第5話 葛宮憲二郎記念館

「チッ、降り始めたな……」

「えぇー、どうしよう。どうする、シュウちゃん?」

「まだ二時か。このまま帰るのもアレだし、どうするか」


 厚い曇り空から次々に落ちてくる、大粒の雨。

 フロントガラスを睨んでハンドルを握っている、鷲介シュウスケの不機嫌そうな横顔を見ながら悠未ユミは訊く。

 運転は得意だと豪語している自分の恋人が、雨天や夜間に運転することになると途端に機嫌が悪くなり、口数も少なくなることを悠未は知っている。


 日曜の今日は、ドライブがてら隣県のアウトレットモールで買い物をし、帰りにミニ動物園みたいな場所を見物する予定になっていた。

 今は買い物と昼食を終え、動物園へと向かっている最中だったのだが、この天気では中止にせざるを得ない。

 悠未はスマホで近場に何かないかと検索してみたものの、場所が悪いのか検索ワードが悪いのか、これといったものが出てこない。


「すぐに行けそうなトコだと、でっかいリサイクルショップとか、クラシックカーの展示施設みたいなのがあるけど」

「んー、微妙すぎんだろ。もうちょいこう、パンチが効いたのを頼む」

「パンチって……ちょっと待ってね」


 悠未が再び検索を始めると、鷲介は大きな道を外れて車を脇道へと進める。

 候補を出しては却下されるのを三十分ほど続けている内に、車はどこだかサッパリわからない山の中へと入り込んでいた。

 いくらナビがあるとは言え、土砂降りとまではいかないが大雨なのは間違いない状況で、鷲介の運転は大丈夫なのか少し不安になる。

 悠未がその心配を言語化すべきかどうか迷っていると、車が急に速度を落とした。

 

「おい、何か妙な看板あんぞ」

「うーん、くずみや? かつきゅう? けんじろう……え、誰?」

「いや、マジで誰なんだって感じだな。記念館とか作られるってことは、それなりに有名人なんかな」


 真新しい金属製の看板には『救国の志士 葛宮憲二郎記念館』という文字がゴシック体で書かれ、下部には記念館までの略地図と日本画っぽい龍の絵が描いてある。

 悠未は葛宮憲二郎という名前を検索してみたが、当人の事績や経歴がわかりそうなページはヒットせず、ロシア語や韓国語のサイトばかりが引っかかった。

 個人のブログやツイッターで、記念館に触れているのはいくつか見つかったが、『ヤバイ』『きめぇ』『意味不明』などの曖昧な内容ばかりで、展示内容や葛宮憲二郎に関する具体的な記述は見当たらない。


