三章
ウェディングドレスは無垢な純白で守られてⅠ
最近遥華姉の帰りが遅い気がする。
そう気がついたのは、合宿から帰ってきて数日した頃だった。剣道部の練習は夏の大会が終わって一つの区切りがついて、そろそろ新部長も決まって新しい一歩を踏み出したところだろう。それに伴ってマネージャーの遥華姉の仕事も少し楽になっているはずだ。
いくら夏休みだって言ったって、そこまで熱心な部員は多くない。それなのに、朝から練習に行って帰ってくるのは夕方、という日もときどきあった。
僕は玲様から厳命を受けて、予定よりどんどん遅れていく夏休みの宿題を取り戻そうと必死になっているから、完全に遥華姉の行動を把握しているわけじゃないけど。
それに中学生の頃と比べて、絵や日記みたいなものがなくなった代わりに単純に宿題の数は増えていて、ちょっと出かける気にはなれなかった。
「これじゃ宮古先輩より僕の方がよっぽど怪しい奴なんじゃ」
宮古先輩がそこまで遥華姉に固執していないことはこの間の合宿でわかったけど、だったらどうして遥華姉はわざわざ月野のじいちゃんのところまで連れて行ったんだろう? インターハイに向けて修行するなら、スポーツ剣道にも理解があって近くに道場があるうちのじいちゃんでいいはずだ。
それをわざわざバスに乗って葛橋まで行っていた。その理由が僕にはまだわからない。遥華姉が僕を宮古先輩から遠ざけようとしている? だったらなんで?
浮かんでくる疑問は僕の考えを支配していく。そんな頭では成績の良くない僕が問題集なんて解けるはずもない。ただ時間だけが過ぎていって白紙のページが残るばかりだ。
「玲様が教えてくれればいいのに」
期末テストでも余裕の上位だった玲様は家の都合で親戚回りに行くことになって、今は夕陽ヶ丘にはいない。この間の旅行だって結構無理して予定を作ったらしい。玲様のお母さんの協力もあって何とかなったらしいけど。
そして玲様のいない間に宿題を終わらせておくように、ってことなんだろうけど、それは勉強のできる玲様の感覚だからそう言えるのであって、僕一人では到底終わりそうにない。
「誰かに協力してもらうしかないかなぁ」
だとしたら、やっぱり同級生だろう。今は家の手伝いをしているかな。僕は手元の携帯電話から湊さんにメールを出してみる。すると、返事はすぐに帰ってきた。
『いいね、勉強会。やろうやろう』
ご丁寧に顔文字までつけてくれて。絶対ろくに進まないんだろうなってことが今からでもわかる。それでも行かないなんて選択肢はない。どうせここにいても勉強なんて一ページどころか一文字も進まなさそうなくらいだ。
うちに来るかと思ったら、今日は手伝いがないから湊さんの家でやろうという話になった。まぁ僕の家はいつもお母さんとじいちゃんがいてお菓子の差し入れが飛んでくるし、冷房のしっかり効いた湊さんの家の方が何かと便利かもしれない。
カバンに一応問題集を詰めて、それからちょっとくらいおやつを買っていこう。そういえば玲様は初めて会った頃にポテトチップスを食べて感動していた。意外とチープなお菓子が反応がいいかもしれない。湊さんはそんな感じじゃないか。
暑い日差しの中、歩いて下川呉服店へとやってきた。田舎だから普通は自転車で移動するのが当たり前なんだけど、この辺りはちょっとお金持ちが多いからあんまり自転車って走ってないんだよね。そのせいで乗っていると貧乏人に見られたりするのだ。近いから別にいいんだけどさ。
立て簾のかかった店先から顔を覗かせる。やっぱりお店はやっていないらしい。実際のところは湊さんの両親がお客さんのところに訪問して商談をしているから、お店にお客さんがやってくることはほとんどない。玲様が遊び半分で来るのが全体の八割くらいって言っていた。
湊さんが出かけていて店頭にいなければお店は閉めてしまうらしいけど、浴衣のシーズンとはいえ、買うのは着るときよりも早い時期だから今は少し落ち着いているんだろう。
「こんにちは」
「いらっしゃい。あがってあがって」
ここで会うと手伝いのときのために長い黒髪のかつらをつけて着物を着ているイメージが強いから、普段の湊さんなのになんだか違って見える。
「お邪魔しまーす」
「いやぁ、暑くて一歩も家から出たくないね」
「しかたないよ、夏だもん」
暑すぎて授業にならないから夏休みになっているわけで。家から出たくなくなるのも当然だ。現代のテクノロジーをフルに生かして、こうして涼しい室内にいられるんだから現代に生まれてきてよかったよ。
それに外に出ないってことは必然的に女装して外に連れまわされることもなくなるわけで、僕としてはこれ以上ないくらいいい話だ。夏万歳。
湊さんの部屋に通される。よく考えたら部屋にあがるのは初めてのことだ。前に来たときはお店の裏のところで着替えさせられただけだったもんな。
湊さんの部屋は和風の家からは想像できないフローリング部屋で、ここだけ他の家から切り取ってきたみたいだった。遥華姉と同じように見えるけど、配置は当然のことながら、あまり小物とかがなくてすっきりとしている印象だった。ちょうど玲様と遥華姉の部屋の中間くらいって感じだ。
二人にない怖いところとしては着物を着た僕の写真がたくさんコルクボードに張ってあることかなぁ。できれば全部回収して闇に葬り去りたいよ。
「あ、お菓子持ってくるから適当に座ってて」
そう言って湊さんは部屋を出ていってしまう。初めての部屋でそう言われると困ってしまうんだけど。薄手のカーペットに置かれたこのクッションに座ってもいいものなんだろうか、といつも考えてしまう。
「あ、私のタンスの中は開けちゃダメだよ」
「そんなことしないってば!」
どうしようかと迷っているところに急に戻ってきた湊さんがいたずらっぽく笑う。これでも女の子の部屋に入るのは初めてじゃないのだ。そのくらいは、いやそうでなくても人間としてそのくらいの自制心はありますとも。
タンスからローテーブルを挟んで一番遠いところに座る。戻ってきた湊さんは大きなペットボトルのジュースに、胸に抱えるほどのお菓子を持って戻ってきた。これは、全然勉強する気ないな。わかってはいたけど、形だけの抵抗として僕はカバンの中から持ってきた問題集を広げた。
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