第18話 女性に対する声かけ事案

 この街はいいな――思いがけず、当たりを引いた感じだ。

 二十年前の景色と五十年前の景色が混在しているのに、それが違和感なく成立している何とも奇妙な佇まい。

 駅近くに大型ショッピングモールもあり、田舎とは呼べない賑わいはあるのに、街全体から眠っているような印象を受ける。

 しかしそれは、衰退を受け入れた穏やかな休息ではなく、未練を押し殺しての不貞寝ふてねを思わせた。

 

 目的地を決めずに電車に乗り、気まぐれに知らない駅で下車し、当てもなく街を散歩して適当な店を覗いたり写真を撮ったり。

 月に一回か二回そんな休日を過ごすようになって、そろそろ三年になる。

 周りからは「どうして単独行動なの」とか「彼氏と一緒にやればいいじゃん」とか言われたりもするが、こればっかりは自分のペースが崩されると楽しくも何ともない。

 

 地図を確認しながら散策を続けて昼の一時を回った頃、住宅地の真ん中で不意にソースの匂いが鼻をくすぐる。

 匂いの元を辿ってみると、赤地に白で『たこ焼き』と書かれたのぼりが見えた。

 昼食は喫茶店かどこかで簡単に済ませようと考えていたが、たまにはこんなジャンクな食べ物もいいかもしれない。

 そう考えて、店内で作業をしている白髪の目立つ女店員に声を掛ける。


「すいません、たこ焼きを一つ」

「はいよ。八個? 十二個?」

「えっと、じゃあ八個の方で」

「三百円ね。焼き立てのがあるけど、これでいい?」


 オバサンは透明のプラ容器に入った作り置きを出してくるが、見るからにベチャっとしていて、とても焼き立てとは思えない。


「あー……できれば、今焼いてるヤツを」

「ああ、そう。じゃあちょっと待って」

 

 僅かにダルさを滲ませて言うと、店員は鮮やかとは言えない手付きで千枚通しを操り、デコボコの鉄板の中でたこ焼きを完成させていく。

 二分と待たずにたこ焼きは仕上がり、プラ容器に収められて鰹節が散らされる。

 ソースとマヨネーズはセルフサービスだったので、ソースだけをかけて料金を支払う。

 八個入りで三百円、という値段は随分と安い気がするが、お祭り以外で買うのも数年ぶりなので、適正価格がわからない。


 店の近くにベンチが置かれていたので、そこに腰かけて食べていくことにした。

 久々に食べるたこ焼きは、味を云々するようなシロモノではなく、熱さをソースでくるんだ丸い塊を食べているような、そんな気分にさせられるばかりだった。

 若干生焼けなのがいくつか混ざっていたようだが、それもジャンクフードの醍醐味だいごみだろう。

 自分にそう言い聞かせても、そこはかとない「失敗した」感は拭い去れなかったが。

 

