第84話 ガンブツ喚ばい

 都心に居を定めたのは「通勤時間の短縮」が最大にして唯一の理由だった。

 しかし、最近では業務の殆どを自宅のPCで処理できるし、会議などもオンラインで問題なく行われるので、会社に行く必要がなくなってしまった。

 流石に数ヶ月に一度くらいは顔を出さねばならないが、年に数回の通勤のために狭いマンションに高い家賃を払い続けるのは馬鹿馬鹿しい。


 契約更新の時期と重なっていたのもあり、思い切って地方への移住を決めた。

 ガチのド田舎だと厳しそうなので、ある程度は生活に便利で、人付き合いにわずらわされず、暑さ寒さはどちらも程々で、自然災害を極力避けられる場所にしたい。

 贅沢ぜいたくな条件とは思いつつ色々と調べてみると、そこそこ栄えている地方都市に近く、新幹線の駅もあって上京に苦労せず、それでいて田舎暮らしを満喫できそうな場所を探し当てることができた。


 元より荷物も少ないので引越しはラクに終わり、期待した通りにのんびりとした日常を獲得した――のだが、むしろヒマになりすぎた気がしなくもない。

 なので、折角だから昔の趣味を復活させるか、と思い立ってちょっといい自転車を購入したのが二ヶ月ほど前のことで、現在では日課のように近隣を走り回っている。


 そして今日もまた、俺は自転車を走らせている。

 仕事も休みだし、今まで行ったことのない方面に遠出してみよう、と適当に漕ぎ出してから数時間。

 補修工事をサボっている、やけにヒビ割れやデコボコが目立つ道路を進んだ先で、いい具合に寂れている集落へと辿り着いた。

 まばらに見える家屋はどれも築五十年は堅い古びたおもむきで、広い敷地には蔵や倉庫が併設され、大抵は複数台の車が置かれている。


 畑は多いが農業で食っている雰囲気でもなく、雑草が伸び放題になっている荒れ地や、朽ちた材木が山積みにされた空き地なども目立つ。

 何らかの工事を途中で放置したらしい場所には、太陽光に晒されて薄れた文字で『管理地』と書かれた看板が立てられている。

 不動産会社名と連絡先の電話番号は、何重にもガムテープを貼られて隠されていた。


 辺りに人影もなければ、車なども走っていない。

 鳥や犬の鳴き声も聞こえないし、緩く吹いていた風もいつの間にかいでいる。

 四方を自然に囲まれているのに、不自然なまでに静まり返っていた。

 自転車を停めてヘルメットを外し、浮き出てくる汗をハンドタオルでぬぐい、頭に浮かんだ言葉をつぶやく。


「何か……変なとこだな」


 廃村というワケでもあるまいに、この人気ひとけの無さはちょっとおかしい。

 あまり長居しない方がいい予感がするので、サッサと抜けて先に行くとしよう。

 そう考えながらスポドリのボトルに口をつけるが、いつの間にか空になっていた。

 自販機かコンビニでもないかと周辺を軽く流してみるが、どちらも見当たらないどころか商店がそもそもない雰囲気だ。

 元は雑貨屋らしい建物はあったものの、屋根も崩れ落ちた廃墟と化している。


 どうしたモンだか悩みつつペダルを漕いでいると、道端に小さな建物が見えた。

 屋台――ではなく、無人販売所のようだ。

 端材で適当に組み上げたのではなく、頑丈に作られている印象があった。

 道を挟んで反対側は雑木林になっていて、所々にこけを生やした石段が上方に伸びている。


 小屋の前まで行ってみると、野菜や果物だけはなく、米や酒や花までが置いてある。

 他にもタバコや乾麺、ジュースや羊羹ようかんなどが山積み状態だ。

