第25話 お前は何と戦ってるんだ

 オタク向け書店ってのは、どうしてこう微妙な立地にばかりあるのだろう。

 飲み屋の連なる通りを抜けた先にある、築半世紀を楽勝で越えていそうなビルを見上げながら、そんな疑問ともいえない思いが湧き上がる。

 ビル入口の極端な素っ気なさと、誘導のための案内標識の足りなさも、無駄に一見客の入るハードルを高くしているんじゃなかろうか。


 建物内は全体的に照明が弱く、三階に入っているタイ料理の店が発生源と思しき、スパイシーな空気が漂っている。

 小中学生の頃に夢中になって読んでいた漫画家の、十年ぶりの新作。

 そのサイン本が特製小冊子つきで販売されるというので、最近は御無沙汰だったこの手の場所に足を運んだのだが、久々なせいか粗ばかりが目に付く。


 専門店という看板に胡坐あぐらをかいた、商売をナメた姿勢が感じられる。

 あまりに銭ゲバっぷりを前面に出すのも何だが、このままでは客が入らずに潰れてしまうのもそう遠くないのではないか。

 ボンヤリとそんなことを考えつつ、エレベーターの上階行きのボタンを押した。

 そして、目指す店のある七階に停まっていたカゴが、過度にゆっくりと降下してくるのを待つ。


 階数表示が四階を過ぎたところで、背後から騒々しい足音が近付いてきた。

 何だろう、と振り向いて確認すると、初夏に片足を突っ込んだ今日の陽気にそぐわない、重たげなジャケットを羽織った男がドタドタと駆けてくる。

 オリーブ色のジャケットの下には迷彩柄のシャツを着込んでいて、ズボンも無骨なデザインの迷彩柄で足元はコンバットブーツ、というミリタリー尽くしのコーディネート。

 どこの脱走兵ですか――と失笑しかけるが、男の浮かべている険しい表情に危うい気配を感じたので、目を逸らしてその存在を意識から追い出そうと努力する。


「ふーっ、んふー、ふぅうう、ぅふー」


 やたらと息が荒い。

 それに距離が近い。

 ついでに、黴臭さと生臭さが混ざったような、不快指数の高いニオイも鼻につく。

 額の汗が集まって玉になり、剃り残したヒゲの目立つたるんだあごへと流れる。

 やっぱりどこかオカシい奴だな、こいつは。

 そう判断した私は、右斜め後ろ方向へと一歩下がり、左隣に陣取った男から離れた。


 カゴの到着を待ちながら、兵士もどきをコッソリと観察してみる。

 服装はアグレッシブなのに、髪は長くも短くもなくカラーリングもしていない。

 旋毛つむじの自己主張が強く、後頭部の地肌は露出度が高まっていてフケも目立つ。

 やや猫背気味なので正確なところはわからないが、身長は百六十ちょっとの私よりも数センチ高いくらいか。


 中肉中背だが胸板は薄くて首も細く、筋肉質から程遠い下腹だけポコッと出た体格には、軍人っぽさは皆無で服装とのアンバランスさが酷い。

 太っているでもないのに顔全体がれぼったく、機嫌が悪そうな気配を周囲に振り撒いていた。


 こういう尖りすぎたファッションセンスってのは、周りからのアドバイスでもって矯正されたりしないのだろうか。

 そんなことを考えながらスマホをいじっていると、エレベーターの扉がゆっくりと開いて、中から三人の若い男女が出てくる。

 友人同士なのか、テンション高めに笑い合っていた男二人と女一人のグループは、軍服姿の男を見てギョッとした反応で一瞬固まった。

 それから縦列になって早足で男の横を抜け、十歩ほど離れた辺りで笑いを弾けさせる。


 女の声で『マジヤバくない? あの軍人くん』という発言があり、聞いた瞬間つい吹き出しそうになるが、ギリギリのところで踏みとどまった。

 軍人くん呼ばわりされた男は、不機嫌さを増した様子で三人組の後姿を見送っていたが、特に追いかけたり怒鳴り散らしたりのアグレッシヴな行動に出ることもなく、物騒さに磨きをかけた表情でカゴに乗り込んだ。


