おはなし

最寄ゑ≠

おはなし

 軍議を終え執務室に戻ると、テーブルの上にカレンダーが置かれていた。日付の箇所が蓋になっていて、開くと神様の贈り物がひとつ現れる。余りにも豪胆、かつ尊大であるが故に疑うと云う事を知らぬ将軍は、「ついたち」の蓋を無造作に破り取る。薄汚くて所どころの解れた熊の縫ぐるみが、くたくたと立ち上がった。


―こんばんは、ぼくはくまちゃんだよ!

 ぼくのみてきたおはなしをききたいかい?


 実に下らない。やれやれ、と将軍は肩を竦めた。いったい誰が、事もあろうかこの私に、こんな子供騙しを仕組んだものか。鼻白む思いでカレンダーを始末しかけた将軍は、何だかぞっとする様な視線を感じて手を止めた。熊の縫ぐるみは、胸に一枚の写真を掲げていた。砂埃と煤煙に塗れた幼い子供が、真っ直ぐに将軍を見詰めていた。褐色の太腿に伝う赤い血の筋は、明白なレイプの痕跡だった。だらんと垂れた少女の手には、その熊の縫ぐるみが握られていた。ううむ、と将軍が唸ったのを了解と取ったのだろう、熊の縫ぐるみは少女の身の上に起こった無慈悲な出来事を語り始めた。


―こんばんは、ぼくはくまちゃんだよ!

 ぼくのみてきたおはなしをききたいかい?


 村を追われ瓦礫の道を進む沈鬱な避難民の列の中、老婆に手を曳かれながら将軍の方へと振り向く幼な子の背には、ぼろぼろに擦り切れたリボンでその熊の縫ぐるみが結えられていた。新聞の切り抜きらしい焦点の甘い写真の中で、痩せこけた男児があどけない頬笑みを将軍に向けていた。男児の構える、華奢な身体では持て余すばかりの厳ついライフルの銃口の先には、やはりその熊の縫ぐるみがあった。


―こんばんは、ぼくはくまちゃんだよ!

 ぼくのみてきたおはなしをききたいかい?


 熊の縫ぐるみが挙げる名のひとつひとつに、将軍は憶えがあった。それらは、ここ数カ月の間に将軍自らが破壊を、占領を、掃討を命じた町や村の名だった。気の滅入る様な長い長い「おはなし」があった。或いは、呆気ないほど短い「おはなし」があった。夜毎将軍は、時には黙って頷き、時には頭を抱え、時にはうつらうつらと寝入りそうになりながら、「ぼくのみてきたおはなし」に耳を傾けた。そうすることが、一軍の将として重ねて来た数々の罪への代償であると、段々そう考えるようになっていた。ある日の軍議の最中、将軍は激しく咳き込んだ。お風邪でも召されましたかな、と隣席する参謀が小声で気遣った。心配は無用であるとばかりに、将軍は手を薙いだ。将軍は熊の縫ぐるみの話を聞くたびに、あれらの子供たちが味わったであろう砂塵と硝煙と血の味が、喉の奥に澱の様に溜まってゆくのを感じていたのだった。


 熊の縫ぐるみは、子供たちの行く末を何ひとつ語りはしなかった。

 言わずと知れた事だと、将軍は思った。


戦況は膠着したまま、クリスマス・イヴの夜を迎えた。この国境の駐屯所の玄関でも、首府から送られてきた大仰なツリーが光を撒いていた。従軍教戒士が将兵を集め、簡素なミサを開いた。長引く戦闘に疲弊し切った兵士たちは、折角料理長が腕を揮った晩餐も俯いて黙々と口に運んでいた。最早抱えきれぬ程の憂鬱を抱え執務室に退き下がった将軍は、小さく十字を切ってその時を待った。


―こんばんは、ぼくはくまちゃんだよ!

 ぼくのみてきたおはなしをききたいかい?


最後の蓋はひとりでに開くと、消魂しい鐘の響きに執務室の窓硝子はひび割れ、どころか司令部そのものが烈しく揺さぶられた。まるでこの日のために礼装を整えて来たかの様な真っ更の熊の縫ぐるみが、すっくと立ち上がった。その胸に掲げられていたのは、将軍のたったひとりの孫娘の写真だった。公館の応接間のふかふかのソファに腰掛け満面の笑みを浮かべる孫娘は、しかし将軍を見てはいなかった。その丸くて大きな愛らしい瞳は、ただ嬉しそうに抱きあげる熊の縫ぐるみの虚ろな目だけをじっと見詰めていた。


―よせ、よしてくれ!

 そんなおはなしはききたくない!


 異変を察し執務室に駆け付けた参謀は、熊の縫ぐるみを抱き締め蹲る将軍が、声を限りに嗚咽を漏らしている姿を見た。


―これはこれは!

 

 うろたえた参謀の口からは、あまりにも思いがけない光景に遭遇した者が思わず発する素っ頓狂な声で、とても見てはならないものを見てしまった者が思わず発する間抜けな取り繕いの言葉が漏れていた。


―可愛らしいクリスマス・プレゼントですな!


 明け方、猛烈な攻撃を受けた首府は僅か数時間の内に陥落した。命からがら脱出してきた者たちがこの駐屯地に辿り着く頃には、新しい年が明けようとしていた。砂と煤と血に汚れ、打ち拉がれた避難民を先導する若い兵士の背嚢から、あの熊の縫ぐるみがひょっこり顔を覗かせていた。


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おはなし 最寄ゑ≠ @XavierCohen

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