 そこらはまだいいとして、パック入りの豚肉や生鮭まで用意してあるのは、さすがにどうなんだって気がしなくもない。


 ここが、この地域のコンビニ代わりなんだろうか。

 隅にある朱塗りの盆の上には、パッと見で一万円程度の現金が置かれている。

 いくら何でもガバガバすぎるセキュリティ意識だが、田舎ではこれが当たり前なのかもしれない。

 ともあれ自分も世話になるか、とペットボトルのミネラルウォーターを手に取ってフタを開ける。

 だいぶぬるいけれど、乾いた咽喉のどには最高の御褒美ごほうびだ。


「まぁ、こんなんでいいか」


 値札や値段表がないので、料金皿らしい盆に百円玉を三つ投げ入れておく。

 定価の倍額以上を払っておけば、流石に文句は言われないだろう。

 カロリー補給用に饅頭まんじゅうも一つ買っていこうかどうか迷っていると、不意に背後から大声が響いた。


「っきぁああああああああああああああっ!」


 悲鳴と怒号の中間のような叫びが、鼓膜こまくを思い切り叩く。

 何事かと振り向けば、青いジャージ姿の男がバタバタと石段を下りてくるのが見えた。

 厄介事の気配しかしないので、反射的にこの場からの逃亡を検討する。

 しかし、それでドロボー扱いになるともっと面倒だと結論を出し、鬼気迫る形相ぎょうそうで近づいてくる三十前後の男を待つことにした。


「おっ、おもぁ――なな、なにっ、かっ――何をぅ?」


 息を切らした男は自転車のハンドルを掴み、上擦うわずった調子で何事かを訊いてきた。

 のっけからケンカ腰な詰め寄り方にイラッとするが、だいぶ興奮しているようなので冷静な対処を心掛ける。


「あー、いや、お水を一本いただきました。お金はそこに――」

「んんなこたぁ、どっ、どっでもいぃいぁ! こりゃガンブツんモリモンだろって! 何でっ、何で飲んでるっ?」

「だから、普通に代金は払いましたって。三百円じゃ足りませんか?」


 荒ぶっている相手を刺激しないよう、ソフトな口調で応じる。

 だが青ジャージの男は、こちらの話を聞いているのかいないのか、小さくブツブツと何かを唱えている。

 震えた声を注意して聞き取ろうとすると、どうやら「やばいって」「ガンブツが」「俺は悪くねぇ」などと繰り返しているようだ。




 どうしたモンかな、と困惑しているとクリーム色のワゴン車が低速で近づいてきた。

 形式が古いワゴンの運転席には、いかにも田舎のオッサンといった雰囲気の、頭にタオルを巻いた中年男が座っている。

 俺たちの数メートル手前で停車したワゴンから、タオル男と黒いTシャツ姿の痩せた若い男が現れる。

 トラブルの気配を察知してか、二人ともあからさまに警戒している様子だ。


「くっ、クマブセさん」

「なーにやってんだ、おめぇ」


 クマブセと呼ばれたタオル男は、俺の方をチラッと見た後、青ジャージをにらみながら問う。

 青ジャージはしどろもどろに、トイレ行こうとちょっとケンダイを離れたらホカンシュがモリモンに手を出してたんで慌てて止めた、というような謎めいた説明を繰り広げる。

 しかめっつらで聞いていたクマブセは、青ジャージの話が終わると大きく舌打ちしてどこかに電話をかけ始める。


「あぁ、今ね、グブレンの確認に回っとってね、トウベンエイのとこまで――ん、そうそう。したら、何も知らんホカンシュがモリモン抜いちまったとかで――ああ、二十年前にもあったなぁ。けど多分、ハツミヤさんなら――そのアラタメの手順もね、うん」


