第24話 終わり、はじまる
古い知り合いと、とりとめのない雑談をしている――そんな夢を見ていた気がする。
懐かしい感じのする曖昧な風景は、足元が急に崩れる感覚を伴って現実と混ざり合う。
これは夢じゃない、実際に揺れている。
そう知覚したボヤけた意識は、更に十秒ほど費やして、ここが自室で今が夜中で自分が地震で起こされた、ということを認識した。
「うぅ……また、か」
渇いた喉から、恨み言が
夜中の地震でもって目が覚めるのは、この一週間でもう三回目だ。
翌朝のニュースにならないくらいだから、規模は小さいのだろうが――
考えようとするが眠気に勝てず、俺は大人しく意識を手放した。
翌朝になると、粘ついた
予定外に起こされて二度寝になると、寝起きに厭な疲れが残ることはままある。
しかしながら、ここ最近のそれちょっと質が違う気がする。
夜中の地震で起こされるのは以前にもあったはずだが、その時はどうだったのか。
記憶を
「あー、あれですか、先輩。また飲みすぎですか。今日まだ金曜だってのに、土曜と間違えましたか」
「昨日は飲んでねぇぞ」
「じゃあ寝不足ですか。何にせよ、顔色やばいっすよ、マジで」
事務所で顔を合わせるなり、後輩の
改めて近くにあった鏡で確認してみると、目の周りの濃厚な黒ずみと血の気の足りない肌色が、不健康さを全力でアピールしている。
こんな有様では、ツッコミを入れたくなるのも無理はない。
「まぁ、今日は客先に出る予定もないし、大丈夫だろ」
「それはいいとして、体調はどうなんです?」
「ダルいけど、どうにかなんよ。しかし最近、地震多くて参るよな」
「え? あぁ、まぁ、昨日もそこそこデカいの、あったみたいですけど――」
時間がなくてチェックしなかったが、夜中の地震はニュースになるレベルの揺れだったのだな。
そんなことを思いつつ、沖山の話が終わるのを待たずに言う。
「それそれ。昨日ってか今朝? その地震で変な時間に目が覚めてよ。微妙なタイミングで二度寝したせいでこのザマだ」
「は? 何を言ってんです先輩?
「いやいや、午前の三時か四時かに、この辺でも地震あったろ? お前んちもウチからそんなに離れてないよな?」
お前こそ何言ってんだ、という感情を込めつつ問い返すが、沖山は変わらず
そしてスマホをチャチャッと操作して、どこかのサイトの画面を開いてこちらに見せながら言う。
「これ、日本全国で起きた地震を記録してるサイトっすけど、昨日は九州の方で震度三、今朝もあるにはあったけど、やっぱり九州で震度一が最大になってます」
「そんなワケねぇって。熟睡してるトコを起こされるんだぜ? それこそ震度三か、三寄りの二はあったっての、あの揺れ方は。この一週間で三度目だぞ、今回で」
「三回? いや、ないっすよ地震なんて……あ、課長。ちょうどいいとこに」
俺と沖山の上司に当たる課長を捕まえて、沖山は今朝の地震について訊くが、返ってきたのは「知らん」の一言だった。
「え、でも今日はないとしても、三日前と六日前……今週の火曜と先週土曜は、深夜から明け方のどっかで、結構揺れませんでしたか」
俺がそう食い下がっても、課長は首を
そして地震がどうしたとかより、課長としても俺の顔色の悪さが気になるらしい。
どうにも、俺が一人で妙なことを主張している空気になってしまったので、地震の話題は強引に切り上げ、いつもと同じように仕事を開始した。
帰宅して夕食や風呂などの諸々が一段落したところで、改めて考えてみる。
あれが地震じゃなかったとしたら、一体どういう現象なのか。
自宅は高級からは程遠い1Kのアパートだが、隣室や建物の前の道路で生じた振動がダイレクトに伝わって来るほどの安普請ではない。
アパートに面した道は2トントラックすら通れない狭さだし、俺の部屋は二階建ての二階にあって、左は空いているし右は七十過ぎって年代の独居老人だ。
いくら年寄りは朝が早いといっても、そんな爺さんが俺を叩き起こす勢いで大騒ぎする、というのはちょっと考え難い。
何より、そこまで荒ぶった状況が繰り返されていれば、一階に住んでいるオーナーの親族だというオバサンが、何らかのリアクションをするはずだ。
となると俺の部屋に――いや、俺だけに起きている状況なのか。
そこに思い至ると、見慣れているはずの室内の風景が、急に意味ありげな
「揺れが始まったのは、いつだった……?」
頭の中を整頓しようと
地震だと思って慌てて夜中に目を覚ます、というのは三ヶ月くらい前に――いや、先月にも一回あったような。
でも、そのタイミングで妙な場所に行ったり、変なものを買ったり、謎めいた経験をしたりといった、いかにもな物事に心当たりはない。
結局、どうすればいいのかを思い付けずにその日は終わり、土日の休みも特に対応策は浮かばないままに過ぎた。
何とかするべきだ、とはわかっているのだが、どうすればいいのか。
大体、不可解な何事かが起きているのは把握していても、何が起きているのかがわからないのでは、対策のしようがない。
