アユ釣りセット【鮎の塩焼き】
「いい香り」
「鮎(あゆ)の匂いだな」
川にはスイカのような匂いが漂っていた。
さすがに中国で香魚と呼ばれているだけのことはある。
ただ中国には体から妖艶な香りを漂わせていた『香妃』の伝説があり、香魚のせいでずっと彼女の体からはスイカの匂いがするのだと思っていた。
実際には沙棗(さそう)の匂いらしく、それを再現した香水も販売されている。
なお楊貴妃や西施(せいし)も妖艶な香りを放っていたとされ、中国では魔性の女と匂いは切り離せぬ関係なのかもしれない。
「いつ見ても戦場みたいだな」
鮎釣りでは長い竿を使う。
長い竿を構えて横一列に並ぶ姿はさながら戦国時代の長槍部隊。
まあ、ウェットスーツを着て腰まで水につかった長槍部隊など前代未聞だが。
そこは騎馬部隊の渡河を防ごうとしているのだと考えておこう。
「3匹お願いします」
「まいど」
地元の漁業組合の人から鮎を買う。
「鮎釣りに来たのに鮎買うの?」
「鮎は囮を使って釣るんだよ。友釣りっていう日本独特の釣り方だ。鮎は成長すると虫を食べなくなって、石についてる水垢を食べるようになる。で、水垢のついてる石を縄張りにするわけだ。そこに糸をつけた囮を送り込むと、野鮎は縄張りを守ろうと囮に体当たりしてくる。すると囮の針に引っかかるから、そこを釣り上げるんだ」
「3匹もいれば逆に縄張りを取っちゃいそうだけど……」
「いや、囮に使うのは一度に一匹だぞ。すぐに釣れればいいが、釣れずに長時間泳がせてると囮が弱るだろ? 囮が疲れると釣れなくなるんだよ」
「ああ、交代要員ね」
「そういうことだ」
両手を水で冷やしてから、鮎が暴れないように心臓のある腹をさけて優しくつかみ、指で目隠しをする。
こうすると大人しくなるのだ。
ここで暴れると釣りをする前から囮が疲弊することになる。
囮に糸をかけ、水に放して泳がせる。
目指すは野鮎がいそうな黒くてぬるぬるした石。
自分も川に入り、囮を気持ちよく泳がせるため糸が張らないように竿を動かし、川の流れに逆らわず石を釣るつもりでポイントを目指す。
囮が石の蔭に入ると竿が大きくしなった。
「いたぞ!」
やはりあの石を縄張りにする野鮎がいたらしい。
この竿のしなりは野鮎がかかったのではなく、体当たりをされて囮が逃げているのだ。
一際大きく竿がしなる。
「かかった!」
力で引き寄せれば囮にも負担がかかって弱ってしまう。
焦らず野鮎を疲れさせるために泳がせる。
友釣りの針には返しがないから、糸を緩めると針が外れて逃げられてしまう。
だからといって張りすぎると肉が千切れてしまう。
緩めず張りすぎず、釣り上げやすいポイントに誘導し、竿を立てて野鮎の動きを止める。
無駄な力はいらない。
竿のしなりを利用して野鮎の顔を水面に出し、竿をすっと突き出す。
すると竿の弾力で自然に野鮎が引っこ抜かれ、こっちに飛んでくる。
そこを玉網でキャッチ。
「わー!」
派手な空中キャッチに瑞穂が顔を輝かせて拍手する。
正直鮎の『引き抜き』は得意じゃないが、リスクを承知で格好つけただけの価値はあった。
「じゃあ早速これを囮にしよう」
「え、釣ったばかりのを?」
「釣れたては活きの良さが違う。友釣りは二匹目からが本番だ」
買った鮎は昨日釣られたものか、養殖ものだ。
先ほどまで自然に泳いでいたものとは比較にならない。
しかも釣ったのは背ガカリだった。
友釣りは体当たりした野鮎を針にかけるので、どこに針がかかるかで鮎の状態が変わってくる。
腹にかかると最悪、内臓(はらわた)をぶちまけてしまうし、目にかかったらすぐ弱ってしまう。
その点、背中に針がかかった鮎はダメージらしいダメージがなく、囮としては最適なのだ。
「私もさっきみたいに釣れる?」
「釣れる」
いつかは。
「でもいきなり引き抜きをやるのは難しいんで、最初は無理せず『吊るし込み』でいこう」
二人して川の中に入り、瑞穂の囮を放す。
さて、どの石を狙うか。
さっきの石はいい水垢がありそうなので、縄張りを作ろうと新しい鮎が入り込んでくる可能性はあるが。
