第62話 赤ちゃんが乗ってます
普通に生活していて、パッと見で「あ、コレはやべぇな」と直感する状況に遭遇することは殆どない。
なのにオレは今、早朝の新宿から出る下り電車の中で、確実にやべぇモノを目撃してしまっている。
右斜め前の席に座った、いかにもリーマンといった佇まいの五十前後のおっさん。
さっきまで飲んでたオレといい勝負の疲れた表情だが、若干薄くなっている髪は短く整えられ、ヒゲもキッチリ剃っていて不潔感はない。
明るいグレーのスーツはオーダー品なのか、やや太めな体型にフィットしている。
そんなおっさん本体に、これといった問題があるワケではない。
問題は、おっさんの右肩に
幻覚を見るほど酔っていない――と思いたい。
しばらく窓の外の薄暗い景色へと視線をズラし、改めておっさんの方を見る。
赤ん坊は、おっさんの
やっぱりいるわ、赤ん坊。
推定して生後十ヶ月から一年くらいの乳児が、おっさんに乗っかっている。
何だこりゃ、と思いつつ周囲の反応を伺ってみる。
おっさんを見れば、即座に異常事態と認識できるであろう距離に四人の乗客がいるが、誰も赤ん坊を気にしている様子がない。
不意に遭遇した厄介事への対処法として、見て見ぬフリが一番というのは理解できる。
しかし、ここまで徹底してノーリアクションを貫けるのは、ちょっと訓練されすぎではなかろうか。
まさかとは思うが、オレにしか見えてないファンタジーな赤ん坊とか、そういうアレなのか。
何とも言えない不安に
街中で最近よく見るタイプの服装をした、大学生にもショップ店員にも水商売にも見える、二十歳そこそこの若い女だ。
少なからずアルコールが入っている様子の女は、軽くフラつきながら車内を移動する。
オレと目が合ったが、すぐに逸らされた。
それから、彼女の視線はおっさんへと向けられる。
「んくっ」
小さく声を漏らすと、その場で固まってしまった。
視線の先にあるのはおっさんの頭ではなく、そこにしがみついている赤ん坊だろう。
見えてしまったのが自分だけではない安堵感と、これから彼女がどう動くかの不安感を抱えつつ、オレは状況の推移を見守る。
女は
おそらく協力者を求めているのだろうが、面倒に巻き込まれるのはゴメンなのでオレはスマホを眺めるフリをして無視をキメる。
他の乗客も気付いているのかいないのか、女の方に近づいていく気配はない。
目の前でキョロキョロしている相手を不審に思ったのか、おっさんが眉根を寄せて女を見上げる。
赤ん坊は、その首にぶら下がて笑っている――ここで、存在そのものに巨大な違和感があったせいで流してしまっていた、別の違和感に気付く。
この赤ん坊、まったく声を出してない。
「あ、あのっ!」
女は意を決した感じで、
おっさんは返事をせずに、相変わらずの渋面で女を見返している。
「あの……赤ちゃん、危なくないですか」
「ああ、アンタには見えるのか、コレ」
やはり、見えてはいけないモノだったようだ。
車内アナウンスが、次の駅が近づいたことを知らせてくる。
その淡々とした声を聞きながら、二人の話の続きを待つ。
「えっ? 見えるって、そんなの当たり前じゃ」
「いやぁ、誰も何も言ってくれないから、どうしようかなって思ってたんだよ」
「どうしようって……どうもこうも、なくないですか」
おっさんの声は
女は予想外のリアクションに戸惑っているのか、落ち着かない様子で右手を不規則に動かしている。
言い合いに気付いたのか、長い髪を赤っぽく染めた若い男が二人に目を向ける。
しかし止めに入ったりするでもなく、無表情で眺めているだけだ。
「何でかねぇ、勝手についてきちゃうんだよね、コレ」
「いやいやいや、勝手にとかじゃなくて、ですよ。裸の赤ん坊を連れ回すとか、常識で考えてオカシいじゃないですか」
「ホントになぁ、アンタの言うとおりだ」
「ねぇちょっとオジサン、ふざけてんの?」
女は異様な状況に飲まれないよう、冷静に振舞おうと意識している雰囲気だった。
だが半笑いで応じるおっさんのせいで、そんな態度も崩れかけている。
そんな女に向けて、おっさんは真顔で右手を差し出す。
まるで、握手を求めているかようなポーズだ。
条件反射的に体が動いてしまったのか、女は何気なくその手を握り返した。
「なっ、えっ? なんっ――で!?」
おっさんに抱きついていた赤ん坊が、つないだ手と手の間を音も立てずにヌルリと高速移動して、今度は女の首からブラ下がる。
その動きの不可解な滑らかさは、獲物を狙うヘビやトカゲを想像させた。
駅が近づいて電車が減速し始めると、おっさんはゆらりとシートから腰を上げた。
「まぁ、これからはアンタが仲良くしてやってくれな」
「ちょっ、ちょっと待っ――」
ドアが開くと同時に下車したおっさんは、客の
車内の視線はおっさんに向いた後、取り残された女に集中する。
女は何が起きたのかをまだ把握できていない様子で、おっさんの後ろ姿と自分にしがみついている全裸の赤ん坊を交互に見ていた。
再び電車が動き出すと、他の乗客たちは小さく折り畳んだスポーツ新聞を眺めたり、腕を組んで寝る姿勢に入ったりと、さっきまでの行動に戻っていった。
オレもわざとらしく
顔を上げればきっと、
それを見たくないし、赤ん坊のような何かも見たくない。
だからオレは、心を無にして新型掃除機の紹介記事を読み続けた。
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