(6)ー3



 階下に降りてゆくと、ミトがまな板の上で何かを刻む音が聞こえてきた。デュカスは板張りの廊下を通って台所へと向かう。デュカスの気配に気付いたのか、ミトが振り返った。

「今、作ってるとこやから。その辺に座って待っとって」

 デュカスは頷く。台所に入り食卓に近付いた。しかし。

 ちらりと視界の端に映ったものに対し、デュカスはびくりと肩を震わせる。視線を戻すと、そこには石造りのかまどがあった。中にはたきぎがくべられ、勢いよく燃えている。ぱちん、と薪の弾ける音がした。

 いけない。見てはいけない。頭の奥で警鐘が鳴り響く。これは見てはいけないものなのだ。分かっているのに、デュカスの目は竈に釘付けになり、逸らすことが出来ない。

 赤い炎が、網膜に焼きつく。炎。赤い。真っ赤な。あの時と、同じの。

 目に映るものが奇妙に歪み始める。足元の感覚が不安定に損なわれる。額には冷たい汗が流れ、デュカスは何度か瞬いた。

 自分は燃え盛る炎の中を歩いている。背中には負傷したイニャキを背負い、右手では姉の手を引きながら。落ちてくる天井、焦げつく左腕の痛み、そして―放してしまった右手。炎の中で、姉は微笑む。

『さようなら』

 紡がれる、最期の言葉。

 かたかたと震えながら、デュカスは自分の右手を見つめた。動悸が加速する。呼吸が荒くなり、指先は氷のように冷たくなる。

 姉はその最期に、微笑んでいたのだ。

 次の瞬間、思考が一気に消し飛んだ。

「うああああああーーーーーーーっ!!」

 突如叫び声を上げたデュカスを、ミトが驚愕の表情で振り返る。

「ちょっ……、デュカくん!? どないしたん!?」

 手にしていた包丁を流し台に置くと、ミトは慌ててデュカスに駆け寄る。しかしデュカスは気がれたように叫び続ける。落ち着かせようとミトが差し伸べた手も、激しく振り払った。

「ああああああああああーーーーっ!! うああああああーーーーーー!!」

 叫びながら、デュカスは自らの右手こぶしを台所の壁に叩きつけた。顔を歪め、何度も何度も、激しく叩きつける。

「嫌だっ……。オレの……オレのせいで、姉さんがっ……!」

 吐き出されたのは、自責の言葉。

 その意味を察し、ミトは思わず自分の顔を両手で覆う。デュカスの負った心の傷は、ミトには想像もできないほどに深いものなのだ。

「デュカくん……」

 震える声で名を呼ぶが、彼の耳には届いていない。おぼつかない足取りで壁に寄りかかったかと思うと、デュカスは力なく床に座り込む。そして自らの右手を見つめ、再び双眸を見開いた。

