エプロンは身と心を引き締めてⅡ

「やっぱりいきなりは無理だね。もっと練習しないと」


「食べきれないくらい作らないでね」


「あんな無尽蔵に材料が出てくるのはお嬢様の家だけ」


 遥華姉はちょっと呆れ気味に笑った。確かに作っている本人も気がつかないほどこっそりと食材を買い足してこれるのはあの家のお付きの人たちくらいのものだろう。でもおばさんだって遥華姉が料理をするって言いだしたら、きっと協力してくれるに違いない。それでそのうち毎日の炊事を代わってくれないか、と期待しそうだ。


「私も湊ちゃんに教えてもらおうかなぁ」


「喜ぶんじゃないかな。遥華姉のこと憧れてるみたいだし」


「私も剣道だったら教えてあげられるんだけどなぁ」


 遥華姉は手元のタッパーに視線を落として溜息をついた。どうやらオーブンの下火が強かったみたいで、遥華姉が一枚ずつひっくり返していくと全部裏側は真っ黒になっていた。砂糖とバターが焦げているわけだからおいしくないってことはないけど、やっぱりクッキーとしては失敗だろう。


「遥華姉の特技なんだからそれでいいんだよ」


「でも女の子っぽくないもん」


 ちょっと膨れた遥華姉の声は明るい。こういうときには決まって落ち込んでいた遥華姉がこうして笑って乗り越えられるようになったのは、間違いなく玲様たちと会ってからだ。僕が何年も考えて、悩んで、いろいろやってみたけどどうしても解決できなかったことを玲様というピースがはまっただけでこうも簡単に解決してしまっている。やっぱり僕とは持っているものが違うのだ、と思わせられる。


 遥華姉がクッキーを作ってきたのは玲様や湊さんが料理が作れて、その方が女の子らしいって考えたからなんだろうけど、それと同時に今のみんなから『巨神兵』と呼ばれていた自分を受け入れつつあるんだ。それはきっと玲様という少し変わっているけど、自分の意思を曲げずに目標に真っ直ぐ突き進む姿に影響されたからだ。


 やっぱり僕と玲様じゃ釣り合ってないよ、遥華姉。何度食べても苦いクッキーに眉間にしわを寄せて睨む遥華姉に僕は微笑んでみるけど、気付いてはもらえてないみたいだ。


「ねぇ、また作ってくるからその時は食べてくれる?」


「このくらいなら毎日でも大丈夫だよ」


「そんな安請け合いすると後で困るよ」


 遥華姉は笑いながら、クッキーの入ったタッパーを僕に差し出した。今日のデザートはこれで決まりだ。今日は上がっていかないという遥華姉を玄関で見送って、僕は居間に戻った。お母さんもじいちゃんも遥華姉が作ったクッキーだと言ったらとっても驚いていた。僕だけじゃなくてずっと見ていた二人にとっても大きな変化だったみたいだ。


 食後のデザートにちょっぴり苦いクッキーを食べながら、ふとお母さんが不穏なことを言い始める。


「でも困ったわね」


「何か困ることがあるの?」


「遥華ちゃんが料理を練習するって言い出したこと」


 いったいどんなことで困るっていうんだろう。まさかまたうちの食卓が遥華姉の料理で埋まるなんてことはまずありえない。あんなに大量生産して気がつかないのは玲様くらいのものだ。


「いい、直。女の子が料理を練習し始める理由なんて一つしかないの」


 神妙そうな顔でお母さんは続ける。


「誰か食べさせたい相手が出来たときよ」


「遥華姉に? まさか」


 とそこまで言って、僕はふと考えてみる。最近は玲様に構ってばかりで遥華姉と一緒にいる時間が減っている。今までみたいになんでも知ってると言い切れる自信はない。それに最近休みの日に僕に女装させて出かけようと言わなくなった。もしかして僕以外に誰か一緒に出掛ける人が出来たってことかもしれない。


「そしてまだ練習段階のものを持ってきたってことは相手は直じゃないってことよ」


「別にそうと決まったわけじゃ」


 その理屈でいくと、玲様も誰か気になる相手がいるってことになるし、湊さんはそれよりもっと前からってことになる。家の事情で練習する人もいるだろうし、玲様が始めたから自分も、と遥華姉が思っただけかもしれない。


「だってお母さんがそうだったもの」


「そんなたった一人のデータで決めつけないでよ」


 妙に真面目な顔で言うから心配しちゃったじゃない。それにしてもお母さんってお父さんのために料理ができるようになったんだ。そういえばお父さんはいつもお母さんの料理が世界で一番おいしいって言っていた。


「でもね、やっぱり好きな人においしいって言ってもらいたいじゃない」


 そんな急にのろけ話をされてもこっちが困っちゃうよ。じいちゃんにどうしよう、と視線で訴えかけてみたけど、どうやらこっちもばあちゃんのことを思い出しているみたいで天井を見ているばかりだった。


 そういえば僕は傷つけちゃうかもと思って、いつもおいしいって答えているような気がする。適当に言っているつもりはないけど、みんなにはそれがちょっと透けてしまっているのかな。ちゃんと味わって本当に心からのおいしいを口に出してあげないといけないのかも。


「とにかく、遥華ちゃん取られたくなかったら直も頑張らないとね」


「どうしてそんな話になったのさ?」


 いつの間にか僕と遥華姉の話になっている。別に僕と遥華姉は幼馴染であってそれ以上ってわけじゃないはずなんだけど。そう言われるとなんだか遥華姉のことが気になってくるから不思議だ。このクッキーも誰のことを考えながら作ったんだろう。


 そういえば玲様も食べる相手を想像して作るのが大事って言ってた気がする。うーん、もしかして僕だけちょっと蚊帳かやの外?


 好評のまますぐになくなってしまったクッキーは、僕の口と心の中にちょっぴりの苦味を残して消えていった。

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