第四話『正義の心を持たない人間がそんなふうに考えるなんて変です!』
身体は動き方を忘却してしまったのだろうか。
レオはボケッとした調子で高速で接近するデウスをただ佇んで目視していた。
交通事故などで車が接近していながらその場で往生してしまう感覚とはこういうものだったのかとレオは瞬く時の中で思った。
「くそったれが!」
ふいに、そんな怒鳴り声が聞こえた。
次に背後からタックルをかまされたような衝撃が身を襲う。その強い唐突な接触に視界がぶれ、脳が揺さぶられたような錯覚を覚える。
そして地面から足が離れて宙に浮く実感と落下する感覚が立て続けに訪れた。何やらクッションらしきものが緩和してくれたおかげで大した痛みはなかったが。
――ドガァッ
至近距離で響く爆音を耳にしながらレオは地面を転がる。
何が何だかわからないまま、眩暈を起こしたかのようにぐるんぐるんと大回転。
やがて回転が止まり、定まらなくなっていた視界が徐々に安定を見せだす。
「うっそ……」
寝そべったままおもむろに目線を上げてみると、目を見張る光景が映り込んでくる。
……先ほどまでレオが立っていた場所にはデウスの剛脚が豪然と突き刺さっていた。
アスファルトは破壊され、地割れを引き起こしている。あのままあそこに棒立ちしていたならば、あっけなく肉片と化していたことだろう。
一体何が起こって自分はこうして生きたままでいられているのか。
レオが脳内で疑問符を浮かべていると、
「いてて……」
背面から至近距離で男性の呻き声がした。その声を耳にして、そこでレオはようやく自分が警官の腕に抱かれていることに気が付いた。
「うわわっ! 何やってるんですか!?」
慌てて拘束を振りほどいて飛び起き、動揺と緊張から思わず正座を組んで叫ぶ。
女子校に通うレオにとってこのような異性との接触は異次元の出来事であり、取り乱すのも仕方ないことであった。
「何ってお前、仕事だよ。仕事。市民の安全を守るだけの簡単なお仕事」
微塵も動じることなく警官はさらりと答える。
「あっ……」
その言葉を受けて、レオは警官に命を救われた事実を理解する。ちっとも簡単そうでないことをさらりとやってのけた警官は右肩を軽く回しながら飄々としていた。
「え、えーと。この度はど、どうもありがとうございました」
抱きすくめられた恥ずかしさと頼りにならないと侮っていた人物に助けられた不甲斐なさから警官の顔をまともに見れず、レオは三つ指を突いて頭を下げ、ぎこちなく感謝の意を口にする。
「でもすごい反射神経ですね。わたしはちっとも身動きできなかったのに」
彼は高速で接近してきたデウスに反応し、その上でレオを庇ったのだ。並外れた判断力と精神力、そして身体能力を必要とするはずだ。
「……まあ、昔取った杵柄ってやつだよ。それより、ゆったり話している暇なんかないぞ。やつは次の始動に向けて準備を始めてる」
警官が指差した方向ではアスファルトに深々と突き刺さった前二本の脚を引き抜こうとしているデウスの姿があった。
よほど力強く突き刺したのか、なかなか苦戦しているようであったがそう長くはかからないだろう。もうまもなくすればやつは自由を取り戻し、また同じように襲いかかってくるはずだ。
そうなる前にこの場を離れて身を隠さなければ結局は怪物の餌食だ。
「…………あれ?」
ふと、レオは両手の空虚さに違和感を覚える。
「どうかしたのか」
「ベルトがないんです!」
辺りを見回すが影も形も見当たらない。
確かにこの手に掴んでいたはずだったのに。あれが何かは知らないが、託してきたあの男性にとってとても大事なものだったのは間違いない。住所不明の基地とやらに届けるという、彼の最期の願いを叶えようと拾い上げたのだ。無力な自分でもそれぐらいならばできるとそう思っていたのに。
自分の不手際で失くしてしまうなんて……。
「そんなもんは後でどうとでもなる。ほっとけ」
「で、でもでも」
一刻も早く逃げなくてはいけない現状において、彼の言うことはもっともだ。
けれども決死の表情でレオにケースを託してきた男性を思うと、そう容易く割り切って考えることは難しかった。
「死人の頼みを無下にできないっていうのもわかんなくはないよ。でも俺だって警官として目の前で何人も死なせるわけにはいかん」
あんなにもいい加減な態度を最初に見せつけておきながらこんな場面で真面目なことを言いだすのは卑怯ではないだろうか。てっきり映画やアニメに出てくる、一大事で逃げ出すタイプの警官だと思っていたのに。
なのにどうしてこう、頼りになりそうな雰囲気を出しまくっているのか。ずるい。
「あっ……」
ごく自然に警官に手を握られ誘導される。
レオはそれに大人しく従った。
そうするしかなかった。
何もできない自分がここでやれることはないのだから。留まり続けても無駄に命を危険に晒すだけで、誰も救えない。
譲りたくない信念があったとしても。
それを貫くのに相応の力を持っていないのなら固執するのはただ愚かなだけだ。
レオはそのことをきちんと理解していた。
だが納得はしていなかった。
こんなはずではなかったという慙愧の念が強くあった。寮を抜け出した時は自分が全能になったとさえ思え、やる気と自信に満ち溢れていた。
なのに、平和を守り、悪を正すのだと息巻いていながらなにもできず、結局自分の無力さを痛感させられて救われるのをただ待つだけの身となっている。
毎日のトレーニングや心の持ちようを変えたことで少しは強くなれたと思っていたのに。
せめて何か変わったことを確かめたくて囮を買って出ようとしたが、それも力不足を嗜められた挙句、逆に守られてしまった。
何もできないと言われ、言い返すことができなかった。言い返せるような根拠も、自信すらも持つことができなかった。
そういうふうに、気持ちで屈してしまったことが何よりも悔しかった。
諦めてしまった自分が不甲斐なかった。
自分は今まで、何を頑張ってきたのだろうか……。
「……くそっ、無線がいかれてやがる」
警官は応援要請を出そうとしているようだが、電波の調子が悪いのか一向に繋がらないようだ。地面を転がった拍子に壊れてしまったのだろうか。
――ギジャアアアアアッ!
