第47話 おばけビルヂング
ああ、まただ。
また、あいつがいる――
ガラス窓に顔と両手をベッタリ貼り付かせた、ダークブラウンの長い髪をバサバサに乱したスーツ姿の若い女。
視界を
都心方面へと向かう電車の、自宅から五つ先にある急行停車駅。
あと十秒で停まるくらいのタイミングで、進行方向右手にモスグリーンの塗装をされた六階か七階建ての古いビルが目に入る。
いつからか、そのビルの窓にへばりついてこちらを凝視している、おかしな女がいるのに気付いてしまった。
こちら、といっても目が合うこともないので、電車を見ているのだと思われる。
だが、何にせよ女の行動の奇妙さには変わりがない。
毎日その姿を目撃するでもないが、週に二回か三回は見ている気がする。
行きに見なかったのでホッとしていたら、帰りにあの顔に出くわすことがあった。
それに、女を見かける窓の位置が、いつも違っているのがよくわからない。
今日は最上階で見たと思えば、三日後に見るのが二階下だったりする。
緑のビルが丸ごと全部同じ会社が入っているにしても、あんな意味不明かつフリーダムな行為が黙認されるのだろうか。
そうやって色々と考えている内に、『あいつは見えてはいけないものではないか』との疑念が、俺の中で
そんなこんなで、なるべくビルを視界に入れないようにしていた。
なのに最近どういうわけか、変な女を見てしまう確率が高まっている気がする。
電車に乗る度に妙な緊張を強いられるのにウンザリしてきた俺は、あの女が何なのかを突き止めるべく、休日に問題のビルまで行ってみることにした。
そして週末の昼前、俺は目的地の最寄りである急行停車駅へと降り立った。
何の用もない場所なので、改札を出るのすら初めてだ。
駅周辺はそれなりに栄えているようだが、大型ショッピングセンターが幅を利かせすぎていて、街の
どこの駅前も近頃はこんな雰囲気だな、と思いつつビルのある方へと足を向けた。
「どこにあんだよ……」
二十分近くウロついたのに、モスグリーンの古ぼけたビルがどこにもない。
何となくそれっぽい建物の並びは見つけたものの、ビルがあるべき場所にはコインパーキングが広がっている。
記憶を頼りに改めてもう一周するが、やはり見つけることができない。
線路との位置関係からしても、この付近なのは確実なのに。
スマホの地図アプリを使ってみても、それらしい場所は出てこない。
こうなったら交番で確認するしかないか――と思いつつ、休憩と昼食を兼ねてパーキングの隣にある洋食屋に入る。
年季の入った店構えに
壁に貼り出されているメニューの数はやたら豊富だが、こういう店は料理の当たり外れの落差がデカい。
平然とレトルトを出してきたり、美味くても完成まで異様に時間がかかったりする、そんな罠が待ち構えていることがままある。
なので安牌として日替わりランチセットを注文し、ついでに質問も投げてみた。
「あの、すいませんけど……この辺に緑色っぽい、六階建てか七階建てかのビルってありませんかね」
「あら、久しぶりねぇ」
「え? いやあの、ここ来るのは初めてで」
「じゃなくて、あの『おばけビル』の話が久々なの」
何気なく出された『おばけ』という言葉に、あの女の無表情が思い浮かぶ。
内心の動揺を隠しつつ、苦笑を作って質問を重ねる。
「おばけビル、って呼ばれてるんですか?」
「そう呼ぶしかないからねぇ……やっぱり、あなたも見えちゃったの?」
「んぁ、えっと、まぁ」
「そうなんだぁ。ビルが取り壊されてそろそろ十年になるし、しばらくは話題も出なかったから、もう終わったとばっかり――はいはーい、ちょっと待ってね」
サラッと不可解なことを口にしたオバさんに、どういう意味なのかを確かめようとしたが、別の客からの注文が入ったせいでタイミングを逸してしまった。
料理が運ばれてきた時にでも、もう一度ちゃんと話を聞かなければ。
そんなことを考えていると、向かいの席に座っているおっさんと目が合った。
「兄ちゃん、おばけビルのことを調べに来たのかい」
「えっ、あぁっと……多分、そういうことになるんじゃないかと」
おっさんがいきなり声をかけてきて、困惑しながら対応する。
白髪が八割の髪を短く刈って、高級感はないが清潔感はある服装をしている。