 酒と煙草で焼けたクマブセの言葉にも、耳慣れない単語が多く含まれていた。

 それはそうと、俺はいつまでこうしていればいいのか。

 他の二人に「もう行ってもいいか」と確認しようとするが、そこで黒シャツが青ジャージの脇腹を加減なしに蹴り飛ばす光景を目撃してしまった。


「ほっぼぅ――」

「てめぇはっ! どうして! 簡単なっ! 留守番すらっ! できねんだ! よっ!」

「ずっ、ぐいまっ――うっ、すいばぜっ――んぅ、ぷぁ」


 地面に転がされた青ジャージは、連続して蹴られながら謝罪を述べている。

 聞く耳もたない黒シャツは顔面にも容赦ない一撃を入れ、青ジャージの右目は真っ赤に充血し、黒っぽい鼻血が噴き出している。

 目の前で唐突に展開された暴力に固まっていると、背後から強めに肩を叩かれた。

 ビクッとして振り返ると、胡散臭うさんくさい微笑を浮かべたクマブセが、煙草臭ヤニくささを漂わせながらヌーッと顔を寄せてきた。


「あー、アンタね。そこに置いてあるのは全部がさ、このムラで今日やる祭りっつうか儀式っつうか、そういうのに使うヤツなんだ。アンタが飲んじゃった水もそう」

「うっ、あ……すみません。ちょっと、知らなくて……」

「まぁ、ホントならね。事情を知らんヒトが手を出さないように、注意する役目がついてんだけど、今回は運悪くね」


 クマブセの視線が、顔の下半分を真っ赤にして地面に座り込んでいる、土埃にまみれた男に向けられる。

 釣られてそちらを見れば、青ジャージは「全部お前のせいだ」と言いたげな、憎悪の念をたっぷりたたえた眼光を返してくる。


「そんで、知らんかったからしょうがない、で済めばいいんだけどな。そうもいかん」

「えぇと、お祭りを邪魔してしまったのは本当に申し訳ないのですけど、こちらにできることはお代を払うぐらいしか……」

「バカ言ってんなぁ! ホカンシュがニゴリ起こしたら、ガンブツぉぷぇ――」


 青ジャージが立ち上がり、俺を指差して鼻声でまくし立ててくるが、黒シャツに襟首えりくびを掴まれて引き止められる。


「うるせぇ。黙れボケ」

「いいから、おめぇは座ってろ」


 二人に冷たく命じられた青ジャージは、赤く変色した首を何度もでながら、渋々といった様子で腰を下ろす。

 クマブセは感情の抜けている微笑を作ると、またヌーッと顔を寄せてきた。

 ここで気圧けおされて下手に出たら、何を要求されるかわかったモンじゃない。

 そんな警戒心から、不機嫌さを表に出して男の視線を正面から受け止める。


「まぁまぁ、そう構えんで。とにかくこのままだと、あー……祭りがな、成立せんようになる。だから、アンタにも参加してもらってだね」

「いやいやいや、それはちょっと。参加しろって言われても、作法やら何やらが全然ですし、時間の余裕もないんで」

「別になぁ、アレをやれコレをやれって、ややこしいこと言わんよ。ただ、黙ってしばらくジッとしてれば終わる役目だから」

「そう言われても……」


 断り続けていると、こちらを見ている二人から不穏な気配が伝わってくる。

 まさか、見ず知らずの相手に暴力沙汰はないだろうが、この友好的とは程遠い状況が続くようなら、黒シャツみたいなヤツは何をしてくるか予想がつかない。

 どうにか穏便に逃げられないかと思っていると、白い自転車に乗った制服警官が近づいてくるのが見えた。


 絶妙なタイミングでの登場に、自然と安堵あんどの吐息が漏れる。

 クマブセの反応を確認してみるが、表情にはまるで変化が生じていない。

 そして俺に「ここで待ってろ」と言いたげな手振りを示すと、自転車を停めた警官に声を掛けた。


「あー、ご苦労さんです」

「ハツミヤさんから連絡がありまして。ニゴリの件は、どういう形に?」

「えー、それなんだがね――」


 クマブセは話の途中で警官の袖を引き、少し離れたところで何事かを話し込む。

 会話が聞き取れなくなったので、さりげなく二人との距離を詰めようと歩き出すと、黒シャツがフラリと前に出て「やめとけ」と目顔で告げてくる。

 警官がいても平気で剣呑けんのんな空気を作り出すとは、やっぱりヤバいなコイツは――そう判断した俺は、両手を小さく挙げて降参のジェスチャーを返した。

 そんなやり取りをしていると、警官が小走りでコチラにやってくる。


「事情は一通り、聞かせてもらいました。それで、えぇと……」

「あ、はやしです」

「林さん。お手数ですけど、これからしばらく皆さんの指示に従って、祭りの進行に協力していただけますか」

「……はぁ?」


 まさかの流れに、表情筋が盛大にゆがんだのが自分でもわかる。

 すると警官は制帽を取って髪を掻き回し、咳払せきばらいと共に被り直すと、深刻なトーンで語り始めた。


「このムラ、というか……この地域の人々にとって、今日の祭りは非常に大切なもの、なんですよ林さん。それが失敗しかけていて、その責任の大部分はあなたにある」

「いやいや……そっちの人らにはキッチリ説明したんですけど、そういう事情があるのを知らなくてですね」

「知ってるとか知らないとか、そういう問題じゃないんです。この状況を何とかできるのは、あなたしかいないんですよ。今日の祭りが成立するかどうかは、もう林さん次第なんです……だからこの通り、お願いします!」

