(5)ー2
次の部屋に窓はなかった。しかし驚いたことに、扉が少しだけ開いたままになっていた。室内の明かりは点いておらず、やはり人の気配もなかった。扉には、「カルテ保管室」の表示。ラウルはそっと扉を押し開ける。
闇の中に、書棚の列が浮かび上がった。棚は部屋の右端から左端まで、それぞれ人が一人通れるくらいの間隔をあけて並列している。棚の中には同じ大きさのファイルが整然と収められていた。それら全てが、患者のカルテなのだろう。
部屋全体に視線を配りながら、ラウルは暗がりの中を一歩ずつ前に進む。夜目に慣れていたため、物につまずくことはなかった。天井近くに設置された換気口から、かすかに風の音が聞こえてくる。先ほど納体袋を発見したためか、そんな音すらも気味悪く感じてしまう。
臆するなど、らしくもない。苦笑しながら、慎重に足場を確保してゆく。
背の高い書棚に囲まれて、部屋の中央には大きな閲覧机が据えられていた。ラウルは立ち止まる。
机の上には様々なものが散乱していた。書類の束、筆記用具、灰皿、煙草、ライター、開きっ放しの本、丸められた紙くず――全てが、「使ってそのまま放置した」というのがあからさまの状態だ。開け放した扉といい、ここの利用者のずさんさが伺われる。しかしラウルも人のことは言えない。記事の執筆に追われている時の自分の部屋も、これと同じような状態になるのだから。
「何やしら、調べ物でもしとったんかな」
机に近付き、書類の束に目を落とした。どうやらカルテのようだ。患者の病状について調べていたのだろうか。暗いので、文字までははっきりと見えない。
ラウルは右側の内ポケットをまさぐり、小型の懐中電灯を取り出した。片手で器用に点灯すると、机上のカルテを照らし出した。光の輪が紙面上で暗闇を切り取る。その中に浮かび上がったのは、またもや『リチャード・トールキン』の名前。ラウルは思わず身を乗り出す。
カルテには患者の姓名と認識番号、所属部隊などがタイプライター文字で明記され、その下には担当の医師が書いたと思われる走り書きの書体で、患者の症状などが断片的に記述されていた。
念のために辺りを見渡し、やはり人の気配がないことを確かめると、ラウルは再びカルテに目を落とす。
「トールキン」の最初の来院日は、今日から三日前。下痢と頭痛を訴えていたらしい。しかしその日のうちに「吐血」し、「即日入院」。その翌日の未明には「死亡」とある。
ラウルは眉をひそめる。そんなにも短期間で悪化するなど、一体どのような病気なのだ。
更に先を読み進めるが、カルテの後半部分は全く違う人間の書体になっていた。担当医師が変わったのだろうか。
後半の文章、こちらも単語の羅列なのだが、病状とは全く関係のない内容だ。
第三十八地区派遣部隊。第三班。第二管区上陸。防護服着用。現地での滞在時間、約六時間。被曝。
ヒバク?
