第39話 違う、そうじゃない

「ちょ――いやいやいやいや、お前マジか! 待てってオイ!」


 盛大にテンパったわめき声と小走りに駆ける音が、背後から接近してきた。

 またかよ、とウンザリしながら足を止め、振り返って相手の様子を確認する。

 スーツの上にコートを羽織った、俺より少し年上の三十前後の会社員。

 声の調子から予想はしていたが、やはり酒が入っているようだ。

 俺は小さく溜息を吐き、ここから展開するであろう胡乱うろんなやりとりに備える。


「オイオイオイ、どういう――ぅん? あれっ?」

「は? 何ですか」


 呼び止められた理由はわかっているが、敢えて困惑した様子を前面に出して応じる。

 安っぽい油の臭いと、甘ったるい酒の匂いを漂わせた男は、キョロキョロと辺りを見回した後で動きを止め、改めて周辺のアチコチに視線を飛ばす。


「んー? おぉ? おっかしいなぁ……」

「用ないなら、もう行きますけど」

「いや違くて、用とかそういうんじゃなくて……えぇええ?」


 俺は酔っ払いの相手はしていられない、みたいな雰囲気を出しつつその場を離れる。

 こういうトラブルに巻き込まれるのは、今週に入ってもう二回目だ。

 始まったのは三ヶ月くらい前からだが、最近は頻度が上がってきている気がする。

 ただ、これまでも声をかけてくる奴は決まって酔っていたから、忘年会シーズンだからハイペースになっているだけかも。


「待ってくれっての、なぁ!」


 まるで納得がいかないらしい男が、息を荒くして俺を追いかけてくる。

 今回もまた、聞きたくもない話を聞かされるのか。

 鬱陶うっとうしさが募り、シカトして振り切りたくなる。

 だが、それで前に血の気の多いおっさんと掴み合いになったのを思い出し、嫌々ながら再度足を止める。


「だから、何なんですか」

「何って、その……アレだって。さっきアンタが背負ってた、あの裸の子供」

「ハァ?」

「ん、あぁ……まぁそう、そうだよなぁ……でもなぁ」


 まだ腑に落ちない様子でグダグダと呟いている男を残し、俺は早足で立ち去る。

 今回は裸の子供、だったか。

 前回は下着姿の女で、その前は血まみれの少女。

 そんなのを俺が背負っている――ように、一部の酔っ払いには見えるらしい。


 営業を終えた店の暗いガラス戸に映る自分を眺めても、当然ながら背中にしがみついている何かはいない。

 重さや息遣いを感じることもなく、ただひたすらに意味がわからない。

 妙なものにとり憑かれる心当たりもないし、本当にこれはどういうことなのか。

 最初はタチの悪い冗談かと思ったが、こうも続くと対策を考えたくなる。


「え? うぅわ」


 もう聞き慣れた感じの声が、今度は頭上から降ってきた。

 見上げると、右手にある古いビルの二階の窓に誰かいる。

 遠目でも化粧の濃さが伝わってくるオバサンが、寒さのせいで白さを増した煙草の煙を吐き出し、目を見開いてこちらを見ていた。

 

