囲碁セット【レイヤーケーキとラズベリーコーディアル】

※挿絵機能がないので文字で説明しているのですが、黒石の●がカクヨムでは全角で表示されない(表示がずれてしまう)ので◆になっています。

ご了承ください。



「やってる?」


「……どこのサラリーマンだ」

 おっさんが居酒屋の暖簾から首を出すような感じで、ドアの隙間から瑞穂がぬっと顔を出していた。

「客はいなくても一応やってるぞ」


「じゃあレイヤーケーキとラズベリーコーディアルね」


「あいよ」

 女子高生のオーダーとは思えない。

 レイヤーケーキはジャムやゼリー、生クリームやフルーツなどを挟んで層(レイヤー)にしたもの。

 日本のショートケーキもレイヤーケーキの一種だ(国によってはショートケーキのことをレイヤーケーキと呼ぶ)。

 ラズベリーコーディアルはラズベリーを濃縮した飲料だ。

「コーディアルをケーキにかけるのか?」


「違うわよ。炭酸で割って飲むの」


 コーディアルがなにかはちゃんと理解しているらしい。

 濃厚なのでシロップのようにすることも多いのだ。

「ケーキに挟むジャムは何にする?」

「ゼリーがいいんだけど」

「ゼリー?」

「それも赤いゼリーね」

 ピンときた。


「『赤毛のアン』だな」


「そうそう」

「ネタがわかれば話は早い。コーディアルは初めてダイアナをお茶会に誘った時に出そうとしたジュースだよな?」

「? それ以外になにがあるの?」

「いや、俺が夏休みの読書感想文で読まされたバージョンだと、ラズベリーコーディアルなんてシャレた名前じゃなくて『いちご水』だったからな」

「ラズベリーだから木いちごなのよね。私もよくわからなかったから調べたんだけど」

 翻訳された年代や、翻訳者によってこういう食べ物の描写は大きく変わってしまう。

 翻訳小説が嫌われるのはこういう所だろう。

 レイヤーケーキは牧師夫妻にアンが出したスイーツだ。


 瑞穂が『赤いゼリー』と具体的な名前を出さなかったのは、原作でも赤いゼリーとだけ記されていてなんのゼリーを使ったのかわからないからだろう。


 コーディアルと合わせてゼリーはラズベリーにしたほうがいいのかもしれない。

 これも赤いから文句はないはずだ。

 室温で戻したバターに砂糖、牛乳にヴァニラ、そして薄力粉とベーキングパウダーを混ぜてスポンジ生地を成形し、オーブンへぶちこむ。

 焼くのは慣れているのだが、焼き加減が気になってどうしてもこま目に中をのぞいてしまう。


 アンはレイヤーケーキを上手く作れるか不安になるあまり、レイヤーケーキの顔をした鬼に追いかけ回される夢をみたらしい。


 それと似たような心理だろう。

「もう少し時間かかるぞ」

「対局してればあっという間でしょ」

「それもそうだな」

 適当なところでエプロンを脱ぎ、盤に駒を並べようとすると、


 パチン


「……なにしてる?」

「囲碁だけど?」

 いつの間に取り出したのか。

 碁笥(ごけ)から碁石をつまみ、将棋盤に打ちつけていた。

「うちは将棋喫茶だぞ」

「囲碁将棋喫茶でしょ?」

「将棋囲碁喫茶だ!」

「ほら囲碁喫茶じゃない」

「あ」

 しまった。

 昔から何度となく繰り返してきた問答に、ついいつもの癖が出た。


 将棋を指す人間は『囲碁将棋』という囲碁を優先した呼び方を嫌う。


 だから囲碁将棋と呼ばれると、反射的に将棋囲碁だと答えてしまうのだ。

 囲碁将棋という言葉の根は意外に深い。

 江戸時代から席次は囲碁の方が上で、将棋の家元がそれに異を唱えたことがあったものの待遇は変わらなかった。

 また将棋と囲碁では昇段基準が違い、将棋の事実上の最高位が八段の時代にも囲碁には九段が多数存在していた。