拭えない不安ばかりが増大する日々に、ストレスばかりが募っていく。
いつ来るか、今夜は来るか――と、揺れを警戒しながら横になっているせいで、眠りは浅くなって僅かな物音でも目を覚ましてしまう。
そんな環境が一週間以上続いて、気力と体力が限界に近くなった頃。
その日はいつも以上に頭がボンヤリして、
「ったく……家にいても、マトモに休めないってのに」
フラつく意識を必死につなぎ止めて自宅に戻った後で、家で寝られないならホテルなりネットカフェなりを使えばよかったな、と気付いて力なく笑う。
睡眠不足が続くと、思考能力が劇的に低下するってのはホントらしい。
そんなことを思いつつ、スーツを脱いだだけの状態でベッドに腰を下ろす。
ふぁあああああああああ――と、腹の底から大きな
そこで不意に視界が暗転し、意識が途切れてしまった。
冷風に頬を撫でられた感覚があって、微かに眼を開いた。
完全に夜になっているようで、カーテンを開け放したままなのに室内は暗い。
久々にまとまった時間の深い眠りがあったからか、意識は速やかにクリアになっていく。
覚醒の三歩ほど手前で、両肩にグッと重みが加わる感触があった。
何かに――誰かに、肩を掴まれている。
気配はある。
しかし、呼気も聞こえないし、姿も見えない。
何だ、何がここに――
散らかる思考を収集する暇もなく、何かは俺の体を左右に揺さ振ってきた。
反射的に、自分の肩を押さえている『何か』の『どこか』を両手で掴み返す。
イメージとしては二本の腕だが、掴んだ手応えはバルーンアート用の風船を掴んでいるような、フワフワとした頼りない感触だ。
直後、何かの動きが止まる。
掌から伝わってくる感触が、風船から軽石に、軽石から
「いいんだな」
平らなイントネーションで、男のものらしい声が言う。
耳元で発せられたのか、上から降ってきたのか、背中から這い上がったのか、出所のよくわからない音声だった。
意味と意図が判別できず、俺は何かを掴んだ手に込める力を増しつつ息を殺し、次に起こる何事かを待つ。
「いいんだな?」
三十秒ほどの間を置いて、再び声がした。
音量はさっきと大差ないが、イントネーションが変わっている。
完全に疑問形になっていて、こちらの意思表示を待っている気配だ。
答えるべきか、無視を答えの代わりにしてしまうか。
とりあえずもう一度、何か言ってきてから――と思ったところで、猛烈に厭な予感が背筋から脳天へと抜けた。
もうない。
三度目は、ない。
確信に近いその考えに脳内が支配されかかった瞬間、両手を何かから放して反射的に声を上げていた。
「んだっ、ダメだ! やめ……とぅくれっ!」
だが俺の言葉の途中で、肩に感じていた重みと圧し掛かる気配は掻き消えた。
激しい
そんな状態で身動きできないまま数分が過ぎ、落ち着いたところで恐る恐る身を起こす。
窓から入り込んだ薄い月明かりが、誰もいない部屋の様子を浮き上がらせていた。
「もう大丈夫、なの、か?」
小声で虚空に問いかけてみるが、僅かな反応もない――あられても困るのだが。
安心すると同時に、様々な疑問がダマになって湧き上がる。
アレは何だ、何のために、何でここに、何の意味が、何が原因で、何で俺が。
無数の『何』が際限なく頭の中を駆けずり回るが、答えは全て『わからない』だ。
ともあれ、今回のこれで自分の身に起きていた現象は、一通り片付いた気がする。
そう思いながら、枕元に転がるリモコンで部屋の照明を点けた。
「んぅばっ――」
目にした途端、肺の中の空気全部と一緒に変な声が出た。
左隣の空き部屋に面した、クリーム色の壁。
ローボードにTVとミニコンポを並べて設置した、その上の空きスペース。
直径一メートルほどの、つやのない赤紫の、渦巻きが描かれている。
乱雑な筆致に見えてバランスはとれているその模様は、まるで最初からそこにあったかのような据わりの良さだった。
「どっ、なっ……えぇええ……」
色々と言いたいことはあるが、言っても仕方ないという諦めと、どう言葉にすればいいのかわからない戸惑いで、不明瞭な呻きばかりが漏れ続ける。
これが何なのかはサッパリだが、こんなものがある場所で暮らせない。
渦巻きをしばらく眺めた後、そう結論を出した俺は壁のそれを拭き取ることにした。
濡らしたフェイスタオルを固めに絞り、雑巾代わりにして赤紫の渦を
意外なことに、壁の模様はまったく抵抗もなくスルスルと消えていく。
この渦巻きは、ここで起こっていたことが終わった
そんなことを考えながら半分ほどを消し、
ベリベリベリベリベリベリベリッ
と、生木を引き裂くような音が壁の向こうから響き渡った。
隣室は長いこと無人で、今の時刻は午前〇時二十分。
つまり、聴こえるはずのない音が、盛大に鳴っていたということになる。
どうやら赤紫の渦巻きは、別の何事かが――もしくは、さっきまでの続きが始まったという
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