。

 あそこに行けばなにか食えるものがあるだろう。

 だからホホは延々その道を歩いた。空はホホのまとう染織よりも青く、あざやかな光を放つ。背丈の高いトウモロコシは道の果てまで影を連ねていた。わずかな風にサワサワと、まだ未成熟なみどり色の房を揺らしていた。

 ホホは道の果てで陽炎が揺れるのをみつけた。

 高地の陽射しは苛烈で、むきだしの刃物のような光を、ホホの首筋や守るもののない手足につきつけた。しだいに朦朧とする頭の片隅で、ゆらめく熱の塊が、ホホはなにか別のものにみえたように感じた。それはじぶんが殺した蛇の子にも、母と手を繋いで歩く幼いじぶんにもみえた。あるいはもっと別のなにか――ホホがほんとうに望むもの。

 風に砂埃が立つ。黄色くよどんだ視界のむこうで、陽炎は姿を消した。ホホは目を細め、よくよく煙幕を見通そうとした。しかし姿を現したのは村落の小さな門だけだった。

 ホホは門をくぐった。

 覚束ない足どりで歩いて、ひときわ立派な家をみつけた。きっと領主の家だろう。色あざやかな化粧タイルと白い石で覆われた壁に、太陽光がぶつかってはきらきらと砕け散っている。その人気のない庭にふらふらと立ち入った。

「ホホ、ドコイクンダ?」

 グワカマヨが後を追ってくる。ホホは屋敷の裏手に納屋があるのを見つけた。なかを覗くと、いきものが飼われている気配はなかった。ホホは山積みになった藁のなかにもぐりこんで、休息を取ることにした。空腹もそうだが、首都を飛びだしてから、あまり睡眠をとれていなかった。いちはやく南に至ることばかりを考えていたためだった。

 ホホが麦藁のなかで丸まると、グワカマヨがやってきて、彼もその横で翼をたたんだ。

 ひなたのにおいがした。

 ホホはこんこんと眠った。

 そしていくつもの夢をみた。

 夢のなかには宮殿の風景もあれば、森、トウモロコシ畠、生まれた家さえもあった。蛇の子の夢もみた。何本もの白い触手を風に揺らめかせながら、遺跡そばの湿った土の上で、ホホを待っていた。だから、ホホは何度だって夢の中でその子を殺さねばならなかった。

 ホホはこの土地を捨てる身だから。

 ――東の海を渡って、会いにいかねばならない。

 ――じぶんだけの、運命のつがいに。

 ずいぶんと昔、ホホにはそれがいた。今は身を隠してしまったけれども、きっとそこに彼がいるはずだろうと信じている……。

 夢の中でトウモロコシの種を拾う幼いじぶんが、ホホが見たいくつもの夢の、最後だった。

 ホホは目を覚ました。上体を起こして両脚を動かした拍子に、股からざらざらと少量の石灰がこぼれた。藁に隠れていた南京虫に刺されでもしたのか、石灰のこびりついた腿の内側は赤く腫れていた。

 グワカマヨを揺すって起こし、ホホは納屋を出た。

 丸一日は寝ていたことを、ホホは太陽の位置から知った。おかげで手足は軽くなった。しかし空腹は癒えていない。ふらふらと庭先に出ると、トウモロコシの実をつつくニワトリをみつけた。丸々と太って、ずいぶんおいしそうにみえた。

 ホホは背後から忍び足で近づき、その鳥を捕まえようとした。その矢先、家から人が出てきた。

「ホホ!」

 グワカマヨが叫び、ホホはとっさに走り出した。

 家の人間が追いかけてくるのを視界の端に捉える。だからホホはどこまでも走っていかねばならなかった。やみくもに走り、村落を駆けぬけて、気がつけばみしらぬ場所に立っていた。ひらけた赤い土地で、無数の噴気孔がもうもうと白い湯気を立てていた。追っ手はもうみえなかったが、ホホは目についた小さな洞穴に、身を屈めてすべりこんだ。

 グワカマヨを胸に抱き、その場で小さく丸くなる。荒れる呼吸や心音をなだめながら、日が傾くまではここにいようとホホは心に決めた。

 どうやら小さな祠に逃げこんでしまったようで、五色の蝋燭や乾燥して縮んだトウモロコシの種、色あざやかな布や割れた生卵などが、ホホの体の下敷きになっていた。ホホはあるものを見つけると、狭いなかで身をよじらせ、奥にむかって腕を伸ばした。石碑があった。指でなぞって埃を拭うと、たしかになにかが彫り込まれている。