 競技が違うのだからそれはやむをえないことなのだが……。


 問題は将棋と囲碁の棋士が一堂に会した時、必然的に囲碁の棋士が上になってしまうことである。


 将棋の名人やそれに準ずる八段が、ぽっと出の九段の下座につくわけだ。

 これほど屈辱的なことはない。

 こんな歴史的背景もあり、将棋指しは絶対に囲碁将棋とは口にしないのだ。

「仮に将棋囲碁喫茶だとしても、俺は囲碁なんか打てんぞ」


「打てないから囲碁なんでしょ」


「は?」

「あんたはこっちね」

 強引に碁笥を渡される。

 付きあわざるを得ないようだ。

「……念のために言っておくが。これで勝ってもタダにはしないからな?」

「えー」

 こいつ、やっぱりそのつもりだったのか。


 たぶん俺に勝つためだけに囲碁を勉強したのだろう。


 なんでこういうことには努力を惜しまないのか。

「なら石取りゲームね」

「おう」

 細かいルールは知らなくても、相手の石を囲めばその石を取れることぐらいは知っている。


 ◆

◆〇◆ 前後左右を囲めば取れる 斜めはいらない

 ◆


 石取りゲームというからには、囲碁の細かいルールは省いて石を取ることだけに集中するゲームだろう。

「囲碁は19×19の19路盤、要するに縦横に19本の線があるのを使うのが本式なんだけど……。これは9×9『マス』の将棋盤だから、囲碁に換算すると10路盤ね」

「本式よりも線が少ない分だけ初級者向けだな」

「そうね」


 碁石を盤に打って対局開始。


 序盤から小細工なしに囲いにいくとノータイムで応じられた。

 素人相手なら考えるまでもないということか。

 舐められてなるものかと手を進めたのだが、

「端っこに打ちすぎ」

「駄目なのか?」

「駄目よ。相手の石を取るには四方を囲まないといけないわけだけど。盤の隅なら二子で済むし、辺なら三子で囲えるでしょ」


端端端  端端端

端〇◆  ◆〇◆

端◆    ◆


「あー、端に打つと少ない手数で石を取られるのか」

「そういうこと。考え方を変えれば、相手を端へ追いつめればいいわけ」

「ぐ!?」

 端へ追い込まれる。


例1 端の方から攻めた場合


端端   端端   端端端

     ◆     ◆

〇◆ → 〇◆ → 〇〇◆

◆    ◆     ◆


端の方から攻めると横に逃げられる



例2 端へ向かうように誘導した場合


端端   端端端   端端端   端端端

            〇    ◆〇

〇◆ → ◆〇◆ → ◆〇◆ → ◆〇◆

◆     ◆     ◆     ◆


  端端端   端端端端

  ◆〇〇   ◆  ◆

→ ◆〇◆ → ◆ ◆

   ◆     ◆


 あえなく端で殺され惨敗を喫する。

「くそ、もう一局だ!」


 チン


「後でね」

「ぐ……」

 絶妙なタイミングで焼き上がった。

 仕方ないのでオーブンを開け、ホカホカのスポンジを幾重にもスライス。

 サッと間にゼリーを挟み、砂糖がけして切り分けた。

 皿は茶色い陶器。

 アンは薔薇の文様が入った磁器を提案したものの、養母マリラの許可が下りず、やむなく陶器にしたのである。


「お待ち」


 満を持して出来立てのレイヤーケーキと、炭酸水で割ったラズベリージュースをテーブルに並べた。

 すると何を血迷ったのか、


「くんかくんか」


 下品に匂いを嗅ぎだした。

「……アンみたいにジュースと葡萄酒を間違えたり、ヴァニラと痛み止めの薬を間違えたりしてないから安心しろ」

「気が利かないわね」

 なんという理不尽。

 シチュエーションまで再現してほしかったらしい。