 その動きを目で追っていると、軍人くんの細い目と視線がぶつかった。

 意外な親切心を持ち合わせているのか、『開』のボタンを押した状態で私を待っている。

 昼間で人の出入りも多い状況で、何かが起きるなんてことはまずないだろう。

 しかし、四人も乗れば満員になってしまう狭い空間に、こんな悪い意味でミステリアスな相手と二人きりというのは心情的にキツい。


「あ、大丈夫です」


 なので、何が大丈夫なのか我ながらサッパリわからない断り文句を告げ、今ちょっと手が離せない人の演技をすべく、手にしたスマホに視線を落とした。

 中々エレベーターの扉は閉まらず、辺りの空気には緊張感が滲む。

 予想がつくので敢えて顔は上げないが、軍人くんはこちらをにらんでいるだろう。

 たっぷりと十秒近くの間を置いてから、扉はノロノロと閉まる。

 それに続いてカゴを移動させるモーター音が響いてきて、私は深々と安堵あんどの溜息を吐いた。

 

 閉鎖空間でのマンツーマンは回避できたが、軍人くんと私の目的地は恐らく一緒だろう。

 店の中で変な感じで絡まれるのも厭だな――と思いつつ、サイン本に関する情報をスマホで調べてみると、十五分ほど前のツイッターの書き込みで「残り三冊」とあるのを見つけてしまった。

 どこかで時間を潰して、軍人くんとの鉢合わせを避けようとすれば、その間に売切れてしまう可能性もなくはない。


「……しょうがない」


 小声で呟いて覚悟を決め、上向きの矢印が描かれたボタンを押した。

 上昇中だったカゴは六階でしばらく停まり、それからまたゆっくりと降下してくる。

 ありがたいことに、彼の行き先はオタ本屋ではなかったようだ。

 妙に落ち着かない気分で何度も後ろを振り返ってしまうが、軍人くんの同類が追加されるサプライズは発生しなかった。


 たっぷりらされた後で、ようやくエレベーターのドアが開く。

 そこには殺し屋めいた双眸そうぼうで私を睨んでる軍人くんが――待機してるような鬱陶しい展開もなく、カゴの中は無人だった。

 乗り込んだ瞬間、かすかな生臭さを鼻腔びこうで捉えた気がしたが、それも実際の残り香だったのかどうか怪しい。


 七階のボタンを押し、ドアの上部にあるパネルに並んだ店名や社名を何となく眺める。

 二階は洋楽メインらしいレコードショップ。

 三階はタイ料理屋で、四階は会計事務所。

 五階には皮膚科の病院が入っていて、六階はトレーディングカードの店。

 だが、赤テープがバツ印の形に貼られていて、今は営業していないようだ。


 カード屋は利益率高そうなのに、潰れる時は潰れるんだな――などと考えていると、その六階でエレベーターは停止する。

 そしてドアが開ききるのも待たず、外から緑の腕が伸びてくる。

 そうだ――先にこっちに気付いておくべきだった。

 あの軍人くんが、潰れた店しかないこの六階で、何をしようとしていたのかを。


「ヒッ――」


 荒っぽく手首を掴まれて、頭では叫ぼうとしているのだけれど、腹筋に力が入らずに声すらまともに出てくれない。

 乱暴に引っ張られながら、非常用ボタンの存在を思い出した。

 しかし赤色のボタンに手が届く前に、私の体はカゴの外へと引き出されてしまった。

 軍人くんの両目は大忙しに泳いでいて、吊り上った口の端が細かく痙攣けいれんしている。


「ンザクェヤガッテ、アァア? ナァンアーンダヨォ、オォオオ?」


 数百メートルを全力疾走した直後のような荒い呼吸音に混ざって、盛大に裏返った調子外れの高い声で男はなじってくる。

 正面から目を合わせるのを避けると、『ゲームショップ・クレセントムーンは三月で閉店しました』と貼り紙されたガラスドアが視界に入ってきた。

 狭いエレベーター前のスペースに、逃げ場らしい逃げ場はない。


 これはヤバい。

 こいつガチで頭おかしい。


 とにかく、暴れられるだけ暴れて、この場から逃げ出さなければ。

 まずはベットリと湿った手から逃れたくて、掴まれた腕を上下に振って引き剥がそうと試みた。

 しかし想像以上に握力があるのか、手首の骨が嫌な感じにきしんで痛みが走る。

 