「うーん、かなり怪しい感じだよ、シュウちゃん。みんなヤバいって言ってるのに、誰もどうヤバいのかを言ってない」

「じゃあもう、行ってみるしかねぇだろ、そこ」

「えぇー……しょうがないなぁ」


 渋い返事をする悠未だが、本心を言えば珍妙スポットの探訪は嫌いじゃない。

 記念館の写真がネットにない辺りから、インパクトのあるヘンテコさは期待できなそうだが、このまま微妙なテンションで帰宅するよりはマシだろう。

 悠未はそんなことを考えながら、雨足の強まった窓の外をボンヤリ眺める。

 十五分くらい車を走らせると、看板が示していた場所へと辿り着いた。


「ここか……」

「ぽいね。あ、駐車場この先だって」


 それは『人里離れた』との形容がシックリくる山と森しかない場所に、強引に割り込んだような不自然さで存在していた。

 無愛想なコンクリートの壁に囲まれた敷地はやけに広く、その中央にある建物もやけに大きいが、パッと見で受ける印象は安普請の一言に尽きる。

 二十台分くらいのスペースがある駐車場には、二十一世紀産かどうか怪しい緑色のコンパクトカーが一台停まっているだけだ。


 記念館の入口までの距離は短いが、走って行ってもかなり濡れそうな荒天だ。

 車内を探してみると、後部座席の足元でビニール傘が埃をかぶっていた。

 直径の小さい安物で密着度の高い相合傘をしながら、建物の正面へと回る。

 立派な造りの門の脇に、『葛宮憲二郎記念館』と書かれた一枚板の看板が掲げてある。

 ここでやっと、名前の読み方が『かつらみやけんじろう』だと判明した。

 その先には玉砂利の中に石畳が敷いてあり、来客を誘導するようになっている。


 それにしても、近くで見るとチグハグさが目立つ施設だった。

 正門とその奥の受付があるらしい部分は、いかにもな日本建築という重厚さを醸し出している。

 しかしそれ以外の部分は、プレハブを組み立てて並べただけにしか見えない、間に合わせ感に溢れた佇まいになっている。

 狙ってやっているのだとすれば、設計者の感性はかなり独特だ。


「誰もいないね……」

「下手したら、俺らが今週で初めての客だったりしてな」


 カウンターに置かれた呼び鈴を連打しながら言う鷲介に、悠未は苦笑を返す。

 天井から吊り下げられた『総合案内』と書かれた四角いプレートが、エアコンの風に揺られている。

 壁に貼られた料金表には、大人千五百円、小人九百円と強気な数字が書かれていた。

 その価格を目にした鷲介の表情が、わかりやすく歪む。


 カウンター横に置かれた金属製のスタンドには、十種類ほどのチラシが置かれている。

 知らない作家の講演会、知らないバンドのライブ、知らないアイドルのイベント――どこの物好きがこんなのに行くのか首を傾げる悠未だったが、今の自分もワリと人のことを言えない状態だと気付いて苦笑する。

 

「……お待たせ、いたしまして」

「うぉ! あぁ、おう」


 まるで気配を感じさせずに現れて、やけに低い声で挨拶してきた小柄な女に、鷲介は混乱気味のリアクションを返している。

 悠未もどこから来たのかすらわからなかったので少し驚くが、それよりも相手の違和感全開な容姿が気になって仕方なかった。


 おばさんとおばあさんの中間くらいの年代だろうに、キツいウェーブのかかった薄くなりかけた髪はワインレッドで、服装は体の線が出るタイプのワンピース。

 なのに化粧はナチュラルを通り越して何もしていない感じで、顔面ではシワやたるみが激しく自己主張をしている。

 街中で遭遇してしまったら、とりあえず距離をたっぷり置かずにいられない個性の強さだ。


「観覧料金は、お二人様で三千円になります」

「ん、それなんだけどさ、オバサン。随分と高くねぇ?」

「葛宮先生の著作をお持ち頂いた場合には、料金が百円引きになるサービスはしておりますが」

「だからさぁ――」

「やめなって、シュウちゃん」


 声を荒げかけた鷲介の袖を掴み、悠未はブレーキをかける。

 揉め事の気配が高まっているのに、女は無表情のまま平然としていた。

 ただ、その反応は腹が据わっているとかそういうことではなく、単に目の前で起きていることに興味がないだけにも見える。

 鷲介が渋々料金を払うと、女は三枚の札を無造作にカウンターに置いてから言う。


「すぐに、案内役が参りますので」

「は? そんなのがいんの」


 質問に答える素振そぶりも見せず、受け取った金も放置したままに、女は『こちらは出口です』と順路案内が書かれた通路の先へと姿を消す。

 無視された鷲介はイラついているようだが、予想していたよりもかなり雑な雰囲気に、悠未はちょっとだけワクワクしていた。

 ここは多分、とんでもなく低クオリティなものを見せてくれるハズだ。

 そんなことを考えていると、案内役らしい男が出口の方から足音もなく歩いてきた。


「雨の中、ようこそいらっしゃいました。あなた方は、葛宮先生を御存知でここに?」

「いや、全然」

「なるほどなるほど。そういう方のためにこそ、この記念館はあるのです。有意義な時間になるよう、誠心誠意を尽くして案内させてもらいますので」

「はぁ……」

「ではまず、こちらからどうぞ」


 鷲介の生返事を気にするでもなく、銀縁メガネの男は左手の通路を指し示す。

 受付の女も年齢不肖だったが、この案内役の男もまた二十代にも四十代にも思える。

 普通に若いだけなのか、苦労していない人間に特有の童顔なのか。

 身長は百七十ちょっとの鷲介と同じくらいだろうが、猫背だわ腹が出ているわで実際より縮んで見える。

 センスなくアレンジした和服を主体にした奇妙なコーディネートと、長い髪を後ろでまとめたヘアスタイルは、男が真っ当な感覚の持ち主じゃないことを声高に伝えてきた。

 

「こちらは先生の幼少期、小学校低学年頃までに手がけた美術作品になります」

「葛宮――さんっていうのは、アーティストなんですか」

「それについては、識者による位置付けも定まっていないのですよ。芸術家であり、哲学者であり、文学者であり、詩人であり、思想家であり、映像作家であり、預言者であり、政治、科学、民族、宗教、歴史などの分野においても卓抜たくばつした功績がある葛宮先生ですから、どうお呼びすればいいのかが難しくて……先生御本人は『私は一介の思索者に過ぎない』と謙遜けんそんなさってますが」