「えぇえええぇ……」


 警官は地面にひざまずくと、迷いのない動きで土下座してみせた。

 困惑しつつ周囲を見回せば、他の連中も土下座まではいかないが深々と頭を下げている。

 そもそも自分に原因がある状況で、ここまでされて断り続ける胆力たんりょくは流石に持ち合わせていない。

 俺は仕方なく祭りとやらへの参加を了承し、クマブセの運転するワゴンに乗り込んだ。




「それで結局、何をすればいいんですか」

「あー、さっきも言ったけど、何もせんでいいから。ただもう、ジッとしてりゃいいだけだ。すぐ終わるし、なーんも面倒なことありゃせん」

「はぁ……そんなに簡単なら、誰がやったっていいのでは?」

「まぁね、今回のミケバン――いや、担当も準備してたんだがな。誰かが供え物に手ぇ付けちまった場合、そいつが役目を代わんのが昔っからの習慣だ」


 もう二つ三つ、祭りについての質問を重ねてみるが、どうも要領を得ない答えばかりが返ってきて、この後で何が起こるのかがサッパリわからない。

 車内に染み込んだ煙草臭にも辟易へきえきするが、舌打ちを連発しながら俺にジメついた視線を送ってくる、青ジャージが隣の席にいるのも中々にストレスだ。

 そういえば、コイツが何度か気になることを言っていたな。


「そういえば、ガンブツって――」

『パァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア』

「いや、あのガン――」

『パァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア』


 質問の途中で、クマブセは派手にクラクションを鳴らした。

 二度の長押しに面食らっていると、助手席の黒シャツが振り向いてコチラを見る。


「それ、よくない言葉なんだわ」

「えっ?」

「だから、口に出すな。今日は特に」


 有無を言わせない雰囲気に、反論もできず黙ってうなづく。

 どうやら『ガンブツ』というのがマズいらしい。

 そういえば、青ジャージもそれについて何か言おうとして、凄い勢いで止められていた覚えがある。

 この調子ではどんな質問にもまともな答えは期待できないだろうと諦め、俺は黙って窓の外を眺めることにした。


「あー、ハツミヤさん、手間かけてスミマセンです。それで、アラタメは? ――ええ、はい、ミケバンは確保してます。サンドウの方は――ああ、問題ないですか。え――ンハハッ、そりゃまぁニエコはニエコですから。じゃあ、そろそろ着きますんで、諸々宜しくです。はぁい」


 黒シャツが、さっきから何度も名前が出てくるハツミヤさんとやらに電話をしている。

 畑にも道端にも、相変わらず人の姿は見えない。

 この状況はやはり、これから始まるらしい祭りに関係あるのだろうか。 

 そんな場で自分は一体何をやらされるのか、と改めて不安を募らせていると、ワゴンは細い脇道へと曲がり、低い石垣で囲まれた場所へと入っていった。

 無秩序に増改築を繰り返した様子の、複雑なフォルムの大きな家が奥に見える。


「ここが祭りの会場……ですか?」

「まぁそんなような、そうじゃないような」

「はぁ」

「とにかく、アンタはホラあの、あそこに居てもらうんで」


 質問をはぐらかしたクマブセは、敷地の端の方を指差す。

 そちらに目を向けると、昭和っぽい平屋と神社の社殿と田舎に良くある土蔵を足して二で割ったような、用途がよくわからない建物があった。

 せた臙脂色えんじいろで塗られているので神社っぽく感じたが、よくよく見ると台湾やタイの寺なんかに近い意匠も混ざっている。


「じゃあ、これな」

「ウス」


 クマブセが頭に巻いていたタオルをほどき、青ジャージに渡している。

 何してんだ、と思いつつ意識を変な建物に戻した瞬間、いきなり腕を掴まれた。


「は? なんっ――!」

 