 どうせいつも通りのやりとりが待っているのに、一日に二度は流石にキツい。

 そう判断した俺は、それ以上の反応はせずにオバサンに背を向けた。

 にしても何というか、この状態は気分が良くないにも限度がある。

 御祓いとかをするべきなのかもしれないが、そもそも霊的な現象なのか。

 あまり関わりたくないが、その手のことに詳しい知り合いを頼ってみるべきか。



         ※※※



「あっはっはっは!」


 次の週末、とある駅前の喫茶店。

 大学時代の先輩の元カノで『霊感が強い』と評判だったランさんに連絡し、そこで久々に顔を合わせることになったのだが、挨拶しようとした瞬間に大笑いされてしまった。

 楽しげではなく、どこかわざとらしいような、引き攣った感じが見える。

 どうすればいいのかわからないまま、俺はランさんの対面に腰を下ろし、笑いが収まるのを待った。


「ふーぅ……いやもう、冗談キツすぎるってレベルなんだけど」


 一頻ひとしきり笑ったランさんは、大きく息を吐いてから氷水を飲むと、テーブルに身を乗り出してジト目で俺を見据える。

 いや、正しくは俺の背後を見ているのだろう。

 やはり、今日も俺は何かを背負っているのか。


「後ろに……いますか」

「いるね」


 ランさんはこともなく言うと、普通に座り直して短くて細い煙草に火を点ける。

 そして駄菓子っぽいニオイのする煙を吐き、凝りをほぐすように眉間を揉む。

 後から来た俺の分の水とメニューを置いて店員が下がったところで、確認のための質問をしてみる。


「何が、いるんですか」

「裸の子供……幼稚園くらいの。女の子かな」


 自分がどういう指摘をされたか、ランさんに具体的な説明はしていない。

 ただ、妙なのに憑かれてるかもしれないから相談に乗ってほしい、と頼んだだけだ。

 なのに先週の酔っ払いと同じことを言われ、「ぅが」と変な声が漏れる。


「それと」

「それと?」

「血塗れの若い女」

「え、いやあの……二人?」

「見えるのは、ね。気配だけベタッと残ってるのもいる」


 予想外の話になってきて、思わず背後を確認する。

 だけどそこには何も見えず、気配とやらも察知できない。


「しかし凄いなキミ……どこで何をやらかしてきたの」

「心当たり、全然ないんですが」

「そっかぁ。でも、原因がないのに結果はあったりするのが、こいつらの厄介さだから」


 嘘くさい笑顔を作りながら、ランさんは俺の肩の辺りを目掛けて煙を吐く。

 独特すぎるニオイに軽くせた俺は、冷水を一口飲んでからここ三ヶ月で起きたことをランさんに報告する。

 自分でも状況がよくわからないせいで、かなりあやふやな説明になってしまったが、それでも伝えるべき内容は伝えきれた――と思うので、本題を切り出すことにした。


「これって、どうにかなりませんかね。俺にはまるで見えないのに、ずーっと背中に何かいるのって、かなり気味悪いんですけど」

「どうにか、ねぇ……」


 長い髪を掻き上げるポーズで固まったランさんは、三十秒ほどそれを続けた後でカバンを漁り始めた。

 そして、チャックつきの小さなビニール袋を取り出し、それを俺の前へと滑らせる。

 透明の袋の中に入っているのは、象牙ぞうげ色の和紙らしきもので作られた、指先サイズの『おひねり』だ。


「……これは?」

「薬っていうか……まぁ、説明めんどいし薬でもいいか」

「クスリ、ですか」


 紙包みの中に丸薬か粉薬でも入っているのだろうか。

 随分と古めかしいが、使用期限とかは大丈夫なのか。

 そんなことを考えていると、ランさんは袋の端を指先でトンと叩いて言う。


「それを丸ごと焼いて灰にして、その灰をコップ一杯の塩水に溶かして飲んで。塩水の濃度は海水と同じくらい」

「飲めば、どうにかなりますか」

「なると思うんだけどね。まぁ、とりあえず試してみてよ」

「はぁ……」


 あまりにもおまじないチックで、多少の抵抗感は否めない。

 しかし、自分の現状の奇怪さからすると、こういうものこそ効果があるのか。

 そう割り切った俺は、ランさんに礼を言って袋をポケットに入れた。

 それからランさんは、その儀式に必要な準備と手順についての説明をしてくれた。

 意味はよくわからなかったが、とりあえず重要そうなポイントはメモしておく。


「んじゃ、どうにもならなかったら、また連絡ちょうだい」

「了解です。今日はワザワザ、ありがとうございました」