「やっ……ちょ! 何すん――」


 それならば、とわめき散らしながら軍人くんを蹴り飛ばそうとするが、声はちゃんと出てくれないし、前蹴りは簡単になされてしまう。

 まったく鍛えてなさそうな奴でも、大人の男の力ってのはこんなにも強いのか。


 待って、ちょっと待って。

 洒落になってないんじゃないの、これ。


 自分の置かれた状況を認識した途端、どうにもならない恐怖心が全身へと滲み渡って、膝や腰がぐにょぐにょになっていく。

 スマホで通報――そう思い至ってバッグから取り出そうとするが、手が震えていたせいで取り落としてしまう。

 軍人くんは足元に転がったそれを踏みつけると、私の両肩を正面から鷲掴わしづかみにし、冗談みたいに紅潮こうちょうした顔と血走った目で見据えてきた。


「電話はっ、ちち違うだろ? なぁ、おい。おいって。い今この、このこれで、だぞ? ででっ電話はさぁ、ちょっともう、違う」

「え? えぇ――」

「へへっ、返事はっ!」

「ぅは、はいっ!」


 興奮で空回りしているのか、軍人くんはどもりながら私を揺さ振り、怒鳴りつけてくる。

 クサい息と一緒に、粘ついた唾液の飛沫しぶきが絶え間なく降ってきて、気持ちが悪いにも限度がある。


 あぁもう、コレ、完全にダメな流れだ。

 このままだと事件になる――いや、もう手遅れかも。


 どうにかして穏便おんびんに、この状況から脱出できないだろうか。

 テンパる神経を必死になだめながら、打開策を探して頭を回転させる。

 呼吸が乱れて顔が真っ赤なままの軍人くんは、肩から手を離そうとしてくれない。

 十本の指先に込められた力は、ジワジワと増している気がする。


「ざっけやが、やがって、ぉおお? オタッ、オタク女が、クソオタの分際っで、いいい一丁前に、くぁあああっ! んだよっ! なななっ、んだよぉあ!」

「やっ、いたっ! 痛いってぶぁあだだだだだだだだだだだっ!」


 激痛と称していいだろう感覚が、両肩から危険信号として鋭く発せられた。

 目尻には涙が溜まり、喉は悲鳴に似た苦痛の声を反射的に吐き出す。

 軍人くんは怒鳴っている内にますます興奮してきたのか、だらしない体からは想像できない力で肩を握り潰そうとしてくる。

 この両手が少しズレて、私の首に回されたら――恐怖心が飽和ほうわし、頭の中で火花が散った。


「ふんっ!」

「んん! ぅぽぇ――」


 体を密着させてきていた軍人くんの股間に、気合と共に右膝をカチ上げる。

 中途半端に硬いものにぶつかった感触が、膝頭ひざがしらに名状し難い不快感を残す。

 肩への圧力が緩んだところで、両手で軍人くんの胸を突き飛ばした。

 よろけて尻餅をいた様子を視界の端で確認しつつ、エレベーターの降下ボタンをガチャガチャと連打する。

 意味ないとわかっていても、連打せずにはいられない。


「お願い、早く……はやっ、早くっ……」


 すがるような声が、半ば無意識に漏れる。

 軍人くんをチラ見するが、股を押さえて床に丸まって呻いているばかりで、立ち上がって襲い掛かってくる気配はない。

 数十分に感じる数十秒の後、エレベーターのドアがイヤガラセめいたスローモーションで開く。

 僅かな待ち時間さえもどかしく、体を捻じ込むようにしてドアの先へと移動する。

 一瞬でも早く、この場から逃れたいという気持ち、もうそれしかない。


「ぅうっぐ、ひう、ひんっ、はぁあああああ……」


 込み上げてくる嗚咽をこらえ、深く息を吐いて自分を落ち着かせようとする。

 どうしようもなく震える指先で、一階のボタンを突き指しそうな勢いで押した。

 開く時と同じく、ドアはゆったりとした挙動で軍人くんと私をへだてていく。

 自然と腰が抜けそうになるのを、壁にもたれることでギリギリ防いだ。


「何、なの……へぐっ、マジで、何なの……」


 自分の遭遇した理不尽を整頓しようとしていると、不意に視界を何かが横切る。

 閉じかけたドアの隙間から飛び込んできたものの正体を確かめる前に、ガラス瓶が割れたような音が響く。

 続いて、今までに嗅いだ記憶がないタイプの刺激臭。

 目の痛みと鼻の痛みと喉の痛みが渾然こんぜん一体となり、あっという間に意識が濁っ――

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