聞いたことのない言葉だった。ラウルの頭はますます混乱する。
トールキン中尉のカルテを持ち上げると、その下にも同じようなことが書かれたカルテが重なっていた。その数はトールキン中尉も含め、全部で八つ。やはりこれも、「トールキン中尉の小隊」の面々――すなわち、あの死体袋に保管されている人々なのだ。八人が八人とも、第三十八地区に派遣され、その数日後に死亡している。
彼らは、亜州第三十八地区に派遣されていたのか。何故、そのような遠いところへ。
ラウルはじっとカルテを見つめる。考えろ。考えるのだ。そしてこれらの情報を自分の中で整頓するのだ。
「トールキン中尉の小隊」は、表向きは現在、どこかの地区に派遣中ということになっている。しかし先ほどの部屋には、彼らの遺体が安置されていた。目の前のカルテによると、小隊の面々はどうやら第三十八地区に派遣され、その数日後に死亡したとある。わざわざカルテに明記するくらいだから、やはりその派遣が原因で死に至ったのであろう。
彼らは第三十八地区に派遣され、非常に進行の速い病気に感染し、死亡した。そういうことだろうか。第三十八地区には何らかの細菌が蔓延しているのだろうか。
そこまで考えてからラウルはふと顔を上げた。細菌。その言葉が心に引っかかったのだ。
カルテを左手で持ち上げたまま、考えられ得る全ての可能性を、頭の中に列挙する。
「実験……?」
呟いてから、ラウルは自分でもぎょっとした。まさか。
しかし頭の中には、酒場で大佐殿と交わした会話が繰り返される。
大佐殿は、巨額の予算が新兵器製造に当てられていると言った。話を聞いて、ラウルも彼の主張に同意した。だからこそ今、ここにいる。
仮に、大佐殿の言う新型兵器が本当に製造されていて、しかも既に完成していたとして。
軍はまず、その威力や効果、二次被害などを確かめるために爆破実験を行うはずである。実験―すなわち人家のない土地を選び、あらかじめ破壊目標物なども用意し、完成した兵器を実際に使用してみるのだ。使用するだけでは意味がない。実験後の様子を調査し、記録する必要がある。
その実験場として、亜州第三十八地区に白羽の矢が立てられた。調査隊として、「トールキン中尉の小隊」が派遣された。そんな可能性はないだろうか。
陸軍の開発した新型はやはり毒ガスあるいは細菌兵器であり、調査に関わった小隊の面々は何らかの物質に感染して死亡した。あり得る話だ。
兵器の製造主である科学者たちは、当然のことながら新兵器の危険性は十分に認知していたはずだ。だからこそ、危険な調査は全て軍人に任せ、自分たちは安全な場所から記録を取っただけなのではないか。ひょっとすると「トールキン中尉の小隊」は、調査のための生贄とされたのではないか。
ラウルは苦い笑みを浮かべる。
大きな成果を得るためには小さな犠牲も厭わない。軍隊とはそういう組織だ。
しかし妙だ。実験を行うのならば、欧州内部でやればよいではないか。なぜわざわざ、遠く離れた第三十八地区などで行うのだろう。
ラウルは考え込む。それなりの理由があるのだろうが、軍隊の事情など、自分には知る由もない。
ともあれこのカルテだけでも十分な収穫である。持ち帰って更に調査を進めれば、新兵器とトールキン中尉の病の関連性が分かってくるかもしれない。
小型カメラを持ってこなかったことが悔やまれた。あれさえあれば、この場でカルテを写真に収め、情報だけを盗み出すことができるのに。侵入時の軽装にこだわったため、置いてきてしまった。
しかし今さら後悔しても遅い。カメラがないとなれば、カルテそのものをここから持ち出してやるまでだ。勿論それは犯罪行為である。見つかれば極刑は免れないだろう。だがここまで来た以上、もう後戻りは出来ない。
ラウルはそっと唇を舐めた。そして、新たな書類の存在にふと気付く。開きっ放しの本の下敷きになって、数枚の紙束が端を覗かせていた。本を脇にどけると、手にとって眺めてみる。
「『核の冬現象に関する報告書』……? 何や、これ?」
タイプ打ちされた文字が、紙面いっぱいに細かく並んでいた。この書類も何か関係があるのだろうか。読み進めようとした、そのとき。ラウルの耳に、不意に物音が飛び込んできた。