雰囲気からして、店のオバさんと同年代だろうか。
年金生活には早いようにも思えるが、生姜焼きと一緒に瓶ビールを頼んでいるし、そもそも自由人なのかもしれない。
「ここの隣のビルは、俺がガキの頃からあってな。昔はここらで一番デカかったんだわ」
「隣、というと今はコインパーキングになってる」
「駐車場が出来たのは一昨年だけどな。建物は古いが立地はいいから、テナントは常に埋まってたんだけどよ……火事が出ちまった」
火事、と
こちらの動作に合わせたようにおっさんはビールを
「二階に入ってた飲み屋から火が出てな。あっという間に屋上まで真っ黒焦げよ。さすがに焼け落ちるまではなかったが……直してどうにかなりそうもない、ひでぇ有様だった」
「被害的には、どんな感じで」
「火事で人死には出なかったんだがな。権利関係だか保険関係だかでゴタゴタしててたらしくて、焼けてから半年しない内にオーナー一家が行方不明になって大騒ぎさ」
「それは、ニュースにもなるような?」
何となく声のボリュームを下げて訊くと、おっさんは空のグラスにビールを注ぎながらゆったり頭を振る。
「俺の店もこの近くなんでな。警察だけじゃなくて、マスコミっぽい連中にも色々と訊かれたけどよ……結局、TVでも新聞でも何の音沙汰もなしだ」
「はぁ、そんなことが」
「で、火事から一年ぐらいでビルを取り壊して。だってのに、それからしばらくは夜中ここ通ったら普通にビルがあったとか、電車の窓から昔のまんまのビルが見えたとか、そんな話がしょっちゅうでな。気がつけば『おばけビル』って呼ばれる地元の怪談になってたのさ――まぁ、正しくは『ビルのおばけ』って感じだがよ」
おっさんはそう言うと、またビールを口にして生姜焼きに箸を伸ばした。
そんな動作をボンヤリ眺めつつ、俺は聞かせてもらった話を検討する。
モスグリーンのビルが現存しないとなると、俺の見ていたアレは何なのか。
実在しない建物の中にいる女とは、どういった存在になるのだろう。
考えても考えても、「意味がわからない」という結論にしか辿り着かない。
「お待たせしましたぁ」
「ああ、どうも」
予想した通り、頼んだ日替わりランチは素早く提供された。
目玉焼きの乗ったハンバーグを中心としたセットは、値段以上のボリュームがある。
デミグラスソースの匂いに空腹感を刺激されつつ、もう一度話を振ってみた。
「そういえば、さっき言ってた『おばけビル』って、あなたも見たことあるんですか」
「いやそれが
わざとらしく笑ったオバさんは、伝票を置くと小走りでテーブルから離れる。
行き先を目で追うと、さっきのおっさんがいつの間にかレジの前にいた。
もう少し聞いておきたいことがある気もしたが、あまり食い下がるのも迷惑だろう。
そう判断して呼び止めるのは止め、ハンバーグにナイフを入れて食事に取りかかる。
ファミレスで出てくるものより数段は質が高いはずだが、今の俺にはイマイチ味がわからなかった。
食事を終えた店を出た後、隣にある駐車場を眺める。
当然ながらそこにビルはなく、アスファルトで舗装された敷地の先には、いつも使っている路線の高架が見えた。
帰りにあそこを通る時、ビルがあってもなくても大混乱しそうだ。
そんな予感が拭いきれなかった俺は、隣の駅まで歩くことにした。
そして、週明けの月曜日。
毎度のように人口密度の高い電車に揺られていた俺は、問題の駅が近づいているアナウンスをいつになく真剣に聞く。
電車の速度が緩やかになり、窓の外に目を向ければ見慣れたモスグリーンのビルが――なかった。
思わず変な声が出そうになるのを噛み殺し、
理屈はよくわからない。
現地に行ったことで「そんなビルはない」と俺が認識したからか。
或いは『おばけビル』の話が広まったことでアレが満足したのか。
ともあれ、これで仕事の前後に待ち構えていた余計な憂鬱が軽減されそうだ。
そんなポジティヴな予感を胸に、動き出した電車の窓に目を遣る。
そこには、あいつがいた。
顔と両手をガラスにベッタリ貼り付かせ、ダークブラウンの長い髪を風に舞わせたスーツ姿の若い女が。
数十センチ先の至近距離にいる女は、いつものような無表情ではなく――
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