第27話 雨の夜の窓の外の庭の

 夕方から崩れ始めた空模様は、日付が変わってからも回復する気配を見せず、多少の強弱をつけながら雨を降らせ続けていた。

 二十センチほど開けた窓からは、雨粒が道路や屋根や木々を叩く音が、生ぬるい湿気を含んだ微風と共に、カーテンと網戸をすり抜けて入り込んでくる。


 単調な音のつらなりが意識の集中を助けてくれたのか、週明けに控えているテストに備えての復習が随分と捗った。

 戸建ての二階にある自室で机に向かったまま、もう何時間が過ぎただろう。

 背筋を伸ばしながら壁の時計に目を遣ると、既に深夜の二時を回っている。

 明日は土曜で学校は休みだけど、頭の芯に重たい何かが居座り始めたような感じもあるし、今夜はもう寝てしまうとしよう。


 そう決めてベッドに潜り込んでから三十分。

 眠気は間違いなくあるのに、変に目が冴えてしまっている。

 数時間前に飲んだコーヒーが、必要以上に仕事をしてくれているのだろうか。

 諦めて部屋の明かりを点けたが、勉強に戻れるテンションでもなかったので、買ったまま積んでおいた小説へと手を伸ばした。


 大ヒット中だと宣伝されているミステリーだったが、緊張感の乏しい展開と性格設定が曖昧な主人公のせいで、読んでいて少々ストレスが溜まってくる仕上がりになっている。

 これはちょっと、ハズレだったかな。

 読むのを中断しようかと悩み始めたところで、静かな雨音に不可解なものが混ざっているのに気付いた。


 パラララララララッ

 パタタタタタタタッ


 そんな感じの連続音が、ホワイトノイズに似た単調な雨音に割り込んでくる。

 壊れた雨樋あまどいが作る小さな滝の下で傘を差しているような、大粒の雨がトタン屋根を叩いているような――

 二度三度と続くこともあれば、五分くらいの間隔が空いたりもして、発生は不規則だ。

 だからこそ気になるし、引っかかる。

 ベッドから身を起こし、窓に近付いて耳を澄ませてみた。


 パラララララララッ――チャッ

 パタタタタタタタッ――チャチャッ


 集中して聴くと、例の音がしてから数拍の間を置いて、水気のある音が鳴っていた。

 水溜りを踏んだような、泥濘ぬかるみで飛び跳ねたような、そういう感じの。

 どうして、こんな音がこんな時間に、こんな場所で。

 耳から入ってくる情報だけでは、窓の外に何がいるのかわからない。


「ん? ……いる?」


 自分の考えにつまづかされて、思わず呟きを漏らす。

 この音が自然現象ではなく、不自然な代物だと無意識に判断しているのか。

 ともあれ、こうなっては放置することもできそうにない。

 数呼吸分の逡巡しゅんじゅんの後、そっとカーテンを開いて庭を見下ろした。

 月の光はなく、街灯も隣家にさえぎられていて、敷地に存在する諸々はボンヤリとした輪郭だけをこちらに伝えてくる。


 手入れの行き届いていない庭木と、デカくて邪魔クサい庭石。

 ブレーキが壊れたのを修理せず、錆びるに任せてある自転車。

 内容物の八割以上が不用品で構成されている、金属製の物置。

 そして、狭い空きスペースでヒラヒラと動き回る、何かの影。


 ――――何かって、何だ。


 冷水に漬けた刷毛はけで撫でられたような、ひんやりとベトついた感覚。

 そんなものが背中から首筋へと這い上がり、短い震えが途轍とてつもない居心地の悪さを連れてくる。

 見ない方がいいもの――或いは、見てはいけないもの。

 庭に今いるのは、そういった類の何かだ。

 