 想定外の胃もたれを抱えてしまったけれど、歩いている内に自然とこなれてくるはず。

 そんな見通しでもって散歩を再開してから、およそ一時間後。

 もたれが腹痛へと転じてしまい、ひたいに冷や汗が浮くようなバッドコンディションへと追い込まれつつあった。

 漠然ばくぜんと歩いていたら、いつの間にか街を抜けてしまったようだ。

 周囲に見えるのが、工場と畑と団地ばかりになっている。

 コンビニはおろか飲食店も見当たらず、トイレを借りられそうな場所はない。


「うぅ……やばい、やばいやばいやばい……」


 無意識に声が出る、かなりの危機的状況だ。

 このまま行くとこまで行ってしまうと、大人の女にあるまじき惨状を繰り広げることになってしまう。

 スマホでトイレのありそうな施設を検索しつつ、長距離走の時の呼吸法を採用して痛みに抵抗を試みる。

 二百メートルほど歩けば、公園らしき場所があるようだ――そこにトイレがあることを祈るしかない。


「たす、かっ、たぁ……」


 シーズンオフの果樹園に囲まれた、ベンチと東屋あずまやがあるだけの小さな公園だったが、幸いにもトイレは存在していた。

 公園のそっけなさに比べると、女子トイレは個室が三つ用意されていて中々に広い。

 ただ、そこまで不潔な感じはしないのに、顔をしかめたくなる猛烈な臭気が鼻を刺す。

 それは屎尿しにょうのニオイだけではなく、腐敗臭のようなものが混ざっているように思えた。

 かなり怯まされる状況だが、今の自分に選択の余地はない。

 パッと見で一番マシな個室へと駆け込むと、鍵をかけて下着に手をかけた。


 苦痛とのせめぎ合いに十分、小康状態に落ち着くまでにもう十分、もう安心だと思えるまでに更に十五分の時間を要したが、やっとのことで腹痛から解放された。

 ちょっと記憶にないレベルでの追い込まれ方ぶりに、生焼けの生地だけではなくタコの鮮度も怪しかったのではないか、との疑念が湧き上がる。

 何はともあれ、大事故を起こさずに済んで良かった、と水を流しながら安堵の溜息を吐いていると――


 コッコッコッ


 と、控えめなノックの音が聞こえた。

 足音に気付かなかったが、いつの間に人が来たのだろう。

 でも、隣の個室も空いてるみたいだし、何でワザワザここに来るのか。

 外の様子を確かめたいが、最近作られたトイレらしくドアはピッタリと閉じていて、空間といったら上下の数センチの隙間しかない。


 コンコンコン

 

 さっきよりも強めに、ドアが三回連続で叩かれる。

 もしかすると公園に前からいた誰かが、トイレに入ったまま出てこないのを心配して、様子を見に来てくれたのかも。

 そう考えて、とりあえず返事をしてみる。


「あの……入ってます……大丈夫ですから」

「チッ」


 舌打ち? どうして舌打ちされる?

 相手の意図はわからないが、膨れ上がった悪意は伝わってくる。

 動悸が速まるのを感じつつ、息を潜めて相手の出方を待つ。


 ゴンゴンドンッ

「ふぃいっ!」


 ドアではなく、隣の個室と接している壁を強く叩かれ、思わず悲鳴が漏れる。

 驚かされたことでカッとなり、警戒心を忘れて大声で反応してしまう。


「ちょっと! 何すんの!」

「チッ……んだよ、やっぱババァかよ。ここはJSか、せめてJCだろ……空気読めよ。チッ、これだからババァは使えねぇ……」


 外にいる相手は、舌打ちを混ぜながら意味不明な独り言を垂れ流してくる。

 不自然にくぐもった、若いのかそうでもないのかハッキリしない男の声には、対話をしようという意志が感じられない。

 男の声――女子トイレに平然と入ってくる、何を言ってるんだかわからない男の。

 厚くもない合板一枚をへだてた先に、かなりの危険人物がいることを認識した瞬間、体温が二度か三度下がったような気がした。


「シラケるわぁ……マジ使えねぇっつうか、何なのマジ……勿体ぶらねぇで早く出てこいよ、メンド臭ぇな……」


 男の不穏な独り言は続き、時々思い出したようにドアが叩かれる。

 個室の構造的に、上や下の隙間から強引に乗り込まれるおそれはなさそうだ。

 しかし、相手が平均以上の体格の持ち主だったら、こんなドアはすぐにでも蹴破れるんじゃないだろうか。

 そこに思い至ってしまい、自分の置かれた状況の危うさを再認識する。

 これはもう、警察に連絡するしかなさそうだ。


 そう判断してスマホを取り出すが、電波が入らず通信圏外になっている。

 この公園のすぐ手前までは問題なく使えていたのに、何で、どうして。

 狭い室内で上下左右に端末を移動させてみるが、どこに行っても入らない。

 やっと収まった冷や汗が、今度は背中にまで拡大して噴出していた。

 しかし、そんな動揺を気取けどられないように、毅然きぜんとした態度で男に言い放つ。


「警察、呼びますよ」

「あぁ? どーぞどーぞ」


 こちらの重々しい宣言を、男は半笑いでもって受け流してくる。

 この余裕は、どういう意味なんだろう。

 まさか、こちらの状況を知っているのか。

 それとも、警察が来ない理由があるのか。

 もしかして、通報されたとしても、その前に全てを終わらせるつもり、とか。

 考えても不安が増すばかりなので、通じないスマホで警察に通報するフリを始める。


 ドンッ! ドン ドガッ!

