(4)-2


 村の上空には数羽のカラスが飛び交い、時折奇妙な鳴き声を辺りに響かせていた。

 そこは、数日前までデュカスの知っていた村とは、あまりに違いすぎた。

 緑を湛えていた芝生も、埃っぽい木造りの家も、収穫間近だった果実の成る木も、四季折々の花を披露していた各家の庭先も、そういったものは全て、既に過去のものとなってしまった。

 集落はとっくに鎮火しており、残っているのは瓦礫の山のみ。焼けた木の残骸が道のそこここに倒れており、その合間には時折黒い人型のものが見られた。焦げていない遺体には、腐臭を嗅ぎつけたカラスたちが群がり、その肉をついばんでいる。

 家という家はほとんどが全焼し、原形をとどめた建物は皆無に等しかった。つい先日までは人々が平穏に生活を営んでいたとは信じられないほどに、村は変貌を遂げていた。

 思わず、鼻を手で覆った。凄まじい死臭だ。デュカスの口の中に苦いものが広がる。萎えそうになる足を奮い立たせ、一歩一歩、ゆっくりと歩を進めた。

 あの日と同じく、様々な障害物がデュカスの行く手を阻む。もちろん、あの日のような炎の波は押し寄せては来ないが、道を塞いだ瓦礫の山を押しのけ乗り越えしなければ、先へと進めない。その都度目の端に映るのは、無残な姿をさらした人々の亡骸。

 突如、背筋をぞろりと這うものがある。胸の辺りに激しいむかつきを感じ、思わずその場にしゃがみ込んで嘔吐した。ろくに食べていないため、出てくるのは濁った胃液のみ。口腔内が酸の味で満たされる。あまりの苦しさに空気を吸い込もうとして喘いだが、ますますむせてしまっただけであった。生理現象で目には涙が込み上げる。

 ――嫌だ、思い出したくない。

 しかしあれは夢ではない。逃げていてはいけないのだ。ぜいぜいと肩で息をしながら、そう自分に言い聞かせる。

 口元を拭い、おぼつかない足取りで立ち上がると、デュカスは再びゆっくりと歩き出した。

 障害物のせいで村の地理はかなり変わっていた。今ではもう、誰の家がどこにあったのかすら分からないくらいだ。小さな村の中をさまよいながら、ようやくのことでデュカスは自分の家の前へと辿り着く。

 呆然と、足元を見つめた。あの日驚くほど巨大に見えた家は、倒壊し、焦げた瓦礫と化して地面を埋め尽くしていたのだ。これが自分の十六年間生まれ育ってきた場所。そう思うと、ひどく空しくなった。

 どれくらいそうしていただろうか、やがて力なく座り込むと、緩慢な動作で一つ一つ、目の前に広がる残骸を取り除いてゆく。耳に、あの日の轟音が蘇る。方々で響く人々の悲鳴も、そして、姉の屹然とした口調も。

 襲い来る火の手、炎の中で微笑む姉、崩れ落ちる天井。無意識のうちに体が震え出し、呼吸が荒くなった。喉元を鳴らして唾を飲み込む。――あれは、夢じゃない。

 手に力が入らなくて、握り締めた瓦礫を何度も落とす。落としては拾い上げ、また落としては拾い上げ、そうやって同じ作業を繰り返しながら、少しずつ家屋の欠片を取り除いていった。

 太陽が既に南中する頃、デュカスの視界に、何か鈍く光るものが映った。不思議に思ってその場所を掘り返してみると、一振りの剣が現れた。

 泥と煤で汚れた手で、デュカスは剣を引っ張り出す。それは、デュカスがいつも護身用に持ち歩いていたものだった。思わず、自嘲的な笑みが浮かんだ。デュカスが幼い頃から剣術を習い始めたのも、元はと言えば姉を危険なものから守ろうとしてのことだったのに。いざという時、自分の剣は何の役にも立たなかった。

 複雑な表情で剣を握り締めていると、剣の下にもまだ瓦礫に埋もれて何か隠れていることに気付いた。目を凝らしてよく見てみると、それは黒い、人型の塊であることが分かった。

「――姉さん!」

 叫ぶや否や、デュカスは夢中で周りの石や材木を取り除ける。何度か手の爪が木に引っかかって割れたりしたが、そんなことは気にも留めなかった。目の前にある黒い人形、それだけが彼にとって重要だった。