 関わり合いになるべきではない、それはわかっている。

 しかし、あんなものが網戸一枚を隔てた先にいるというのに、見て見ぬフリで寝てしまえる程に頑丈な神経は持ち合わせていない。

 なので、正体を確かめるべく庭の影へと目を凝らす。


 フォルムは強いて言えば――二本足で立ったカエルに似ている、だろうか。

 体長は多分、一メートルに足りないくらい。

 腕は長くて足は短く、体はフラフラと揺れている。

 トタン板らしきものを手にしていて、それで空中をあおいでみたり、ピザ生地みたいに回転させて頭上に飛ばしたりしている。


 パラララララララッ――ピチッ

 パタタタタタタタッ――チャッ


 あのトタンを叩くような雨音は、実際にトタンに雨が当たる音だったのか。

 トタンは暗い中でも古びているのがわかる。

 サイズは大体、畳半分くらいだろうか。

 水っぽい音は、放り投げたトタンをキャッチする際に出る足音のようだ。

 息を殺して観察を続けていると、隣家の二階にある部屋の明かりが点いた。


 カーテンを引いていない窓が、スポットライトのように庭に色を着ける。

 濡れたトタンは不恰好にゆがみ、赤錆がまだらに浮いていてふちもボロボロだ。

 それを両掌で持ち上げているのは、ツルッとした印象の何だかわからないもの。

 ラテックスに似た質感がある、上半身が膨らんでいて下半身はちんまりした、子供の描いた絵みたいなバランスの白っぽい体。

 その上に、生まれたての犬にどこか似ている、大きな頭が乗っていた。


「ぅひっ、あ」


 その姿を認識すると同時に、無意識に喉の奥から呻き声が漏れていた。

 まずい、と直感して窓から離れようとするが、膝に力が入らず尻餅をく。

 ほんの一瞬の間だが、視線が交錯したような気が。

 アレに見られたと思うと、どうしようもない怖気おぞけに囚われてしまう。

 窓から、庭から、なるべく離れたくて、部屋の隅まで後ずさる。


 口を開けば意味のない悲鳴を垂れ流してしまいそうで、鼻から下を両手で握り潰すようにして押さえる。

 強く抑えてもなお、上下の奥歯が細かく音を立て続けた。

 また、あの音が聴こえる――

 それを予期して身構えるが、あのトタンが雨粒を弾く音はせず、部屋に流れ込んでくるのは雨音だけだ。


 固まった姿勢のまま、次に起こることをジッと待つ。

 呼吸も落ち着いて、動悸が元に戻っても、まだ何も起こらない。

 もう大丈夫、と油断したところで来るつもりか。

 そんな警戒もあって下手に動けず、微かに揺れるカーテンの模様をただ見つめる。


 やがて、新聞配達のものらしいバイクの排気音と、乱暴にスタンドを蹴り下ろした音で、床に丸まって寝ていた自分に気付く。

 あんな状況でも眠れるのか――自分の意外な神経の太さに呆れつつ、首筋と背中に鈍い痛みを感じながら立ち上がる。

 いつの間にか雨は止んでいるようで、室内には薄明かりが入り込んでいる。


 何だか拍子抜けしてしまい、昨夜の出来事も全部夢だったのかも、などと思いながらカーテンを必要以上の勢いで開ける。

 自分を騙しきれず、数瞬の躊躇ちゅうちょを挟んでからそっと窓の外を見下ろす。

 草ぼうぼうの庭の中心部に、見覚えのあるトタン板が垂直に突き刺さっていた。


「んげぁ……」


 声にならない呻きが、ゲップに似た塊になって吐き出される。

 トタンを投げていたあの、アレのことは夢じゃなかった。

 気が遠くなる思いで、見なかったことにしてカーテンを閉めようとするが、そうする直前にある感情が頭の中で急速に拡がっていく。


 アレの置き土産を残しておくのは、色々とマズいんじゃないか。


 理由はわからないが、確信に近い強さでそう思える。

 とにかく、放置しておくのは危険なような。

 いや、危険というのも違う――不吉、不穏、不安、とにかく落ち着かない。

 今日は不燃ゴミの回収日だから、ゴミ捨て場に放ってくれば何とかなるだろう。

 そう判断して軍手を装着し、トタンを引っこ抜くために外へと出て行った。


 サンダルで出てきたことを後悔させるレベルで、庭全体はゆるんでいた。

 飛び石を伝って歩こうにも、放置された雑草に埋もれて上手く行かない。

 諦めて足元を汚しつつ、問題のトタンの前へと辿り着く。

 朝の光の中で見る、地面に半分ほど埋め込まれたトタンは、数時間前よりも更にボロボロな印象を与えてきた。

 その辺に落ちているようなものでもないし、廃屋から剥がしてきたのだろうか。

 

「……ん?」


 裏面に回ってみると、爪か釘で引っかいたような細い線が見えた。

 文字――ではなく図形、だろうか。

 知っている何かに似ている気がするので、意味のない落書きではなさそうだ。

 円の中に三本の線が引いてある、そんなものが掌サイズで書き残されている。

 これに似た形を、夏休みに田舎の墓参りに行った時に――


 そうだ、思い出した。

 母方の実家の家紋が、確かこんなのだった。

 それはわかった――が、その他の事はなにもわからない。

 どうしてここで、あんなものがあんなことをしていたのか。

 偶然ではなく、ウチだと知って来ていたのだろうか。

 ならばその理由、その目的、その意味は。

 もしかして、今回が最初というわけでもないのか。


 考えれば考えるほど、不快さと不可解さが増していく。

 とりあえず、こんなものは始末して忘れてしまうとしよう。

 そう決めて地面に刺さったトタンを一気に抜いた。

 ――つもりだったが、妙に抵抗があるというか重みがあるというか。

 フッと視線を下に向けると、黒く粘つく網状の何かがトタンにへばりついて、蛞蝓なめくじみたいにうごめいていた。


「なんっ? なっ、な?」


 意味のない疑問形を発しながら手を離すと、湿った音を立ててトタンが横倒しになる。

 今の黒いのは、一体――

 自分が見たものについて考えていると、『べにょ~ん』という感じのどこか間の抜けた、民族楽器が奏でたような耳慣れない音が低く響いた。

 ハッとしてトタンの方を見ると、いつの間にか草の上から消えている。

 後には、庭に突き立っていた痕跡だけが細いクレバスとして残っていた。

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