「そう、ですか」


 やたらと早口になった案内役の説明に、悠未は気圧けおされながら応じる。

 説明されるほどに得体が知れなくなるが、葛宮憲二郎というのは何者なのか。

 渋面を浮かべて横で聞いていた鷲介は、「胡散臭ぇ」と口にするのを我慢している気配が濃厚だ。

 悠未も同感なのだが、二人揃って微妙な顔というのもどうかと思ったので、無理にでも興味津々な風を装ってアクリルケースの中の展示品を眺める。


 いかにも幼児が描きました、というクオリティのクレヨン画。

 それよりはレベルアップしているが、才気や独創性は感じられない水彩画。

 有名な漫画のキャラを模写したと思しき、ノートを埋めた鉛筆画。

 こんなものを見せられて喜ぶのは、描いた当人の両親や祖父母くらいではないか。

 絵だけではなく、紙粘土細工や木屑を組み合わせたオブジェみたいなものもあるが、それに対して悠未が抱いた感想も似たり寄ったりだ。


「ここからは小学校の高学年、四年から六年までの作品ですね」


 この辺りからは、絵柄にも個性のようなものが出てきている――が、別に上手くはない。

 全体的に暗い印象なのは、暗色を多く使っているのもあるだろうが、それ以上にモチーフが問題だと思われる。

 ゴチャゴチャと描き込まれた燃えている街の俯瞰図ふかんずや、泣いている人を笑っている人がナイフで切り裂いている構図――『サスペリア2』で似たような絵を見た気が。

 工作方面も、潰した缶に大量の釘を打ってデタラメに色を塗ったり、バラバラに切断した塩ビ人形を溶かして一塊にしたりと、かなり荒んだ造形になっている。


「だいぶ、心の闇を感じるんですけど」

「この時期は、先生にとっての暗黒期のようなものですね。少年時代から、既に人並み外れた深い見識と洞察を己の基軸としていた先生の振る舞いは、級友は当然のこと教師にすら理解が難しく、一部の愚かな人々から迫害を受けることになりました。しかしながら先生は、この経験によって魂のレベルが低い相手に志を伝えるすべを学んだ、と仰っていました。ですからこの苦労も、葛宮憲二郎という規格外の個性を形作るためには必要だった、と言えるのかも知れません」

「つまり、変な子だからイジメられてたんだろ」


 鷲介が身も蓋もなく核心を突くが、案内役はその発言を無視して次のコーナーへと進む。

 やめときなよ、という意味を込めて悠未は鷲介の脇腹を軽く叩く。

 だが当人は理解しているのかいないのか、ヘラヘラと薄笑いを浮かべている。

 続いては中学高校時代の作品展示になるが、ノリがガラッと変わって『絵心のないオタクが描いた萌え絵』みたいなものが大量に並んでいた。


「これは……」

「現在では海外でも高く評価されている、日本のアニメ文化に早くから注目していた先生は、自身の作風にもそれを大胆に取り入れていました。更には、映像表現では高い評価を受けながら、シナリオに不備が多く広い支持を得られなかった作品を、新たな解釈によってコミカライズして葛宮作品へと生まれ変わらせる、という表現活動もなさっていました」

「つうかさ、これってアレじゃねぇの、同人誌とかそういう……ああ、もしかして先生っての、ただのキモオタなんじゃね?」

「シュウちゃん」

「いやだって、こんなん絶対笑うっしょ。何を記念してくれてんの」


 ケラケラ笑っている鷲介に、悠未は険を含んだ声で強めに注意するが、あまり伝わっている感じはない。

 不安になって、何故か壁面に一定間隔でしつらえられている鏡に映った、案内役の顔を窺う。

 内心はどうだかわからないものの表情は穏やかで、特に気分を害している様子もない。

 客からのふざけた反応にも、もう慣れているのだろうか。

 

 下手な彩色をされたガンプラや、変な改造を加えられたゾイドのコーナーを経て、葛宮の思想や哲学を紹介したパネルや、葛宮に影響を与えた作品などを並べた区域になった。

 壁にかかったパネルには、代表的な著作だという論考集『傾いたこの国に必要なものと不必要なもの』、小説『害虫駆除業者の嘆息』から抜き出した文章に、時代的な背景や当時の葛宮の生活環境などの解説が付けられている。