「あああああああーーーーーっ!! ああああああああーーーーーー!!」

 その表情かおは、狂気としか表しようがない。傷だらけの手が更に出血し、それでもなお、右手を壁に叩きつける。

 ミトはなすすべもなく、台所に立ち尽くす。どうしたらよいのだろう。自分に一体、何が出来るというのだ。

 その時、店の方で風鈴の鳴る音が微かにした。客だろうか。しかしこんな状況では接客など出来るはずもない。ミトはますます困惑する。どうしよう。どうすればよいのだ。

 しかし慌しい足音とともに駆け込んできたのは、買い物客ではなかった。

 見上げるような長身、この辺りでは珍しい金色の髪。―先ほど、デュカスを運んできた本人。ミトは安堵のあまり、気が緩む。目の淵に涙が滲んだ。

 彼―ハルトは台所の入り口までやってくると、叫び続けるデュカスを見て、次にミトの方へ向き直った。

「どうしたっ! 何があったんだ!?」

 ミトは涙を浮かべながら、首を左右に振る。

「デュカくんが…。急に叫びだして、ウチ、どうしたらええか分からんくて……」

 ハルトは厳しい顔つきになる。大股でデュカスに近付くと、彼が再び壁に叩きつけようとして振り上げた右手を掴んだ。

「デュカス、落ち着け!」

 しかしその声もデュカスには届いていない。右手を捕らえられた姿勢で座り込んだまま、じっと床を見つめ、体を震わせていた。焦点の定まらぬ目は、恐怖に怯えきっている。

「火が、上からっ…。姉さんが、姉さんが…! オレのせいで、姉さんがっ……!」

「いいから落ち着け!」

 ハルトはデュカスの両肩を掴むと、自分の方へと向き直させる。しかしデュカスはハルトを見てはいない。その肩越しに何かを見つけ、さらに表情を強張らせた。

「うあああああぁーーーーー!! うああああああああーーーーー!! 嫌だ! 嫌だ! 火が、姉さんが……!」

 ハルトは自らの背後を振り返る。視線の先にあったのは、勢いよく燃えるかまどの炎。慌ててミトに向き直る。

「火を消せ、早く!」

 ミトは泣き顔のまま、ハルトと竈を見比べる。そして頷き、桶に溜めていた水を、竈に向かってぶちまける。じゅっ、という音を立てて火が消える。細い白煙が立ち昇った。

 しかしデュカスの錯乱は収まらない。肩を掴んでいたハルトを突き飛ばすと、床に這いつくばった。

 何も見えない、何も聞こえない、何も考えることが出来ない。脳裏によみがえるのは、燃え盛る赤い炎と、穏やかに微笑む姉の姿だけ。

 デュカスは胃の辺りに鈍痛を感じた。胃袋を見えない手で鷲掴みにされたかのようだ。激しい嘔吐感が募る。引きつった痛みに耐え切れなくなって、思わず喘いだ。

「うぇっ…。ぐっ……」

 しかしいまや空洞となった臓腑からは何も出てはこない。胃の痙攣がますますひどくなるばかりだ。目の淵には涙が滲み、視界が霞んでくる。意識さえも朦朧としてくる。しかし。ものすごい勢いで肩を掴んで引き戻され、デュカスはその場に倒れこまずに済んだ。

「お前のせいじゃない! お前のせいじゃないんだ!」

 怒号にも近い声が耳元で響く。虚ろな瞳で、デュカスは目の前の男を眺めた。

「いいか、お前は何も悪くないんだ!」

 どこかで聞いたことのある言葉だ、とぼんやりと思う。どこで聞いたのかは思い出せないが、その言葉はデュカスの心にするりと入ってきた。

 少しずつ、視界が鮮明になってゆく。胃の痙攣も収束する。

 ようやくのことで、デュカスは我に返った。ハルトの水色の目が、自分の様子を注意深く見守っていることに気付く。

 デュカスは二、三度、瞬いた。辺りを確かめるように、視線を中空へとさまよわせる。

 その目に映ったのは、両手で己の胸元を強く握り締めている、ミトの姿。ミトは目に涙を浮かべ、口を引き結んでいる。彼女の顔を直視することが出来なかった。

「ミト姉、ごめん。オレ……」

 目を伏せたデュカスの元へ、ミトが歩み寄る。そして何も言わずにハルトの傍らに膝を突くと、そっとデュカスを抱きしめた。

 ミトの髪の芳香が鼻をかすめる。

 女性特有の柔らかなぬくもり。それが、今のデュカスには更なる苦痛に感じられた。

 しかし何も言わなかった。身じろぎ一つしなかった。ぼんやりとミトの肩越しに、炎の消えた竈を眺める。

 やがてミトはゆっくりと顔を上げると、涙に濡れた目で笑ってみせた。デュカスも、そして傍らのハルトも、虚を衝かれる。反応に困る二人には構わず、ミトは一人立ち上がる。

「二人とも、お腹すいたやろ? 晩御飯作るわな」

 言うなり、流し台に戻って包丁を手に取る。そして振り返った。

「今はウチら三人、みんながみんな、精一杯やからさ。とりあえずお腹いっぱいにして、それから考えよ?」

 ミトの言葉はもっともだった。今の状態で三人がまともに会話できるはずもない。ハルトもそれを察したのだろう。ほんの少しだけ、表情を和らげた。そして苦笑する。

「そうだな、夕飯をもらえるとありがたい。なにしろ朝から何も食べてないんだ」

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