第50話 あたたかきしあわせのほほえみ

「あー、積もったなぁ……」

「だねぇ。でも、仕事前に止んでくれてよかったじゃない」


 白く濁った窓を擦りながら言うと、同棲中の恋人である京香きょうかが眠気の居残った声で応じた。

 俺は掌を濡らした湿気を寝間着の尻で拭い、欠伸と返事の中間みたいな音を漏らす。

 夜になってから降り始めた季節外れの雪は、いつもの朝の風景を見慣れない色合いに染め替えていた。


 大雪だとか台風だとか、そういう非日常な状況を歓迎できなくなったのは、いつ頃からだろうか。

 イベントではなくトラブルと認識するようになったのは、おそらく中学生くらいからだと思うのだが。


「今日一日、怪我だの事故だのが連発すんだろうな」

「東京はめっちゃ雪に弱いからね。電車は――うん、ちゃんと動いてるみたい」


 京香がスマホを確認し、それから洗面所の方へ向かう。

 その背中を見送った後で、視線を再び窓の外へと移動させた。

 十センチも積もっていないだろうが、普通の靴で歩けるだろうか。

 雨の日用のヤツだと、この雪に対抗できるかどうか怪しい。


「ん?」


 憂鬱さに支配されつつ雪景色を眺めていると、白一色の中に違和感の塊みたいなものが存在していることに気付く。

 突き抜けた異様さに誘われるように、反射的に窓を開けていた。

 結構な距離があるはずだが、その悪目立ちしたヴィジュアルは鮮明に確認できた。


 マンションの五階にあるこの部屋から見下ろせる場所に、『売地』の看板が出ている二十坪ほどの空き地がある。

 いつもは雑草で覆われていて、今は雪に覆われたその場所の中心部。

 そこに、恐らくは雪だるまであろう物体が作られていた。


「雪だるま……か?」


 疑問符がついてしまうのは、その見た目だ。

 シルエット的には、雪玉を二つ重ねたオーソドックスな雪だるま、という感じだ。

 しかし、色がおかしい。

 何種類ものシロップをかけ回したカキ氷みたいに、不自然なカラフルさに彩られている。

 スプレーなのかペンキなのか、着色料の材料はここからではわからない。


 笑顔っぽく配置された目鼻と口は黒い――多分、木炭をめ込んでいるのだろう。

 胴体から斜めに突き出た両手にも、細長い木炭を使っている様子だ。

 頭の上には、赤く塗られた金属製のバケツがかぶせてある。


「どしたの……寒いでしょ」

「お? ああ」


 京香の言葉で、開け放した窓から流れ込む冷気の存在を思い出す。

 随分と長いこと、不可解な雪だるまを凝視していたようだ。

 強張こわばった顔の筋肉をほぐすように撫で回しながら、空き地にあるものを指差して訊いてみた。


「なぁ、アレって何だと思う」

「んー、雪だる……ま?」

「だよな。ちょっとおかしいよな、あんなの」

「ちょっと、で済むレベルかなぁ」


 並んで外を眺める京香は、眉根を寄せて怪訝けげんさを表明してくる。

 雪が積もったから雪だるまを作る、まではまぁ普通だろう。

 けれど、それをあそこまでド派手に着色した意図がサッパリだ。

 悪フザケにしては手が込んでいるし、アートのつもりならクオリティが微妙と言わざるを得ない。


「行ってみるか」

「え?」

「だから、近くで見てみないか、アレ。気になるだろ?」

「なるっていえばなる、けど……」


 京香の物言いは歯切れが悪い。

 出勤前のバタバタした時間帯にやることなの、と言いたげな視線も刺さってくる。

 だが俺としては、あの雪だるまが気になって仕方ない。

 説明するのが難しい精神状態なんだが、とにかく放っておくことに落ち着かなさを感じてしまうのだ。


「インパクト凄いしさ、写真くらい撮っときたくない?」

「どうかな……ん? あれっ?」


 手でひさしを作り、身を乗り出して外を再確認する京香。

 小さな声で「んー」と唸りながら、色々と角度を変えて空き地の方を見ている。

 釣られて俺も雪だるまを見つめるが、最初に感じた以上の何かは伝わってこない。


「何だよ、アレ以上に妙なモンでも見えてるのか」

「いや違くて。むしろ、見えないのが問題っていうか」

「は? 意味わからん」

「わたしもよくわかんないんだけど……あのさ」


 そこまで言って俺の方を向いた京香は、もう一度外を見て小さく頷くと改めてコチラに向き直る。

 そして、焦っているようでもあり困っているようでもある、判断の難しい顔で続けた。


「あの雪だるまも変だけど、周りもおかしくない?」

「周り? 何が? 普通に一面雪が積もって――りゅだっ」


 言いかけたところで気付き、思わず舌がもつれた。

 雪だるまの上に積もった様子がないから、アレは雪が止んだ後に作られたものだろう。

 少なくとも、着色されたのは降り止んだ後になる。

 なのに周囲に足跡が一つもなく、雪玉を転がした痕跡も残っておらず、空き地が新雪で真っ白なままの理由は。


「ね? おかしいよね? あの雪だるま、どっから来たの」

「軽トラで運んできて設置した、とか」

「誰がそんな面倒なことを……ていうか、その場合でもタイヤの跡は残るでしょ」

「そう、だな。となると本気でわからん。何なんだ、アレは」


 俺が首を傾げる横で、京香も首を傾げる。

 不意に、さっきまでとは別種の寒気が背筋を這い上がってきたので、窓をそっと閉める。

 ついでに、カーテンも閉めて外の景色をシャットアウトした。

 急にどうしたの、と訊きたそうに見てくる京香に対して曖昧に頭を振り、苦笑を浮かべて告げる。


「気になるけど、気にしてると仕事に遅れそうだ。メシにしよう」

「……うん。トーストでいい? 卵は?」

「スクランブルエッグで」


 互いにわざとらしさを感じつつ、朝のルーチンへと意識を引き戻す。

 ボンヤリとだが、あの雪だるまの意味がわかってしまった気がする。

 俺はこのマンションに四年近く住んでいるが、京香が転がり込んできたのは一年半前。

 だから多分、京香は正解に辿り着けないだろう。


 雪だるまの置かれた空き地ができたのは、三年前のこと。

 三年と少し前、古い木造アパートが全焼したことで、あの場所は空き地になった。

 火事の原因は子供の火遊びで、亡くなったのは――


「……お?」


 つい大きめに出た疑問の声に、フライパンに油をいていた京香が振り返る。

 俺は何でもないというように手を振り、読むでもない新聞に目を落とした。

 火元になった部屋に母親と住んでいた、火事の原因を作った小学生の兄弟。

 燃え方が派手だったし、火事の後で見かけなくなったんで死んだ気がしていたが、あいつらは揃って軽い火傷を負っただけだ。


 思い返してみれば、三年前の火事で犠牲者は出なかったはずだ。

 では、あの雪だるまは――

 とりあえず、空き地に面した窓のカーテンを閉めたままにしておこう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る