 ちなみにどちらの本も、悠未の聞いたことがない出版社から出ていた。


「こちらは抜粋になりますが、この短い文章の中にさえも、先生の深遠にして雄大な志が息衝いきづいているのが感じられて……ぅくっ、す、すみません」

「はぁ……」


 案内役は語りながら感極まって涙ぐんでいるが、悠未としてはシラケっぷりを加速させられるだけでしかない。

 難しい言い回しが多くて、どこまで正確に理解できたかは怪しかったが、悠未の大雑把な理解だと、論考は右寄りの主義主張に歪んだ選民思想が混ざったものに思えた。

 そして小説の方は、害虫を特定の外国や民族になぞらえて寓話化した、どうにも反応に困るタイプの偏りに満ちた物語だ。


 こんな下らないものを読まされて、どこに感動すればいいというのか。

 眉間に盛大に寄った皺からして、鷲介もかなりイラついている模様だ。

 内容云々よりも、文字ばかりで面白くないのが問題、という可能性も否めないが。

 パネルコーナーが終わると、今度は葛宮から寄贈されたという愛用品や、かつての愛読書が収められた場所になった。

 葛宮憲二郎という人物に何の興味もないので、その持ち物なんてもっとどうでもいい。


「この本棚はですね、左から右、上から下に順を追って読み進めることで、葛宮先生の読書遍歴を追体験できる、という仕組みになっているのです。そこがわかっている方々は、皆さんここでニヤリとね、するんです。そうでない方の場合は、パンフレットにも写真を掲載していますので、それを参考にして頂ければ。パンフレットの方は、一部二千円で販売していますので、お帰りの際にお求め――」

「高ぇよ! そんでいらねぇよ! もういいわ。帰ろうぜ、ユミ」

「あっ、うん」


 退屈さが限界に達したらしい鷲介が、案内役の寝言をさえぎってキレ気味に吐き棄てる。

 悠未としても、予想とちょっと違うベクトルなクオリティの低さに辟易へきえきしつつあったので、丁度帰りたくなっていたところだ。

 出口の方へと鷲介が大股で進み始め、悠未もそれについて行こうとすると、案内役が慌てた様子で前に回り込む。


「ちょっ、ちょっと待って下さい。次の、この先の部屋で上映される映画、これだけは是非とも観ていってもらいたいんです。葛宮先生が、御自身の思想や哲学、そして視座を端的に伝える目的で作られたもので、本当に、本当に素晴らしいのです。ですから、是非これは」

「だぁら、もういいって! マジで意味わかんねぇから。結局、何者なんだよ? カツラミヤってなぁよ。つうかここがもうクソすぎて、マジ金返せって言いたいんだけど」

「では映画の内容にもし、万が一にも満足できないとなりましたら、観覧料金を全額お返ししますので。お願いします、十分くらいの短編ですから」

「お、おう……そこまで言うなら、まぁ」


 口調と態度は丁寧だが、案内役は謎めいた迫力でもって言い募る。

 鷲介はその勢いに負けたのか、全額返金に心が揺れたのか、映画とやらを観ていくことを了承してしまった。

 映像ルームとドアに書かれたそこは、半端なサイズのスクリーンがある他には、病院の待合所に置かれているような背凭せもたれのない長いソファが三つあるだけの、殺風景な部屋だった。


 案内役は上映準備があるのか姿を消し、薄暗い室内には悠未と鷲介だけが残される。

 掃除で使った洗剤の臭いなのか、仄かなアルコール臭も病院の待合所を彷彿とさせた。

 程なくして始まった映画は、これを映画と称したら世の映画評論家がこぞってブチキレそうな、意味のない映像の羅列に好戦的で排他的で反動的なポエムが乗っかっているだけの、どうしようもないシロモノだった。

 そんな独り善がりなポエムを朗読している声は、おそらく案内役の男のそれだ。


「つまり、葛宮憲二郎ってのはあのメガネ野郎かよ」

「あー、そうかもね……キツいなぁ」


 完全に時間を無駄にさせられた気分で、二人は映像ホールから抜け出す。

 金持ちのドラ息子が自意識を際限なく肥大させた結果、こんな自分を褒め称えるための異様な施設を作ってしまったのだろうか。

 そこに至るまでの経緯を想像してみた悠未だが、頭が割れそうに痛んだので中止する。

 何はともあれ金を返してもらおうと案内役を探すが、どこかに消えてしまって呼んでも出てくる気配がない。


「んだよ。どこいったんだ、あのクソメガネ。つうか記念館って何を記念してんだ。マジでワケわかんねぇ」

「ホントにね。やたらある鏡とかも、何なんだろ……あれ? もしかして……うぁお」


 壁の鏡に触れてみた悠未は、自分の指の映り方に不自然さを感じる。

 実物と鏡像の間に、あるべき距離感が存在しない場合は――

 まさかと思いつつも、前に読んだ本で得た知識を確かめてみた結果、疑いは確信に変わった。


「ん? 何してんだ、ユミ」

「ちょっとこれヤバいって、シュウちゃん。この鏡、マジックミラーなんだけど」

「はぁ? どうしてそんなのが」

「わかんないよ。あぁああ……ミラーの向こう、カメラみたいなのがある」

 