 これはマズいと直感して身をよじるが、数秒も経たず動きを封じられてしまう。

 両手首をタオルで縛られたようで、汗で湿った布の感触が伝わってくる。

「ぬぁわっ、ちょ! にっ、こぁあああぁああっ!」


 混乱して喚いている内に、ベルトか何かで両足首もキツく縛られた。

 差し迫った命の危険に、心臓が人生最大速度で跳ね回っている。


「どっ! どどっ、どういぅぐぉべぉ……」


 ひるんだらそこで終わる気がして、可能な限りの大声でどういうつもりかを問い質そうとするが、言ってる途中で丸めた軍手を口に詰められた。

 土と油の味と謎の金気かなけが広がり、吐き気が喉の奥から込み上げる。

 塞がれた口に、青ジャージがダクトテープを何重にも貼っていく。

 真顔で作業をこなそうとしているが、唇の端は楽しげにゆるんでいた。


「まぁね、落ち着きなよ。なーんもない、とは言わねぇけどな。そんなアンタが心配するようなこたねぇんだわ。だから、な。ゆーっくり深呼吸だ」

「むぁ……ぐぅ」


 暴れてもしょうがないと判断し、汚い軍手の詰まった口でゆっくり大きく呼吸する。

 何度か繰り返していると、吐き気は徐々に治まって、動悸どうきも速度を落としていく。

 とにかく、こいつらの言う通りにすれば、この意味不明な状況も終わる。

 何も考えず、逆らおうとせず、耐え続けていればそれで問題ないはずだ。


 と、思っていたのに。


 突然、眼前に突き出された注射器が、黄味がかった半透明の液体を噴いた。

 熱いのか冷たいのかわからない、形容し難い反応が両目に走る。

 和菓子を腐らせたみたいな、不快な甘ったるさが鼻腔びこうに刺さった。

 視覚が、嗅覚が、聴覚が、味覚が、触覚が体からフワッと遠ざかる。

 そして何もわからなくなると同時に、深く沈むきざしと共に意識が途切れ――




「ぶっ……ぅぶっふ! ぐっぷ!」


 咳き込んで気が付くと、真っ暗闇の中にいた。

 目の違和感は消えているが、何も見えない。

 アイマスクなどではなく、袋状のものを被せられているようだ。

 頭を振って外そうと試みたが、余計なマネはしない方がいいかも、と思い直して動きを止めた。


 詰め込まれた軍手は取り除かれたようだが、別の何かがまっている。

 口は閉じられず、よだれがダラダラ流れ、声をまともに出せない。

 鼻を刺す甘いニオイは消えているが、辺りには様々な臭気の混ざった空気が漂っている。

 魚屋の店先に似た血腥ちなまぐささに、日本酒の匂いとハッカの香り、それと夏場の草叢くさむらにいるような青臭さ。


 指先と爪先は動くが、両手両足は殆ど動かせない。

 どうやら、立った状態で柱か何かに拘束されているらしい。

 耳を澄ませば、どこからか読経どきょうらしき曖昧あいまいな音声が聞こえてくる。

 距離があるせいかハッキリとは聞こえないが、声の感じからして自分が屋内にいるのはわかった。


「げぅ! ぶぇっぐ!」


 涎が喉に流れ込むせいか、また咳き込んでしまった。

 屋内ということは、あの謎めいた建物の中だろう。

 クマブセの言葉が本当なら、俺はここで待っているだけでいいらしいが。

 とはいえ、ここまで身動きできなくする理由は何なのか。

 ついでに、あと十分ぐらいで限界を迎えそうな尿意があるのだが――


         メシッ


 板張りの床がきしむ音が鳴った。


   ギュッ


         ミリッ


   パキッ 


 体重のあるヤツが古い家の廊下を歩くと、こんな音がする。   

 祖父母と伯父一家が暮らしていたボロ家と、一日に必要な水分の大半をコーラで摂取していた従兄弟の巨体を思い出した。

 いや、そんなことより誰か来たのか。

 さっきの三人の誰か――それとも全然知らない誰かか。

 何にせよ、これで解放してくれるといいんだが。


『~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~』

「んぼっ」


 頭の中で唐突に破裂した音に驚き、息の塊が唾液と共に飛び出した。

 大勢の外国人が何かを飲み食いしながら、土砂降りの中で同時に喋っている。

 そのぐらい混濁こんだくした印象なのに、言葉だというのは察せられる。


         ギシッ


   ミシッ


 更に近付いている。

 来たのは誰――いや、何なんだ。

 周囲に漂っていた異臭とは別種のニオイが侵入してくる。


 ワキガを濃縮したような。

 病気の犬を集めたような。

 ドブの泥水を煮たような。


 嗅覚が拒絶し痛覚が反応する、未知の毒々しさに満ちた汚臭。

 それらが急速にふくらんで、気管と肺を詰まらせる。