「……未成年に酒出すわけないだろ。そもそも客に薬なんて盛ったら裁判ものだろうが」

「それもそうね」


 ちなみにヴァニラエッセンスと痛み止めの薬を間違えるエピソードは、原作者モンゴメリの実体験である。


「いただきまーす」

 豪快にフォークをぶっ刺し、大口開けてケーキをむさぼる。

「あー、レイヤーケーキってこんな味だったんだ。……思ってたのと違う。あ、いや、美味しいのよ?」


「フォローはいらん。思い出は美化されるもんだ」


 子供の頃に憧れた食べ物を実際に食べてみると、期待よりもあれでがっかりする大人は少なくない。

 期待値が高すぎるが故の悲劇だ。

 仕事柄、再現レシピを作ることが多いからより一層それを強く感じる。

「ごちそうさまでした」

 美味しいという言葉は嘘じゃないと証明するためか、あるいは単に食い意地が張っているのか。

 一欠けらも残さず綺麗にケーキを平らげた。

「よし、もう一勝負だ」

「何度やっても同じよ」

 今度は端に気を付けて石を打つものの、


「それはシチョウね」


「死兆星?」

「説明するの面倒くさいから体で味わいなさい」

 猛然と囲いに来た。

 囲われまいと石を繋ぐ。

 逃がすまいと阻まれる。


 繋ぐ。阻む。繋ぐ。阻む。繋ぐ。阻む。


「……待った」

「待ったなし」

 いずれ端に追いつめられて俺の石は死ぬ。

 繋げば繋ぐほど多くの石を取られるわけだ。


シチョウの例 逃げるほど石を取られる


                     ◆

 ◆      ◆     〇◆     〇◆

〇〇◆ → ◆〇〇◆ → ◆〇〇◆ → ◆〇〇◆

◆◆     ◆◆     ◆◆     ◆◆



   ◆      ◆

  〇〇◆   ◆〇〇◆

→ ◆〇〇◆ → ◆〇〇◆

   ◆◆     ◆◆


「……ハメたな?」

「いや、これ普通の手筋だから」

「なんて卑劣な奴だ。素人をいじめて楽しいか?」

「だ、だからこれシチョウ! プロ棋士だってこうなるんだから!」

「ああ! わかったわかった! 冗談だから泣くな!」

「な、泣いてない!」

 半泣きの顔で強がる。

 手のかかる奴だ。

「……ゲームカフェをやっていくからには囲碁も勉強せんといかんな。でも上手く打てるようになるとは限らんぞ?」

「大丈夫よ」

 胸を叩いて一冊の新書を取り出した。


『30からでも初段に成れる』


 サラリーマンを中心にベストセラーになっている本だ。

 帯のキャッチコピーは『三十路あれば19路盤も恐くない』。


 三十歳を意味する三十路(みそじ)と碁盤の路をかけているわけだ。


「私があんたを初段にしてあげる!」

「それはどうも。……で、お前は何段なんだ?」

「う」

 露骨に目をそらした。

「しょ、初段」


「段位にも種類がある。道場初段とネット初段、どっちだ?」


「ネット」

「道場とネット、どっちのほうがレベル高いか知ってるか?」

「え、道場でしょ?」

「囲碁はそうなのかもしれんな」

「……なによ、その含み笑い」

「別に」


 ネットはレーティング制なので道場とは昇段基準が異なる。


 そして将棋では道場よりネットのほうが昇段するのが難しい。

 たぶん囲碁でも同じだろう。

 だがネットには重大な欠点がある。


「ところで囲碁ソフトは何を使ってる?」


「え、激打だけど?」

「ほほう、愛用してるソフトがあるんだな」

「……あ」


 ネットなら囲碁ソフトを使ってもバレないので、初級者でも有段者に勝てるのだ。

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