 ――羽毛ある蛇ククルカンだ。

 原住民インディヘナたちの神に対する信仰はいまだ息づいている。時に新たな神と交合し、時にその影に隠れながら。ホホはそっと、羽毛ある蛇ククルカンをかたちづくる線をなぞった。執拗に、何度となくその線を辿った。

 あいたい、と、ホホが思った、その瞬間だった。

 ひどく近い場所で、巨大な爆音が響いた。

 大地がけたたましく震え、ホホの身体は上下左右に激しく揺さぶられた。どうどうと白い噴煙が洞穴のなかにまで侵入してくる。「噴火ダ!」とグワカマヨが騒いだ声が聞こえたが、それも断続的に響く破裂音に掻き消えてしまった。

 まもなくして、ごろごろと無数の石が転がる音が響いた。それはホホの隠れる洞穴の上さえも通り過ぎて、あちこちに飛んでいく。熱風に煽られた大量の火山灰が日の光を遮り、あたりにはどんなあかりもみえなくなった。ホホは身を縮こまらせてグワカマヨを抱きしめ、硬く目をつむった。灰が口のなかにまで入り込んで息苦しかった。

 ゴロゴロと、石の転がる音がする。

 ほうぼうに散っては、たがいにぶつかりあい、地面を叩いては斜面を転がっていく。

 ホホは延々、くらやみのなかでその音を聞いた。

 しだいに心音が速くなり、硫黄臭や灰のためだけでなく胸が苦しくなった。

 ホホはむしょうに悲しくなり、寂しくなった。

 同じように石の雨が降った日のことを知っている。


 ――ホホのからだには余剰な器官がある。子宮だ。

 それこそが羽毛ある蛇ククルカンの恩寵だった。

 九つでホホは孕み、十で子を産んだ。

 ホホの産んだ子は、ひとの形を成していなかった。乳白色の皮膜に包まれた、ぶよぶよとした肉の塊だった。はじめてその子を抱いたとき、あたたかく、呼吸をしていることに驚いたことをおぼえている。

 原住民インディヘナには、「竜蛇の腹」をもつものがいる。男女は問わない。かつて羽毛ある蛇ククルカンが東の海に去るはるか昔――雄しかいないかの種に代わってその子を産むのが人間、ひいては「竜蛇の腹」の持ち主の役割だった。そして「竜蛇の腹」にはかならず、生まれる以前にその恩寵を与えた羽毛ある蛇ククルカンがいる。

 それが運命のつがいだという。

 ホホは幼くしてそれに出会った。なりそこないではない、東の海に去ったはずの、ほんとうの羽毛ある蛇ククルカンに。しかし生まれた子どもはひとでも蛇でもなかった。なりそこない以下だった。

 ホホは産んだ子をおそれ、井戸の底に投げ捨てた。

 そしてそのために、ホホの母は死んだのだった。

 ホホの母もまた「竜蛇の腹」の持ち主で、子産み女だった。彼女の仕事といえば、羽毛ある蛇ククルカンのなりそこないと交わり、肉となる家畜を増やすことだった。今なお羽毛ある蛇ククルカンを奉じる原住民インディヘナが最も軽蔑すべき仕事だったが、母はそれで生きる糧を得ていた。父親が死んでから、ずっと……。

 井戸の底に捨てられた子を発見した村人は、結果的に母の「仕事」を暴くこととなった。母は井戸に捨てられた子の母親を自分だと偽り、彼らの私刑に処された。森のなかで輪になった村人たちは、母にむかって石を投げた。ホホもまたむりやりその輪に加えさせられて、石を握らされた。

 母に石をぶつけたホホは、たまらなくなってその場から逃げ出した。生まれ育った村落を飛び出した幼い子どもは、人攫いに捕まった。彼が行き着いた先は、パパ・グランデの住まう宮殿だった。ホホはパパ・グランデの愛玩動物のひとつとして売り払われたのだった。

 ホホはあの日、じぶんの投げた石が――母の命を奪う決定打になったのだと、信じてやまない。

 そうして過去はホホのあらゆるものを破壊した。

 そしてホホを徹底的に異質たらしめた。うまれながらに余剰な器官をもちながら、決定的になにかが欠けている、そのような不安にとり憑かれてやまなかった。声さえ無いじぶんは、だれとまみえようとも、どの身分のものに囲まれようとも、腹の底にへばりついた悲しみが泉となって、彼に甘い水を与えつづけた。余剰な器官とひきかえに、癒えることのない孤独がホホをとりまいた。

 だから「彼」が死んで、今度こそほんとうにひとりになると、もはやこの土地に居場所はないことを知った。

 けれども南に往けば、この罪深い魂は癒される。

 運命のつがいが、今度こそ心の空虚を満たすであろうから。


 ホホはグワカマヨに頬をつつかれて、目を覚ました。身を起こそうとしたが、からだの大部分が火山灰に覆われ、そこから抜け出すのにずいぶん手間取った。ホホは何度も咳きこみ、口のなかにへばりついた灰と砂を吐き出した。