 我慢できずに吐瀉物としゃぶつが逆流し、口を塞ぐかせの隙間からあふれた。


『~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~』


 あの声が、再び響いた。

 そして――


   メシッ 

    ギリッ

   ペギッ

    ギュッ

   ギシッ

    ギキッ


 床の軋みが、早足になった。

 何を言おうとしても、うがいみたいな音にしかならない。

 股間から腿の内側へと、生温なまぬるい感触が伝っていく。

 頭に被せられていた袋が、荒っぽくむしられる。

 咄嗟とっさに目をつぶることもできず、それを見た。


 笑っていた。

 あざわらっていた。

 五つ並んだ浅黒い顔の、二十か三十あるカラフルな瞳が、俺に向けられていた。

 瘡蓋かさぶただらけの唇たちが、黄ばんだ乱杭歯らんぐいばを覗かせていた。

 その唇が一斉に動いて、頭の奥深くで大音量の奇声が派手に弾けた。

 覚えていられたのは、そこまでだった。




 二度目の失神から覚め、畳の上に寝かされている自分に気が付いた。

 頭の下には、折り畳んだ座布団が枕代わりに置かれている。

 手足は拘束されておらず、視界を奪われていることもない。

 家具のない八畳の和室で、あの――アレと遭遇したのとは違う部屋だった。

 着ている服は、汗と尿に塗れた黒のスポーツウェアではなく、樟脳しょうのうのニオイがする緑色のイモくさジャージになっていた。


 何がどうなっているのか、とにかく誰かに事情を訊かなければ。

 そう考えて立ち上がると、ふすまが音もなく開いて和服姿の女性が現れた。

 二十代と言われても四十代と言われても納得してしまう、厚化粧で年齢不肖で背の低い小太りの女だ。

 数秒間、無言で見つめ合った後で女は告げてくる。


「もう終わりましたので、お帰りください」

「えっ、いや、終わった? って……」

「もう終わりましたので、問題ありません」

「いやあの、問題とか……あ、自転車とかは」

「それも大丈夫ですから、お帰りください」


 何を言っても流される感じで、まともな会話になる気がしなかった。

 和服の女は俺が枕にしていた座布団を掴むと、こちらを一瞥いちべつもせずに部屋を出て行った。

 あんまりな扱いにしばらく呆然とした後、誰か話の通じる相手を探そうと廊下に出る。

 すると左手に玄関があり、そのあがかまちに俺のバッグが置かれ、靴も三和土たたきに揃えてあった。


 スマホと財布と自宅の鍵が無事なのを確認し、バッグを肩に掛ける。

 アレがどうなったのかも確かめたいが、本能は「やめとけ」と警報を鳴らしている。

 大きく溜息を吐き、重たい引き戸を開けて外に出ると、空は茜色に染まり始めている。

 予想とは異なり、クマブセたちに連れて行かれたのとは別の場所だ。

 俺の自転車が、庭先に横倒しで放置されていた。

 

「服は……まぁ、仕方ないか」


 安くもなかったが、一刻も早くこの村を離れたい気持ちが圧勝していた。

 スマホで地図を確認し、黙々と自転車を漕いで来た道を戻る。

 心身は共に疲れ果てていたが「それどころじゃない」の一念で足を動かし続けた。

 深夜の手前あたりで自宅に辿り着き、ドアの鍵を開けようとしたところでスマホの着信音が鳴った――母親からだ。


「……はい?」

「あっ、シュウスケ! ちょっと、何なのあの人らは!」

「声デカいって。何がどうしたって?」

「どうしたじゃなくてさぁ、急にウチに来て『息子さんにお届けものです』って、黒いテカテカした服と、白い封筒を渡してきて。中を見たら、変な字が書いてる薄い板と、五千円札が十枚入ってたんだけど、これって何なの? あの人たちは誰?」


 母親の言葉を聞きながら、スマホを持つ手に汗が滲む。

 やって来たのは、やはりあの村の連中だろうか。

 どうやって実家の場所を――いや、距離的にも時間的にも不自然すぎないか。

 考えが全然まとまらないので、「後でこっちからかける」と言って通話を切る。

 とにかく、俺はあいつらに言われた通りにやったのだから、もう終わった話だ。


 自分に言い聞かせるが、疑念と不安は拭い去ることができない。

 とにかく一旦、熱いシャワーを浴びて情緒と思考をリセットしたい。

 玄関に入ると、昼の熱気でらされた空気に出迎えられた。

 無事に戻れた実感が欲しくて、大きく息を吸い込んだ。


「……あれ?」


 いつもながらの、新しい畳と古い木の混ざった家の香り。

 そこに薄くだけど、獣っぽい臭いが割り込んでいる、ような――

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