談笑だった。廊下から聞こえる。ラウルは思考を中断させると、体を緊張させる。まだ職員が残っていたのか。
やがてどこかの扉が閉まる音がして、話し声は止んだ。一人分の足音だけがこちらに近付いてくる。ラウルはカルテや書類を元に戻すと、懐中電灯を切り、慌てて書棚の陰に隠れる。耳をそばだて、足音が部屋の前を通過していくことを祈る。
しかし足音は、このカルテ保管室の前で止まった。足音の主は、扉を開き、部屋の中に入ってくる。コーヒーの香りがラウルの鼻をかすめた。
職員は部屋の電気を点けると、書棚を通り過ぎて閲覧机にやってきた。ラウルの存在には気付かずに、椅子を引き、腰を落ち着ける。手に持っていたカップを机の上に置いた。こいつ、ここに長居する気である。ラウルは内心舌打ちした。
書棚の隙間から、職員の様子を観察する。男だった。小柄に猫背体型ではあるものの、まだ若い。白衣を着、眼鏡をかけた神経質そうな雰囲気は、いかにも研究者といった風貌であった。
彼は先ほどラウルが読んでいたカルテを手にすると、ざっと一読した。読み終わると机の上に放り、難しい顔をしたまま天井を仰いだ。もたれかかった椅子がきしむ。やがて溜息をつくと、机に向かい、開きっ放しだった本に手を伸ばす。カルテと本とを交互に見やり、本に書かれた文章を指でなぞる。なぞりながら、何事かをカルテの紙面に書き込んでいた。
彼が、トールキン中尉たちの病状を調べているのだ。
しかし彼が閲覧机にいる限り、ラウルはこの部屋から出ることができない。閲覧机を通らないと、出入り口の扉には辿り着かないのだ。いつ終わるとも知れない彼の仕事を、ここでずっと観察するのか。それに、仮に職員が調べ物を終えて部屋を出て行ったとしても、カルテまで持って行かれてしまったのでは意味がない。あのカルテが欲しいのだ。あれにかなりの情報が含まれていることは間違いないのだから。
職員の背中を睨みながら、どうしたものかと考える。
カルテが欲しい。しかしそのカルテは今職員が手にしている。彼がいる限りは、ラウルがカルテを得ることはできない。と、なると。
音を立てないよう、ラウルはそっと、ズボンの背に隠していたものを取り出す。鉄の塊でできたそれは、ラウルの手の中で黒く鈍い光を放っていた。
あまり、こういう手は使いたくないのだが――。
ラウルは職員を盗み見る。彼は調べ物に集中しているため、こちらに気付かない。他の職員もまだ来ない。動くのなら、今だ。
気配を殺し、職員の背後に回る。ゆっくりと、左手で拳銃を持ち上げた。そしてぴたりと止める。
「動くな」
銃口を相手のこめかみに当てると、ラウルは低く呟く。銃口を向けられた方は、書き物をしている姿勢のまま、体を凍らせた。
職員の口から、かすれた声が漏れた。しかしそれは言葉にはなっていなかった。
目を見開き、視認できないはずの自分の左こめかみに、眼球を集中させる。彼の視界の端に、黒いものが映った。この状況だ。何が押し付けられているのかぐらい、はっきりとは見えなくても容易に想像できる。
職員は眼球すらも硬直させたまま、ごくりと唾を飲み込んだ。体が震え出し、力を失った右手からペンがこぼれ落ちた。
「動くな。動けば撃つ」
ラウルはもう一度呟く。
撃鉄を起こしていないのだ。撃てるはずもない。ただの威嚇行為なのだから。しかし非戦闘員である研究所職員には、そんなことは分からない。銃を突きつけられているという状況だけで十分に錯乱していた。
「う、動かない。動かないから、撃たないでくれ。銃を下ろしてくれ」
しかしラウルは更に強く、銃口をこめかみに押し当てた。職員の口から、ひぃっという悲鳴が漏れた。
「トールキン中尉は死亡したのか?」
「……は?」
「トールキン中尉は死亡したのか、と聞いている」
この質問に、職員は何度も頷く。
「彼は現在、派遣任務に就いてるんじゃないのか? 何故彼の死を隠す?」
「知らない、僕は何も知らない。彼らの遺体を保管し、死亡したことを伏せるよう、上層部から言われたんだ」