レオは吠えるデウスを尻目にしながら、後ろ髪を引かれるような思いで警官に手を引かれて場を立ち去るため足を踏み出す。
すると突然、腹部に激痛が走った。それはまるで煌々と燃え盛る松明を押し付けられたような、そんな痛みだった。
「うぐっ……お、お腹痛い」
腹痛に耐えかね、レオはうずくまってしまう。
「……ったく、こんな時に何言ってんだ」
「ふぇ?」
「クソくらい我慢しろ」
「…………」
心配してくれるのかと思いきや、警官は呆れたような口調でデリカシーに欠ける言葉をかけてきた。
「ち、違いますぅ! トイレじゃないですからぁ! なんかそういうんじゃなくて、こう、お腹の奥がちりちり灼かれてるような、そういう痛さなんですって」
「……やめてくれよ、そういう生々しい報告すんのは」
そっと目を反らして気まずそうにそう言った。
レオは警官が何を想像しているのか言わずとも察した。
「だからそれも違いますぅ! そっちこそ、そういう下世話な発言やめてくれませんか!?」
なんて人だ! せっかく見直しかけていたのに。
助けてもらった恩も薄れていくではないか。
この人は絶対にモテない。
まともな男女交際をした経験が皆無な大人だ。
100パーセントそうだ。
「ちっ……もう自由になりやがったか」
そうこうしているうちにデウスは脚を引き抜き終え、再び行動を開始していた。
ずしんずしんと心臓に響き渡る振動音を立て、身体の正面をレオたちに向ける。複数ある眼がぎょろりと動きながら不気味に見定めてくる。
間違いない、あの化け物はレオたちを標的にしている――
「お前は逃げろ。立てないなら這っていけ」
警官はうずくまるレオを自分の背中に隠しながら、そう言う。
お前『は』?
その言葉に引っかかりを覚えたレオは反射的にこう答えた。
「嫌です」
「なら転がっていけ。坂道だからどうにかなるだろ」
そういう話をしているのではない。
「……お巡りさんは? 一緒に来るんですか?」
「俺は足止めする。これでも身のこなしには少々自信があってな」
「それじゃわたしと同じじゃないですか! 偉そうに説教しておいて! 自分だってとんだ自己満足野郎じゃないですか!」
レオが憤慨して言い立てると、
「全然違わいっ」
「へぐっ!」
頭頂部に鮮やかな手刀を叩き込まれた。
「痛い、酷いですー!」
「お前はここで死んでもいいと思ってたろ。けどな、俺はこんなところで死ぬ気は毛頭ない。他の誰かを命に代えて守るなんて尻が痒くなるような偽善、真っ平御免だね」
「……じゃ、じゃあなんでそんなふうにかっこよ…じゃない、迷いなく振る舞えるんですか?」
「それは俺が天下の公僕、お巡りさんだからだ」
拳銃を構え、警官ははっきりとした声でそう言った。
「こいつが俺の仕事なんだよ。ここは大人に任せとけ。背伸びをすんのはもうちっと了見を知ってからでも遅くはねえよ」
「い、意味がわかんないですよ! そんな、ただ仕事だからって理由でそこまで身体張るなんて理解できないです! 道理が通ってません!」
「だぁー! うるせえな! こういうのは理屈じゃねえだろが。そうしようって思ったらするだろ! 普通はこうすんだろ!」
「正義の心を持たない人間がそんなふうに考えるなんて変です!」
「悪人扱いするんじゃねえよ! さり気に失敬なやつだなお前!」
警官はこちらを振り向かずレオとの応酬を交わしながら器用にも同時並行で拳銃の引き金を引いた。
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