 あたりは静寂を取り戻していた。

 ホホが洞穴から這いでたとき、黒い薄絹のように蔓延する火山灰の靄のなかを、わずかに太陽の光が射していた。

「ナニモ、ナクナッタナア、ホホ」

 グワカマヨが呟いた。

 見わたす限り、あたりは灰に覆われていた。村落があった場所も、広大なトウモロコシ畠も。灰は厚く降りつもり、大概のものをその黒色で埋め尽くしてしまっていた。

 なまあたたかな、硫黄臭を含む風だけがその上を通りすぎていった。灰の海はサラサラと波打ち、ひかりを照り返した。そうして銀色に光った。

 ホホはいまだ熱を持つ灰を踏みしめ、一歩、二歩と歩きはじめた。髪や手足から、ざらざらと砂が落ちていった。

 灰がしみた目を、ホホはゆっくりと細めた。


 ――南を目指さねばならなかった。



終、南の港


 そしてホホは南に至ったのだった。

 そこでホホは、羽毛ある蛇ククルカンの住まう島に渡る船が定期的に出ることを知った。しかしいつ来るかはわからず、誰がそれを操舵するのか、誰にその船に乗る資格があるかもわからない。五十二年に一度出る船は、前がいつだったのか、次が何日、何年後なのかもさだかでない。

 ホホは港町に逗留することとなった。

 教会の人間がやっているという救貧院に身を寄せてまもなく、マラリアに罹患した。高熱は数日続き、寝ても覚めても、からだの末端にまで湿った泥がつかえているような不快感があった。グワカマヨはしばしばミミズや小魚をくわえてホホの枕元を訪れたが、しだいに、それにさえろくな反応を返すことができなくなっていった。

「ホホ、ホホ、元気ニナレヨォ、〝パパ〟モホホモイナクナッタラ、オレ様ノ遊ビ相手、イナクナッチャウ」

 ぴぃぴぃと鳴く鳥の声ばかりが、ホホの青黒い視界を反響した。


 ホホが目を覚ましたとき、周囲には誰もいなかった。

 汗と皮脂で黄ばんだ敷布シーツに横たわり、ホホはしばらくぼんやりとして、汚れた窓から射すあかりを眺めた。それは土の壁にまだらな日の模様をえがいていた。

 ひとの気配もなければ、どんな音もきこえなかった。

 ホホがふいに髪の生えぎわをくとぼろぼろとフケがこぼれた。遅れて四肢がすっかり軽くなっていることに気がついた。ホホにとり憑いてやまなかったあの死病は忽然と消えうせていた。

胸のすいたようなきもちになり、ホホは笑った。起き上がり、寝台から足を下ろす。そして彼は港まで走っていった。

 港には磯と魚の干物の臭いがたちこめていた。湿った風がホホのひさしく洗われていない髪をなぶる。太陽は乳脂バター色のひかりで、波止場のくずれかけた木材を焼けつかせた。波止場の端で足をとめ、ゆれる海面をみつめていたホホは、ふいにそこから飛び降りた。

 なまあたたかい海に腰まで浸かった。海は虹色の光沢を帯びてさんざめいていた。ざざん、と、波がホホの痩せぎすのからだに打ち付けるたびに、きらきらと飛沫が散った。

 足もとの海藻がぬるぬると脛に絡みつく。

 みわたす限り、海は遠く、どこまでも続いている。

 ホホはふいに苦しくなって、その場でしゃがみこんだ。肩まで海水に浸かると、膝を抱えてうなだれる。嗚咽をこぼそうにも喉がひからびてどんな音もだせなかった。ただ痩せたからだに押し寄せるなまぬるい水だけを感じた。

 ホホは腹に力をいれた。濡れた髪が目や口にはりつき、わずらわしかった。彼は声もなく呻き、ひどく苦しみながら、腹のなかのものをすべてひりだそうとした。排泄物が海に溶けていった。彼はそれをあの日じぶんが産み損なったものの一部分だとさえ思った。最後に鮮血がこぼれた。あざやかな赤色は、一本のリボンのようにとぎれることなく、円をえがいた。そして透明な水のなかを流れていった。

 もはやなにもおそれるものはないとホホは思った。

そして顔をあげ、塩辛い水にまみれた顔を日にさらした。あかがね色の肌に光がすべり落ちる。

 瀝青れきせいの目は水平線をみつめる。


 それは輝いた。

 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る