やはり上層部か。
「彼らは、何故死んだ?」
「わ、分からない。死因については、まだ明らかになっていない。今日、検死解剖を行ったばかりなんだ」
「あの黒い袋に入ってるのが、そうか?」
これにも職員は激しく頷く。
「何故彼らの遺体を隠す?」
「そ、それも知らない。上層部から要請があっただけなんだ」
何を訊いても、知らぬ存ぜぬの一点張りだ。ラウルは歯を
「お前ら、ええ加減にせぇよ! 知らん知らんって、どういうことやねん。そんな無責任なことあるかい! 自分の作った兵器で、仲間殺しとんやぞ!」
たまりかねて、いつもの口調に戻る。職員は驚愕した。ラウルの訛りにではなく、彼の放った言葉の意味について。
「そんな、まさかっ……。何故我々が、彼らを殺す必要があるんだ!?」
「とぼけんちゃうわ! あの人たちは、お前らの作った新兵器の餌になったんやろが!」
「新兵器――まさか、そんなはずは……」
「上層部と結託して作っとんのやろ!? しらを切っても無駄や!」
「そうじゃない! 違うんだ! 例の新兵器は、欧州ではまだ完成していないはずなんだ!」
「――なんやて?」
今度はラウルが驚く番だった。
「完成してへんって、そんなん……」
それでは、実験もまだ行われていないのか。しかしそのことについて職員を詰問している時間はなかった。
突如部屋の扉が開き、他の職員が入ってきたのだ。目の前の職員に気を取られていて、廊下の足音に注意を向けるのを忘れていた。
もう一人の職員は、書棚を通り過ぎてこちらへやってくる。
「なあ、昨日貸してくれた雑誌のことだけどさ、あれ――」
ラウルは焦る。二対一になるのはまずい。
そう判断するが早いか、震えている男の側頭部を、死なない程度に思い切り殴りつけた。殴られた方は、声もなく机に突っ伏した。それと同時に、もう一人の職員が、閲覧机のところまでやってきた。男は机に倒れている同僚とラウル、そしてラウルの手にある拳銃を見比べる。ややあって、事態を察知する。そのときには既に、ラウルが目の前に迫っていた。
「お前っ……」
職員が驚愕の表情を浮かべ、何事か叫びかける。
ラウルはすぐさま身を屈めて体勢を変えると、右膝で思い切り彼の脇腹を蹴り上げた。
男はくぐもった声で
「ゴメンやで、ちょぉ~っとだけ寝といてくれるか?」
にっこりと笑みを浮かべ、ラウルは机に戻る。拳銃をしまい、トールキン中尉のカルテだけを机の上から引ったくる。左手に握り締めた。
まだ悶絶している男の横を通り過ぎ、廊下に出た。人が来る前に、早く逃げなければ。思った瞬間、男が叫んだ。
「誰かっ、来てくれ……! 侵入者だ!」
ラウルはぎょっとする。まだ声が出る余裕があったのか。もっと強く蹴り飛ばしてやればよかったと激しく後悔するが、今さらもう一発蹴りを食らわせたところで、もう遅い。
廊下の奥で、誰かが動く気配があった。当直の職員がもう一人いるようだ。ラウルは慌てて、来た時と同じ道筋を辿る。しかし階上に逃げても、他の職員や衛兵に捕まるのは目に見えている。それはまずい。
そう思ったラウルは、階段のところへ戻ると、階上へは向かわずに、非常口の扉を開ける。そして体を滑り込ませた。
しかし。
思わず
この地下道は町中に張り巡らされてはいないだろうか。これを辿って行けば、市街地に出るのではないか。
思案しながら周囲の状況を確認する。道はどうやら複雑に入り組んでいるようだ。ここ始発点から二十メートルほど進んだところで、早速道が分岐している。それが、夜目に慣れたラウルにははっきりと見えた。
正しい道のりを辿れるか。袋小路に突き当たれば、捕縛されるのは必至である。かと言って研究所内に引き返すのはもっと危険だ。
考えている間にも、扉の向こうから複数の足音が近付いてきた。ラウルは焦る。迷っている暇はない。己の方向感覚に頼るのだ。
意を決すると、暗闇の地下道に向かって駆け出した。
大丈夫や、自分の悪運の強さは知っとる。
そっと唇を舐めると、ラウルは口角を上げた。
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