「ぃひっ――」

 ドッ ガゴッ! ドンッ!

「きっ、聞こえましたよね? 変な男がドアを蹴って……はい、だから! 急いで! お願いします!」


 唐突にドアの下部が連続して蹴られ始め、反射的に変な声が出てしまう。

 通報のフリは中断されてしまうが、それも演技に含めて相手の牽制に流用した。

 そして、声が震えないように祈りつつ、改めて男に警告を発する。


「つっ、通報したから! すぐに警察くるんだけど!」

「来るといいけどねぇ、ンフフフッ――『ゴガッ!』来たとしても、どのくらいかかるかなぁ、クハハハッ――『ドコッ』」

「ちょ、やめっ――」

「五分かなぁ、十分かなぁ、どうかなぁ、アハハファ――『ガンッ』もしかしたら二十分くらいかかるかもねぇ、フヘヘッ――『ドンッ!』それまでドアは持つかなぁ、持つといいねぇ、クハハハハハッ――『バキョ』」

「うっ――うぁああぁああああぁあああっ! だっ、誰か! 誰かぁああっ! いやぁああああああああっ! やだやだやだやだやだやだやだやだっ!」


 不吉な予言を口にしながら、男はドアを容赦なく、楽しげに蹴る。

 貞操の危機かと思いきや、死の気配が間近に迫っているのを察知し、本能が意味のない絶叫を吐き出させる。

 誰か、誰でもいい、これを聞いて、助けを、助けて――

 そんな祈りを込めた救難信号も、やがて喉が嗄れてガラガラ声しかでなくなった。


 何で、どうして、こんなところで、こんなことに。

 思考は答えの出ない疑問がループするばかりで、頭はマトモに働いてくれない。

 もう声が出なくなっているのに、涙は際限なく溢れてくる。

 気が付けば男の話し声がしなくなり、ドアが蹴られるのも止まっている。

 あの男は、この『遊び』に飽きてどこかに行ったのか。

 

