01-3 ネコは あなたを ゆるす
約束の公園。もう夕暮れというのに、花音はベンチに座って待っていた。
「……花音」
「わあ、イラくんだ」
花音は微笑んだ。
「お前、ずっと待ってたのか」
「うん」
花音は頷いた。
「だって約束してくれたもん、イラくんが」
うれしそうに、
「ご……ごめん、俺」
ちょっと用事で……と言いかけて、口をつぐんだ。女子に誘われたのをいいことにエッチな行為に及ぼうとした自分が、さらに嘘をつくなんて。
「お前との約束、忘れてたわ」
正直に告白した。
「そう……」
花音の大きな瞳が、伊羅将の目をじっと覗き込んでくる。
「でもイラくんは思い出した。そして来てくれた。花音との約束を果たすために。……違う」
「ま、まあ……」
「ならいいじゃない。ねっ、ほら、今から始めようよ」
ポスターを渡された。いちばん上の奴には、「ネコは あなたを ゆるす」と書いてある。
「そうだな。始めるか」
なんだか心が軽くなった。救われるって、こういう気持ちかな。
「今日はどこに貼るんだ」
「うん。駅前はもうだいたい終わったし、街道沿いはどうかと思うんだけれど」
奥多摩と都心を結ぶ街道のロードサイドには大規模店舗が並ぶので、このあたりではむしろ駅前より賑わっている。
「じゃあ行こうぜ」
●
「花音さん」
公園を出て二歩、三歩進んだところで、声がかかった。
「サミエルくん……」
男子だ。妙に白っちい顔色で鼻筋が通っているから、まるで化粧に失敗した悲惨な歌舞伎役者のようだ。今どきないだろ……としか言えない七三分けで、高等部のブレザーを着ている。
「花音さん、ご用事ですか」
伊羅将を無視して、花音に話しかけている。
「うん。ポスター貼り。これを貼るんだよ」
「言ってくれれば、貼って差し上げたのに。ほら、私が適当に貼っておきますよ」
「じゃあ、カレー屋さんの通りに貼ってくれる」
「ええ。喜んで」
伊羅将が抱えたポスターを、無言で半分ほどむしり取った。瞬間、睨みつけてくる。
「誰だ、お前」
思わずむっとして、尋ねた。
「ああ……。なんだ私を知らんのか、君は」
尊大な表情を浮かべて、伊羅将を見やった。
「エスカレーターに乗れなかったクズか。知らないのも無理はない。今回だけは許してやろう。……私は
――なに言ってんだ、このアホ。
「俺は自宅生だ」
「寮費も払えない口か。格安授業料を狙って貧乏人が入ってきやがるのは、困ったものだ」
唇を歪めた。
「神明学園は長い歴史を誇っている。寮生活もその伝統を受け継ぐ大事な要素。自宅通学を認めるなんて、理事長の寛大なお心も、これに関しては間違っているとしか言いようがないな」
「てめえ、いい加減にしろよな」
ネクタイを掴むと、伊羅将はサミエルの気色悪い顔を引き寄せた。
「離したまえ。私は花音さんの用事で忙しい。花音さん、いいんですか? 鷹崎家の私に味方せずに」
「ケンカはやめようよ、イラくん」
花音が困っている様子なので、伊羅将は手を離した。
「ふん」
ネクタイを直すと、サミエルは櫛を取り出して髪を整えた。
「それでいい。あなたは私のものですからね」
「そ、そんなこと……ないもん」
唇を歪め、サミエルは蛇のような笑みを浮かべた。
「くくっ……。ではごきげんよう、花音さん」
伊羅将に憎々しげな視線を投げると、歩み去る。
「……なんだよあいつ。ムカつく」
「ちょっと癖があるけれど、サミエルくんはサミエルくんなりに、学園を良くしよう考えてるんだよ、きっと。わかってあげようよ」
「とてもそうは思えないが……。それになんだよ、花音がサミエルのものって」
「それは……」
花音は言葉に詰まった。
「サ、サミエルくんが勘違いしているの。花音は誰のものでもないもん」
「そりゃそうだよな。キモい奴だ」
ポスターを貼りながら、学園のことを、花音はぽつぽつ話してくれた。
歴史的経緯から、神明学園は高等部にコンパニオンアニマル科という変わった学科を持つ。ペットとしての動物の扱い方を学ぶ学科で、獣医学部に進学して獣医になったり、専門学校経由でペットショップに勤める卒業生が多い。
花音の話では、一部の普通科生徒がコンパニオンアニマル科の生徒を見下していて、微妙な緊張関係があるらしい。それをなんとかしようと、花音は考えている。それには副理事長の息子であるサミエルの説得が必要なのだと、告白した。
「ならこのポスターは、そのための……」
「ううん」
悲しげに、花音は首を振った。
「これは……もっと大きな話なの」
「どんな」
「それは……」
伊羅将の瞳をじっと見据えた。
「そのうち教えてあげる」
伊羅将の手を取った。
「花音、わかるよ。イラくんは優しい人。だからパーシュエイションを手伝ってもらいたいの」
「パー……シュエイション?」
「うん」
「なんだよそれ」
「そのときが来たらね」
ごまかされた。
「ほら。あと少しだよ、ポスター。サミエルくんが手伝ってくれて良かったね。早く終わって」
「ごめんな。俺が遅れたから」
「いいんだよ。イラくん」
花音は微笑んだ。悪意がまったく感じられないその笑顔に、すれっからしのひねくれ者である自分の心も、少しは洗われたような気がした。
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