剣道着はいつも心に着せてⅥ
さすがの玲様もバイトで疲れているのか、今日は口数が少なかった。いつもなら僕にあれを着てほしい、と女装計画を話したり、うまく描けたイラストを見せてくれたりするんだけど、今日はちょっとうつむきがちに体を椅子に沈み込ませながらぼんやりと自分の手元を見つめている。
話しかけるのはちょっと悪いかな、と思いながら僕は真っ暗な窓の外を見る。街灯以外にほとんど光源のない田舎道では星がとても明るく見える。僕には見慣れているけど、都会ではこうはいかないらしい。
「今日、眞希菜と何を話してたの?」
「え?」
急に話しかけられてちょっと驚いてしまった。よく見ると玲様の頬はちょっとふくれている。疲れてたんじゃなくて僕が眞希菜さんと話してたのが気に入らなかったみたいだ。おもちゃをとられた子どもみたいでちょっと可愛く思えてしまった。
「眞希菜さんって高校行ってないんだって。その辺りの話をね」
「そうなの。まぁ、そういう人間もいるわ」
「うん。料理の修業をしてるんだって」
玲様の声が少し明るくなる。今日はあんまり話してなかったからなんとなく不安だったみたいだ。そんな風にされると玲様が本当に僕のことが好きなんじゃないかと錯覚してしまいそうになる。あの遥華姉の何気ない一言は僕にいろんな影響を与えているみたいだ。
「そういえばなんで玲様は漫画を描こうと思ったの?」
「どうしたのよ、急に」
「いや、みんなちゃんと目標を持っててすごいなぁって思って」
何も考えずにみんなについてきた僕としてはちゃんと自分の歩く道を選んでいるというだけで何倍もすごいと感じてしまう。それをどうやって見つめてきたのかを聞いて少しでも近づけたらって思うんだけど。
「そうね。せっかくだから話してあげるわ」
玲様は少し考えた後、僕の方をまっすぐに見た。変なことを考えていたせいでちょっと顔が熱くなってきている気がする。玲様にはそれがわかってしまうだろうか。
「ねぇ、直。お金を稼ぐってとっても大変ね」
「え、うん。そうだね。お仕事だからちゃんと結果も出さないといけないし」
勉強や部活みたいにただ頑張っていることだけで評価してもらえるわけじゃない。努力もしないといけないけどちゃんと役に立っていないといけないのだ。そうなると考えなくてはいけないことだって増えるし学校生活とはわけが違ってくる。
「ねぇ、直は子どもの頃に親に買ってもらえなかったものってある?」
「そりゃたくさんあるよ。うちは庶民なんだから」
当時流行っていたおもちゃやゲームソフト。テレビで見た都会のテーマパークのチケット。近所のお兄さんからのお下がりだったのが嫌で新品が欲しかったソプラノリコーダー。
挙げればきりがないだろう。僕だって少しは大人に近づいて、物を大切にすることや家の経済事情なんかも理解してきて、それは必要なことだったんだって今なら思える。欲しいと言ったところで家にあるお金は決まっているのだから無い袖は振れないのだ。
「私はね、ほとんどないわ」
玲様はそう言った小さく笑った。自慢しているわけじゃない。寂しそうな自嘲気味の笑顔だった。欲しいと思ったものはすぐに周りが用意してくれる。それが玲様にとってはずっと普通のことだったのだ。
「あぁ、でもベッドとフローリングの部屋は買ってもらえなかったわ」
「それは僕もだよ」
玲様がこんな冗談を言うなんて珍しいな。確かに玲様の部屋は僕と同じく畳部屋だった。広さは全然違ったけど、今は漫画の道具で溢れていることだろう。
「幼稚園の頃にね、絵のコンテストがあったのよ。その頃から絵には自信があって、私は金賞がもらえると思って描いたわ。でももらえたのは銅賞だった。金賞が欲しい、って駄々をこねてお父様とお母様を困らせたの」
「銅賞でも十分すごいのにね」
僕も似たようなことを考えた経験は何度もある。さすがにねだったりはしなかったけど、遥華姉ばかりがトロフィーをもらって、僕は参加賞の小さなメダルしかもらえなかった。それは実力が足りないからだってわかっていたけど、やっぱり遥華姉が羨ましかった。
玲様はぼんやりと窓の外に目を移した。市街を抜けて車は田んぼの間を走っている。この視界いっぱいの土地のうちどのくらいが中条の家のものなのか、僕もよく知らない。ただでさえ田舎の境界線は曖昧で、山みたいに普段行かない場所だと地主本人すらわかっていないことも珍しくない。
「そのときに私は初めて欲しいものはなんでも簡単に手に入るものじゃないって知ったわ。才能と環境と努力。たくさんのものが必要なの。でも環境と努力は自分の力で変えていけるわ」
玲様は真剣な顔に変わっている。こんな表情もするんだ、とちょっと感動してしまう。僕はまだ玲様のことを全部知っているわけじゃない。湊さんは玲様のことを妹みたいって言っていたけど、今の玲様は間違いなく僕より先を行っている先輩らしい顔をしている。
もしこの顔を僕にしか見せていないのだとしたら、それはとっても誇らしいことだと思う。玲様が僕にだけ見せてくれる表情がある。それは玲様にとって僕が特別な存在だという証明でもある。それがどんなものかはまだわからなくても。
「漫画の主人公はね、どんな苦境でも逆風でも構わず成し遂げるものなの。それに比べたら私はなんて甘い世界で生きてるんだろうって思ったのよ。だから、自分もそんな世界を描いてみたい、って、そう思ったの」
玲様はいつもにも増して
「なんだかもっと玲様のこと応援したくなったよ」
「そう素直に言われるとなんだか調子が狂うわね。まぁいいわ。まずはバイトをしっかりやらないといけないわね」
「うん、頑張ろう」
玲様は目を丸くして僕を見ていた。協力的な僕はそんなに珍しいものだったかな? 女装は嫌だけど他のことは結構付き合いがいい方だと思うんだけどな。
「直、ありがとう」
玲様がぽつりとこぼした言葉に不意を突かれた。答えが見つからなくて僕は黙ったままたった一度頷くことしかできなかった。
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