 ランさんは、頭を下げた俺の背後を渋い顔で見据え、その表情のまま店を出て行った。

 それを見送った俺は、ポケットから小袋を取り出して中の何かを眺める。

 薬だとランさんは言っていたが、これの材料は何なんだろう――

 かなり気になるが、知ってしまうと飲めなくなりそうな予感もある。

 なので、明日にでも早速使ってみることにしよう。



          ※※※



 ランさんの指示によると、例のクスリは蝋燭ろうそくから火を移して鉄の皿の上で焼け、とのことだ。

 貰い物のアロマキャンドルならあったが、何か間違ってる気がするのでコンビニで仏壇用のを買うことにした。


 鉄の皿なんてどこで買えばいいのかわからないから、いつもはアヒージョ作りに使っているスキレットで代用する。

 塩水を作るにはなるべく自然塩を使え、とも言っていたがこれは岩塩でいいだろう。

 海の塩分濃度に関しては、ネットで調べたから多分大丈夫だ。

 変な緊張感はずっと付き纏っていたが、作ってみれば簡単に完成してしまった。


「しかしキッツいな、このニオイ……」


 テーブルの上に置かれた、暗灰色あんかいしょくの液体で満たされたコップ。

 そこからは、長年放置した金魚鉢の水を使って焦げたホットケーキを作り、その上にすり下ろした生タマネギをぶっかけたような、ジャンル分け困難な臭気が立ち上っている。

 発作的にシンクにぶちまけたくなるのを我慢し、鼻を摘まんで目を閉じてコップの中身を口に含んだ。


 強烈な塩気と苦味と金気かなけと渋味に驚いたのか、舌が全力の拒絶反応を脳に送り込んでくる。

 とにかく吐き出そうとする意識を捻じ伏せ、俺は心を無にしてコンクリ色の塩水を嚥下えんかしていく。

 そして、一分ほどの苦闘の末どううにかカラにし、叩きつけるようにコップを置いた。


「うぅ、っぷぁ……」


 後味も最悪で、口をゆすぎたくて仕方ない。

 しかし、ランさんからは「飲んだ後しばらくは何も口にするな」と言われている。

 酩酊めいてい感なのか浮遊感なのかわからない、眩暈めまいに似た感覚が収まるのを待っていると、頭の芯の方から違和感が広がっていく。

 それはまるで、硬くイガイガした形状の何かが血管の中を大量に流れているような、不自然で不愉快な感覚だった。


 もしかしてこれ、ヤバいんじゃないか――

 嫌な予感は、完成した薬のニオイを嗅いだ瞬間から続いていた。

 それが確信に変わったのは、数百メートルを全力疾走した直後のような動悸どうきと、やけに色の薄い鼻血が止まらなくなってからだ。

 痛みを伴ったりしているわけじゃないが、ティッシュを詰めてもすぐに押し流されてしまうのは、いくら何でも異常すぎる。


「ったく、どうなってんだ……」


 どう考えても、あの薬が原因なのは間違いない。

 そもそも本当に薬なのか――と今更な疑問を感じつつ、俺は洗面所へと向かう。

 そして水っぽい赤色に塗れた顔と手を洗うが、鼻血の止まる様子はない。

 下を向いていると、際限なく薄い血がしたたり続けてしまう。

 五分後にもこんな状態だったら、これはもう救急車を呼ぶべきなのかも。


 蛇口から流れる水に絡めとられ、排水口へと吸い込まれていく血をボンヤリと見つめる。

 心音のやかましさと頭の中の違和感と止まってくれない鼻血が、俺の思考能力を著しく低下させているようだ。

 とりあえず、飲んでしまった薬だか毒だかを吐き出した方がいいのではないか。

 混濁した脳内から浮かんだそれは、文句のつけようがない名案のように思えた。


 スッと顔を上げると、二日徹夜した後のごとく黒ずんだ目の周りと、上気した頬の組み合わせが何ともチグハグな、異様なことになっている自分たちが鏡に映る。


 ――たち?

 

 俺の背後から肩と首に筋張すじばった手を回して、しがみついている何か。

 男なのか女なのか若いのか年寄りなのか、見たものを理解する前に慌てて目を逸らす。

 これはダメだ――こんなものを直視してはダメだ。

 両の眼窩がんかにS字フックをギチギチに突っ込まれているような、そんな存在は。

 

 流れる鼻血をそのままに洗面台から離れ、ヒザの笑う両足を引きずりながら、部屋に置いてきたスマホを取りに戻る。

 ランさんが言っていた「どうにかなる」に対する苦情が、有名な曲のフレーズとなって頭の中で渦巻いていた。

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