「あれ、ババアにしちゃ悪くないじゃん。まぁギリギリ合格にしてあげようかな、うん。使える使える。しょうがないから、使ってやる」

「え……? ぅわ!」


 何を言ってるんだ――とドアの方に目を向けると、若干の違和感。

 よく見れば、ドアと天井の隙間からハンディカムのレンズが覗いているのに気付いた。

 ショルダーバッグで叩き落す構えを見せると、カメラはスッと下げられる。

 いよいよ、状況は逼迫ひっぱくしてきているようだ。


 加熱気味の頭でどうにかアイデアを捻り出し、男がドアを蹴破って乗り込んできたのと同時に、何かしらの武器で反撃を食らわせてその隙に逃げる、という閃きを得る。

 しかし、今の所持品で武器になりそうなもの、といったらボールペンしかない。

 震える手でボールペンを握り締め、個室の隅で男の乱入を息を潜めて待つことにした。


 そのまま五分か十分か、待ち続けたが動きはない。

 耳を澄ましてみても、すぐ近くに人のいる気配は感じられない。

 自分の呼吸音と心音がうるさくて、もう一つ信頼性に欠ける判断ではあるが。

 まだ出るのは危険に思えるが、どうなったら出ても大丈夫なのだろうか。

 ここから安全地帯へと脱出する方法を、パターンを変えて色々とシミュレートしてみるが、何度やっても失敗に終わってしまって踏み切れない。 


 コンコン

「ふぁ!」


 ノックの音に反応し、肩が大きく跳ねて半端な叫びが漏れる。

 まだ、諦めてなかったのか。

 恐怖心は当然あるが、それよりもジワジワとなぶろうとする相手のやり口に、言いようのない怒りが湧いてきた。


「ふざけないでっ! いい加減にしないと、すぐに警察くるんだから!」

「こちらはその警察、なんですが」

「……は?」

「このトイレから、女性の悲鳴が聞こえるとの通報がありまして。何があったんです? 怪我などはしていませんか?」


 警察を名乗る男はハキハキとした声で、そんな質問をしてきた。

 やっと来た、助かった――そう思えた瞬間に前身の力が抜け、危うく汚れ果てた床にへたり込みかける。

 泣きたくなるような安堵あんどを感じつつも、万一を考えて相手の素性を確かめておく。


「あの、すいませんけど、警察って証拠を……」

「ちょっと渡すことはできないんですが、見えますか」


 さっきビデオカメラがあった場所に、焦げ茶色の手帳がかざされる。

 本物は見たことないが、刑事モノのTVドラマに出てくるのとソックリだ。

 続いて男は、手帳を開いた状態で向けてくる。

 制服姿の写真の下に階級と名前が書いてあり、その下には金のバッジが見えた。


「信じてもらえましたか」

「はぁ……まぁ……」


 まだ警戒心が解けないので、本物の画像を調べようとスマホを操作する。

 検索サイトを呼び出そうとした後に圏外だったのを思い出すが、普通にサイトにつながった。

 いつの間にか、普通に電波が入るようになっている。

 これならもう、大丈夫――そう確信できたので、個室の鍵を外してゆっくりとドアを開けた。


「ああ、無事ですか? 一体どういう状況で?」

「変な男に、襲われかけて……ドアとか凄い、蹴ってきて」

「確かに、酷く壊されてますね。詳しい話を聞かせてもらっても?」


 制服の上にブルゾンのようなものを着た警官は、柔和な笑みを浮かべて言う。

 身長は高く、体格もいい――吊橋効果的な贔屓目ひいきめがあるかもしれないが、スッキリした顔立ちにも好感が持てる。

 とりあえず、突然やってきた妙な男のせいで身動きが取れなかったことと、どんな風に脅されたのかを手短に説明していく。


「――という感じで、本当に、殺されるんじゃないかと」

「それは災難でしたね。この辺りで不審人物の情報などは最近ありませんでしたが、今後はパトロールを強化していきますので」


 警官の言葉に頷きながら、徐々に落ち着かない気分になっていく自分に戸惑う。

 何かがおかしい、何かが――

 こういう通報があった時、警官っていうのは単独行動するのだろうか。

 左耳に赤い宝石の入ったピアスをしているが、アクセOKだったっけ。

 というか、どうしてトイレから出ないで事情聴取をされてるんだろう。

 あからさまに疑問点が多すぎるのに気付き、背筋を悪寒おかんが走り抜ける。


「ちょっと失礼」


 そう断りを入れた男は、こちらに背を向けて無線機を手に取る。

 ブルゾンの背中には『POLICE』ではなく『POLIZEI』の文字が。

 何語なんだ、それは。

 よくよく見れば、色合いも街中で見かける警官のものと違う気がする。

 一か八かで男の横をすり抜けて逃げるか、別の個室に逃げ込んで改めて通報するか。

 何はともあれ、ワンタッチで電話がかけられるようにはしておこう。

 そう考えて、一一〇を押すためにスマホを手にした――のだが。


「え……何で……」


 再び圏外になっている表示を目にして、困惑の呟きが無意識に出る。

 警官の扮装をしている男が、手にした無線機をユラユラと振る。

 よく見れば、警官の持っているものと比べるとだいぶ大きく角張っていて、太くて短いアンテナが何本も伸びている。

 ネットのニュース記事で読んだ記憶がある――携帯電話の電波を妨害する機械。

 

「マヌケすぎて笑えねぇな、ババァ。頭の中だけJSじゃ嬉しくねぇわ」


 黒マスクで口を覆った男は、聞き覚えのあるくぐもった声で嘲笑あざわらった。

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