四章

エプロンは身と心を引き締めてⅠ

 お付きの人たちが追加の食材を買ってこなくなったおかげで、玲様の料理も常識の範囲内に収まってくれたみたいだ。うちの食卓も平穏を取り戻していつもの和食メニューに戻っている。白いご飯ってこんなにおいしかったんだなぁ、としみじみ思ってしまう。


「やっぱりお味噌汁は最高だね」


「うむ、そうじゃなぁ」


 最近は食事中一言もしゃべらないことも珍しくなかったじいちゃんも今日は口数が多い。僕もついつい話が進んで、お箸が止まることも多かった。やっぱり毎日違うものを食べるって贅沢なことなんだと改めて考えさせられた。


 そんな平和な夕食の途中で玄関のチャイムが鳴った。僕は思わず身を固める。じいちゃんも平静を装ってはいるけど、少し動揺したように見えた。こんなことはめったにない。僕と同じことを考えたんだろう。またオムライスが来たんじゃないか、って。


「誰だろう? 僕が出てくるよ」


 また玲様や干将さんだったらどうやってお断りしようか。まだ決まったわけでもないのに、僕の頭の中に浮かんでくるのはそんな失礼なことばかりだ。ばたばたと足音を立てて玄関に向かう。当然のように鍵のかかっていない扉を通ってもうお客さんは中に入ってきていた。


「あれ、遥華姉?」


 待っていた人の姿を見て僕は首を傾げながら声をかけた。いつもならチャイムなんて鳴らさないで普通に家にあがってくるのに。それが悪いと僕も家族の誰も思ってなんかいない。そういう関係なのだ。だからわざわざ玄関口で待っていることに違和感を感じずにはいられなかった。


「どうかしたの?」


「いや、そのね」


 遥華姉の答えは歯切れが悪い。そうなると浮かんでくるのは当然自分が今一番心配していることだった。


「もしかしてまた」


「それは大丈夫だけど、ナオのところには来たの?」


 もう口に出すのも怖くて、お互い直接名前は出さない。それでもすぐにわかってしまうほど僕らの心には傷が刻まれている。


「うちも今日は和食だよ」


 元々和食が多い献立だけど、今回は特に長く続きそうだ。まだまだ焼き魚のおいしさを思い出すには時間がかかるだろう。それからしょうゆの旨みも思い出したいところだ。その前に玲様が次の料理にはまらなければいいけど。


「そっか。とりあえず一安心かな。うちのお母さんはもう料理するのが面倒になってきたみたいだけど」


 おばさんは相変わらずだなぁ。毎日仕事に行ってそれから家事までってなるととっても大変なんだろうけど。


「えっと、立ち話もなんだから、上がっていく?」


 夕ご飯の途中だけど、遥華姉が一緒にいても何の問題もない。一人分くらいならご飯もあるかな。


「ううん。大した用事じゃないから」


「そう?」


「あのね、ご飯食べてるところだったんだよね? まだお腹いっぱいじゃない?」


「それはまだ大丈夫だけど」


 この間のオムライス二つと比べればなんてことはない。そういえば遥華姉はさっきから後ろ手に何かを持っている。全然気がつかなかったけど何を持ってるんだろう。わざわざこんな時間に持ってくるくらいのものって何かあったかな?


「これ、作ってみたんだけど。湊ちゃんが最初はクッキー辺りが簡単だって言うから」


 遥華姉は背中に隠していたタッパーを見せてくれる。中身は確かにクッキーが入っている。入れているものにちょっと色気が足りない気がするけど、味には関係ない。中身をよく見てみると、ちょっと形が悪かったり焦げているものもあるけど甘い匂いが鼻腔をくすぐってご飯の途中なのに食べたくなってしまう。


「これを作ったの? 遥華姉が」


「そんな疑いの目で見なくていいじゃない」


「いや、ちょっとびっくりして」


 遥華姉の料理なんていつ振りだろう。玲様の家に行ったときも見ていただけで結局作ってはいなかった。そのくらい料理は苦手だって思いがあって避けてきたのに。どういう心境の変化だろう。


 僕は見せてもらったクッキーに手を伸ばす。食べないわけがない。せっかく遥華姉が作ってきてくれたんだから。ちょっと焦げていてもそのくらい気にすることなんてないんだから。そう思っているのに、なぜかクッキーは僕の手から逃げるように遥華姉の胸元へと帰っていった。


「え、くれないの?」


「あ、あげるよ。でもナオ、この前お嬢様に、その、あーんってされてたから」


「あれはその場の流れというか、差し出されたからつい」


 ただでさえ僕は玲様の言うことを聞かなきゃいけないのだ。それにあの時は全部食べるつもりでいたから差し出されたオムライスは僕が食べるものって思い込んでいたところもある。


「だから、私もやる」


「それは別にいいけどさ」


 遥華姉は一度引っ込めたタッパーの中から色がきれいな一枚を選んでゆっくりとつまみ上げた。その手を見ているとやっぱり遥華姉は女の子だ。この手が本当にケンカで無敗の人間のものなんだろうか。竹刀を握ったならまさに天下無双で一騎当千。夕陽ヶ丘の巨神兵と呼ばれ、誰もが畏怖し信奉する少女の手が僕の口に向けて少しずつ震えながら近づいてくる。


「は、はい。あ、あーん」


 手と同じように声も震えている。それが伝染して僕まで緊張してしまう。別に特別なことはない。玲様にだってされたじゃない。そう考えてもなかなか熱くなった頭が冷静に戻ってくれない。


 白い指触れないように端を少しだけかじる。表面からは見えなかったけど、裏側は焦げていたみたいで口に入れた瞬間に苦味が広がった。


「うん。おいしいよ」


「嘘だよ。今苦かったんでしょ。顔がちょっと強張ったもん」


 遥華姉は自分が持っていた僕の食べた残りを自分の口に入れる。そして僕のように隠すことなく顔をしかめて苦っ、とこぼした。遥華姉に僕の嘘は通用しないみたいだ。でも本当の気持ちもうまく伝わらない。どこからこうなってしまったのかな。

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