 悠未がやっているように、鷲介も両手でひさしを作って視界を暗くし、そばにあった鏡を至近距離から凝視する。

 そして数秒後、少し青褪あおざめた表情を悠未に向けた。


「マジだ。どういうことだ……ぅお! こっちにもカメラある」

「意味わかんないし、超キモい。絶対こんなの、普通じゃないって」


 マジックミラーで隠れて監視する、というのはわかる。

 ミラーの奥にカメラを仕込んで盗撮する、というのもわからなくはない。

 だけど、この場所でそれをやる理由は皆目わからない。

 わからないから、ひたすらに薄気味悪い。

 氷点下の塊が背筋を這い上がってくる、そんな感覚に悠未はさいなまれる。


「とりあえず、出るか。いや、出るぞ」

「うん」


 三千円を諦めることにしたらしい鷲介は、真顔になって先を急ぐ。

 悠未も遅れないように、その背中を追いかける。

 途中、半裸のおっさんの写真ばかりが飾ってあるコーナーが視界をかすめ、気になって仕方なかったが足は停めない。

 そろそろ一周して受付のところに戻るかな、という辺りで鷲介が不意に立ち止まった。


「何何何何? どうしたの?」

「いや、これってさ……」


 怯えて早口で訊く悠未に、鷲介は大判のパネルを指し示す。

 説明書きは、シンプルに七文字のみ。


『葛宮憲二郎近影』


 撮影日時は去年の三月、五十過ぎくらいで鋭い目付きをした、短髪で痩せ型の男だ。

 服装こそ案内役とそっくりだが、それ以外は似ても似つかない。

 こんな施設が作られてしまうくらいに、あんな下らない人物の信奉者が存在する――そう判断するしかない状況に、悠未は凄まじい居心地の悪さを感じた。

 一刻も早くここを去りたい気分なので、鷲介の背中を押して先を急がせる。


「んだこりゃ! 行き止まりじゃねえか!」

「えぇ……あ、シャッター下ろされたんだ。シュウちゃん、持ち上がらない?」

「くぉおおおおおおおっ――あぁ、クソが! ダメだ、鍵がかかってる」

「しょうがない、入口まで戻ろう」


 そっちも閉まってたらどうしよう――という不安も浮かぶ悠未だが、それは敢えて口に出さずに来た道を黙々と戻る。

 鷲介も状況の不可解さに緊張しているのか、舌打ちは多いが無言だ。

 小走り未満の速度で五分ほどかかったが、とにかく入ってきた場所まで戻ってきた。

 通路が塞がれている様子もないので、このまま問題なく帰ることができそうだ。


「まったく、何だったん――ぉう!」

「やだ……」


 受付のあるホールに出ると、三人の男女が待ち受けていた。

 案内役の男と、ベリーショートのすっぴんなせいで悪い意味でボーイッシュにすぎる、二十歳そこそこだと思われる女性。

 それと、額から頭頂部まで広く禿げ上がった、四十前後の大男。

 同じ服装の三人は、揃って穏やかな表情を浮かべている。

 しかし、記念館で見せられた怪しげな諸々と、脱がずともわかる四十男の凶悪な筋肉は、今が危機的状況だということを告げていた。


「ああ、案内が途中になってすみません。実はですね、葛宮先生が新たに発見されたことわりについて、今日ここで直々の解説を行って下さるとの連絡があって、居ても立ってもいられずに」

「先生より遅れて参上する、なんてことになったらアナタ、まるでXXXXXXXどころかXXXXXXXXじゃないですか、ねぇ?」

「それねー、あたしもそこはちゃんとしたいから、XXXXXXXXXXたれ、と自分に言い聞かせましたっ!」


 案内役の説明に、大男とベリショ女が乗っかるが、耳に馴染みがなさ過ぎる言い回しのいくつかは、何と言っていたのかサッパリわからない。

 三人は朗らかに笑い合っているが、笑いどころがドコにあったのかもわからない。

 気を抜くと頭が真っ白になりそうな感覚に、悠未は取り込まれつつあった。


「それでですね、もし宜しければあなたがたも、この機会に先生の貴重なお話を――」


 案内役の話の途中で、鷲介は悠未の手を掴んでホールから飛び出した。

 雨は止んでいた。

 門は閉まっている。

 蹴り破るような体勢で、鷲介は足でもって押し開く。

 その瞬間に悠未は、どうにもならない厭な予感に囚われる。

 門が開いた直後、数十人分のざわめきが二人を包み込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る