第34話 図鑑に載ってないアレ
首から胸にかけて、得体の知れない圧迫感があった。
生温かい重さがへばりついていて、どうしようもなく息が詰まる。
日光に晒されすぎたプールで溺れているような、そんな感覚。
眩しい――ここは――あれ?
気がつけば、見慣れたアイボリーの天井と、LEDの平べったく白い照明が視界に入り込む。
自分の部屋で一人酒をしていて、いつの間にか
圧迫感の原因を
何年飼っても馴れない猫だな――と思いつつ、変な寝癖がついた髪を撫でる。
時計を見れば、あと数分で夜中の三時といったところだ。
このまま寝直したいダルさだったが、そうするには頭がハッキリしすぎている。
「あー……歯、磨いとくか……」
大した量も飲んでないのに寝落ちしてしまうとは、疲れが溜まっているのか酒に弱くなったのか。
どちらにしても、まだ三十前だってのに先が思い遣られる。
三十近いのに実家暮らしでバイト生活、って事実にも不安しかないが。
そんなことを考えながら、二階の自室から一階の洗面所へと移動する。
床で寝たのがマズかったのか、右肩や腰の周りに違和感が残っている。
階段を下りながら腕を回したり、背筋を伸ばしたりしてみるが、あまり効き目があるようにも思えない。
いっそ、もう一回風呂にでも入ろうか。
そんな考えも過ぎったが、それをやったら完全に目が覚めてしまう。
「明日は休み、明後日は遅番……」
中身の少なくなった歯磨き粉を捻り出しながら、小声で何となく呟く。
学生時代には確実にあった、休日前に浮き立つ気持ちはどこに消えてしまったのだろう。
最近は仕事している時も遊んでいる時も、無意味にダラダラしている時でさえも、大体同じ低めのテンションで固定されている気がしてならない。
特に用事も目的もないが、明日はどこか遠出してみようか。
電車で街に出てもいいし、自転車でフラフラ走ってもいい。
ボンヤリと明日の予定を考えながら歯ブラシを動かしていると、視界の右端に何かがあるのに気付いた。
近眼を細めて、その何かを凝視する。
黒っぽくて、一センチないくらいの――シミだろうか。
いや違う、じわじわ動いてる。
Gの幼生かとも思ったが、フォルムからして違うように思えた。
メガネを置いてきたせいで、パッと見だとよくわからない。
もっと近付いて見ようとして、飛んでぶつかられるのもイヤだ。
多分チョウバエとかいう羽虫だろうと判断し、ブラシを咥えると右手の人差し指で始末することにした。
かしゃふ
ちょっと予想してない音と手応えがした。
セミの抜け殻を握り潰したような音と、短いチョークを指先で押し砕いたような感触。
意識の外側にあるモノに触れてしまった薄気味悪さに、ふつふつと肌が粟立っていく。
「うぅわ――」
指先を確認すると、潰した何かのサイズとは釣り合わない、大量の赤色でベットリと染められている。
動物性でも植物性でもなさそうな、メタリックな
クリーム色の壁を見ると、濡れた手で触った後の水滴がチョコンと残っているだけで、黒い残骸も赤いシミも存在しない。
何だこりゃ、何が、何を――何なんだ?
混乱しつつも、まずは妙な汚れを落とそうと流水で指を
洗面台は赤く染まるが、赤色の薄まっている感じがまるでしない。
石鹸を使ってみても、汚れた範囲が広がるばかりで、事態は一向に改善しない。
シャンプーとかメイク落としとか、そういうのを使ってみるか。
思い付いて風呂場に向かおうとすると、指先に痛みが走る。
刺し傷や切り傷によるものではない、輪ゴムを何重にもキツく巻かれた状態に似た、締め付けられるタイプの
痛む箇所を見ても触れても、何が起きているのかわからない。
もしかすると、この赤に塗りつぶされている下で、ヤバい感じに肌が変色してたりするのだろうか。
ロクでもない想像ばかりが浮かんで、不安が胃の底に溜まっていく感じがする。
ゴトッ
重たい落下音が響くのと同時に、視線が不意に五十センチほど下がる。
自分が両膝をついている、と気付くには五秒ほど必要だった。
いきなり妙な格好で転んだことに戸惑いながら、まずは立ち上がろうとするが力が抜けていく。
体は脳からの指示を無視して尻餅をつき、続いて上半身も床に突っ伏してしまう。
「っふ……ぁ……」
これは本格的にヤバい、と直感して大声で誰かを呼ぼうとするが、舌がロクに動かず口もまともに開いてくれない。
指先の
痛みを追いかけて
混濁する意識を捉まえられない。
海水のような味が口腔に満ちる。
体中が細かい泡で埋め尽くされていくような感覚。
この次に目が覚めた時、自分はどうなっているのだろう――いや、それよりも。
ちゃんと目が覚めるのだろうか。
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