囮にはまだ縄張り意識があるから、野鮎に体当たりさせるどころか囮のくせに体当たりしに行くだろう。
それでは針がかかりにくい。
あそこは後で狙おう。
「取りあえずあの石を狙え」
「あ、鮎が言うこと聞かないんだけど!?」
右へ左へ東へ西へ。
囮はあらぬ方向へ泳いでいく。
仕方なく瑞穂に密着して竿を立てた。
囮の顔を水面に出し、上手く流れにのせる。
そして竿を寝かせて糸を半分ほど水に沈めると、囮が狙った通りに泳いでくれた。
買った鮎とは比べ物にならない力強さでぐんぐん泳ぐ。
そして強く竿がしなる。
「来た!」
「わ? わ?」
野鮎はすぐ針にかかった。
瑞穂が逃げる野鮎に引っ張られる。
「ここは流れが速いから無理に引っ張るな。川の流れで身が千切れるぞ。むしろ逃げる鮎について行って、流れの緩やかな場所に誘導するんだ」
「い、糸はどこ!?」
「そっちだ。目印に羽根がついてるから、見失わないようにしろ」
野鮎と一緒に下流へ向かい、流れのない岸へ。
そろそろだろう。
「糸を掴んで、竿を肩に担いで、引き寄せろ」
「こ、こう?」
「で、最後に玉網を腰から抜いて……」
すっと鮎をすくう。
これが吊るし込みだ。
「や、やった!」
「まあ、初めてにしては上出来だ」
釣り始めてから10分足らずでお互いに一匹。
今日は釣れるという確信の通り、糸を垂らすたびに面白いように鮎がかかる。
「そろそろ食うか」
「どうやって食べるの?」
「『生きのいいものは塩焼き。生きの悪いのは照り焼き』と、かの魯山人(ろさんじん)も言っている」
美食家・魯山人は鮎にこだわりがあり、鮎に関する記述は多い。
『やはり、鮎は、ふつうの塩焼きにして、うっかり食うと火傷するような熱い奴を、ガブッとやるのが香ばしくて最上である』
『あゆの食べ方。塩焼きは頭から食え。頭の中のエキスがうまい。骨はかんで吐き出す。はらわたは無論美味』
『食べるにははらわたを抜かないで、塩焼きにし、蓼酢(たです)によるのが一番味が完全で、しかも、香気を失わないでよい』
『あゆはたで酢がつきものだが、たで酢の作り方はまずたでを擂鉢で摺り、絹漉しにかけ、後で酢を入れる。この場合たでの沈殿を防ぐために飯粒を入れて摺るとよい』
蓼は『蓼食う虫も好き好き』の蓼であり、葉っぱが柳に似ているのでヤナギタデと呼ばれる植物である。
「俺は串を打つから、お前は蓼を擂れ」
「スリスリ」
ゴマ擦りのような仕草が若干気になったものの、鮎を洗い、水気を取って串を入れる。
中骨に添って、串が飛び出さないよう、はらわたが傷つかないように。
無事に串が通ると、尾びれから串を出し、形を整え、化粧塩を振る。
後は焼くだけだ、というところで。
「あいむはんぐりー」
「自分で釣れ」
遅れてやってきたハイエナをしっしと追い払う。
「Boo!」
「うるさい。……瑞穂、強火の遠火で表4分、裏6分焼け。ちょっと教えてくる」
「表を四分、裏六分ね」
「時間厳守じゃないからな。焦げそうだったら裏返せ」
「わかってるわよ」
いちいち見本を見せていると鮎が焼き終わってしまうので、さっと囮をかけて川に入る。
今日の調子だといいポイントを選ばなくても釣れるだろうと思っていたら、予想に反して5分経っても当たりがない。
一度鮎の塩焼きを取りに戻ろうかと逡巡した瞬間、
「Fish!」
アリスの竿に鮎がかかった。
焦らずゆっくりと吊るし込み、
「食うか?」
「一匹では足りまセン」
「だろうな」
買った鮎を焼いても養殖ものだから味は期待できないだろう。
釣れたての鮎を囮にする。
「鮎が焼け……」
「Hit!」
嫌なタイミングで再び当たりが来る。
「またか。今度は一人で釣れるよな……って、馬鹿。引きすぎだ、身切れするぞ!」
やはり釣り方が不安定で、それじゃあ駄目だとアリスの体を支えつつ、竿に手を当てがおうとすると、
「わ、私が教えるから!」
瑞穂が強引に俺とアリスの間へ割り込んだ。
「……そんなに縄張りを主張しなくてもいいだろ」
「な、何の話よ!?」
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