 果たして陽光の元に姿を現したのは、間違いなく姉カヤの亡骸であった。黒炭と化した体を丸め、胎児のような姿勢で横たわっている。震える手で、デュカスは彼女の頬に触れてみる。途端、指先で静かに、灰が舞った。指の腹に残ったそれを、デュカスはじっと見つめる。

 これが、姉さんなのか。

 あの、いつも朗らかに微笑んでいた姉は今や、肌もない肉もない、ただの黒い塊と成り果てたのだ。デュカスは思わず、自らの顔を両手で覆った。

 どんなにつらかったことだろう、炎の中で独り、焼かれていったのは。あの時――天井から炎の塊が落下してきた時、自分が手を離しさえしなければ、姉は助かっていたかもしれないのに。何があっても、自分は彼女の手を離すべきではなかったのだ。

 ――オレのせいで、姉さんは死んだ。

 そうではないと頭では分かっていても、自責の念を抑えることはできない。

 あの時、彼女の手を離さなければ。もう少し早く駆けつけていれば。ずっと彼女の側にいてやれれば。朝から、彼女を残して出掛けたりしなければ。

 もしかしたら、姉を守ることができたかもしれないのに。

 しかし悔やんでも、もう遅い。そもそも、あのような事態、誰が予測できたであろうか。

 歯を食いしばり、嗚咽をこらえながら、デュカスは姉の耳たぶにも手を伸ばす。

 そこには、小指ほどの大きさの石で作られたピアスが、陽光を受けて青く輝いていた。姉がいつも、お守り代わりに身に付けていたものである。あの業火の中をも耐え抜いていたのだ。デュカスはピアスの片方をそっと外してやる。その時にもやはり、耳たぶの灰がはらはらと舞い散った。

 手の平に乗せた石は、まさに海のごとく深い青。姉の流れるような漆黒の髪に、透き通った青い石は非常に映えていた。

 しかし見事その色合いを見抜き、姉にピアスを贈ったのは、他でもない「あいつ」なのだ。姉の恋人である「あいつ」は、もう何年も前から戦場へと赴いたまま、未だ帰らない。それどころか姉を一人きりにさせたまま、ろくに連絡もよこさない。憎々しい「あいつ」の顔が脳裏をよぎった。

 ――こんな時に、いないなんて。

 ふつ、と心のどこかで妙な感情が湧いた。

 次の瞬間、自分でも驚くほどの速さで、ピアスの鋭い針を左の耳たぶに当てた。そして何の躊躇いもなく、勢いよく穴を穿つ。

「―――っ!」

 声にならない悲鳴。赤い飛沫が数滴、地面に散った。

 あたかもそこに心臓があるかのように、左耳が大きく脈打つ。全身の感覚神経が、そこに集中している。燃えているのではと思わせるほどに、熱い。あまりの痛さと熱さに、胃の中で重い衝撃がぐるぐると渦を巻き、再び吐き気が込み上げた。

 恐る恐る耳たぶに触れると、更に激しい痛みを感じて、思わず苦悶の表情を浮かべる。指先には血痕が残っていた。

 ――ああ、オレは生きているんだ。

 ふと、そう思った。

 血が出るのは、そして痛みや熱を感じるのは、生きている証だ。

 ――オレは、生きているんだ。

 改めて実感した。と同時に心の中には、じわり、罪悪感が広がる。――そして。

「うああああああああぁ―――――――ッ!」

 獣の咆哮にも似た叫び声が、喉の奥からほとばしった。

「あああああぁ――――! うあああああああああ――――――!」

 誰もいない焼け野が原に、その叫び声が響き渡る。

 叫びながら、デュカスはこぶしを瓦礫に叩きつけた。そうでもしないと、気がれてしまいそうだった。

 どうしてこんな事になってしまったのだろう。どうして――。

 先程から幾度となく同じ質問が繰り返され、その度に答えの出ない空しさがデュカスを襲う。答えてくれる人はいないのだと分かっていても、それでも問わずにいられないのだ。

 どうしてこんな事になってしまったのか。どうして――自分だけが生きているのか。

 叩きつけたこぶしに、血がにじむ。肩で大きく息をした。

 やり場のない思いが、胸のうちで嵐の海のように激しく荒れ狂っていた。憤りが強すぎて、涙すら出てこなかった。

 憤怒の表情のまま、頭上を仰ぐ。

 空は高く、デュカスを見下ろしていた。憎かった。青く澄んだ空も、流れる白い雲も、すべてが憎かった。

 憎しみに囚われたまま、デュカスは独り、焼け野が原に立ち尽くしていた。

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