03.
次の日。また、明良に見送られ家を出ていく。
今朝の明良は泣いていた。時折、過去の記憶に苦しめられ恐怖に怯え泣くのだ。そのときに、千尋がいると安心できるらしい。見事な相互依存だった。
強行犯係には、権像はおらず、昨日はいなかった青年が書類書きをしている。その隣では槐もまたなにかを書いていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
青年は、真面目を表現しろと言われたら、一〇人中一二人がそうするであろうというくらい隙のない表情、所作である。机の上もきちんと整頓されていてある種の異様さを発していた。
「なにか御用ですか?」
千尋がその真面目オーラに気圧されていると、訝られた。
「は、はい。昨日からこちらに配属された、神崎千尋心理技官です。よろしくお願いします」
「ああ、美作犯罪心理学研究所の方ですか。私は、美里署強行犯係に配属されてます
警部補? どう見ても自分と同じか若いようにしか見えないこの青年が係長と同じ。ということは、国家公務員一種に合格したのだろう。つまりは、この青年はキャリア組ということか。
槐に目をやると、もうすでに疲労していた。昨日の夜は当番だったんだろうか。それとも、生瀬のせいなのだろうか。現場の叩き上げとキャリア。確かに食い合わせは悪そうだ。
「どうしました?」
顔は能面のようだが、表情は豊かそうだ。わずかだが今も疑問を持った表情を一瞬見せた。表情が硬くても案外素直な人間は多い。生瀬もそうなのかも知れない。
それらは順次わかっていくだろう。それよりも少しでも早く職場に馴染み、自分を覚えてもらわなければ。
「いえ。お若いのに警部補ということに感心してしまいました。改めて、未熟者ですがよろしくお願いします」
ぴしっとしたお辞儀をする。敬礼の類ではなく、純粋に日本人としての挨拶として。それを見て槐が口を挟む。
「おいおい、真面目って感染するのか? それとも増殖するのか? あまり堅苦しいのは勘弁だぞ、神崎」
「自分はそんな真面目ですか? あまりそのように言われたことはないのですが」
「そうなのか? 一瞬警部補殿が二人になったかと思ったぜ」
「槐巡査。貴方の方が認識を改めるべきでは? 彼は常識的に振る舞っているだけですよ?」
「わかったわかった。口を挟んで悪かったよ。それより書類は出来たのか? 引き継ぎが終わらないと帰れないんだが」
「申し訳ありません。まだです」
生瀬は、慌てる様子もなく自分の席に座ると書類を書いていく。
なるほど。真面目イコール仕事が出来るという訳ではないのか。人間らしさを感じて安心感を感じる。
が、その内容に対する書き込む早さを見て、出来る人間の遅いは出来ない人間の最高速度より速いということがわかった。
人種が違うのだろうな。などと思った。彼はもしかしたらこの先、日本の警察を背負って立つ人間かも知れないのだ。
そんなことを思いながら席に着いた。その瞬間、後から丸めた新聞でぽこんと叩かれる。
「おまえさん、そいつは良くない考えだぞ。あいつもおまえさんも同じ人間だ。違うといって片付けるのは停滞を引き起こす」
千尋の背筋にぞっとしたものが走った。
「け、権像さん」
「お、呼び方がわずかにフレンドリーになったな」
「あ、すいません、権像巡査長」
「なんだ、いいんだぞ、権像さんで。なんなら、ろくちゃんでもいいくらいだ」
「え、ええっと」
千尋はたまらなくなって槐の方を見る。槐も顔を上げてこっちを見ているが、楽しんでいるように思えた。意趣返しと言わんばかりにも見える。
「そ、そうですか」
千尋は固唾を飲み下した。今、自分はものすごい緊張している。ワイシャツの首回りを換気こそしないが、喉が渇き、心拍、呼吸が浅く速い。手の平も若干湿ってきている。
「これが、パーソナルスペースを侵された人間の気持ちだ」
すっと、身を引く権像。それにあわせて身体もすっと軽くなった気がする。
「こういう形でプレッシャーを掛けることも出来る。覚えておけ」
「は、はい」
遅れて汗がどっと噴き出す感覚。あまり気持ちのいいものではない。
「いきなりとは相変わらず厳しいですね」
槐が権像に懐かしそうに声をかける。
「そうだ。大事な預かりものだからな。万が一にも平々凡々なやつになられたら俺の信用は一気に粉微塵だ」
「オレはそんなこと言われませんでしたよ。羨ましい限りだ」
まったく羨ましそうじゃない口調で言われても。そんな言葉を口に出来ない。礼儀もあるが、豆腐メンタルである影響の方が強かったりする。
「なに言ってんだ、さぶ。おまえは俺が指導しなくてももう充分にイカレてたろうが」
「おっと、これはやぶ蛇だ」
槐は、わざとらしく首を亀のように引っ込めた。
自分は一体どこに向かっているのだろう。激しく不安になった。
「なあ、おまえさんもそう思うだろう?」
権像の標的が自分に戻ってきた。
「え、いや、その、個性的なのは伝わってきますけど……」
「神崎。いいことを教えてやる。個性的は褒め言葉じゃないからな」
槐の言葉はどこか投げやりである。
「す、すいません」
「オレは好きだけどな」
だけど、そういって相好を崩すのだった。それには、不思議な魅力がある。
「槐巡査、書類書き上がりました」
「おう、ようやくか。待ちくたびれたぜ」
「その歳になると、椅子に腰掛けてるだけで腰に来るもんな。あれ、痔だっけか?」
「ろくさんほどじゃないですよ。それと、オレは痔じゃないです」
「がっはっは。どっちでもいいやな。お疲れ。ゆっくり休め。そして、また俺の分も働いてくれや」
「ろくさんの分は、今度は神崎がやってくれますよ」
ようやく、自分の席で落ち着けるかと思ったらとんだ飛び火をしてきた。いきなり自分の名前が上がるとは。完全に油断していた。
「ああ、そうだったな。これだから歳をとるといけねえ」
ぺちんといい音をおでこが立てる。
「そういうわけだ、頑張って働いてくれや」
「は、はい」
心中は波立っていて、穏やかではなかった。思わず相手に快い返事をしてしまう。しまったと思ったときには、もう手遅れだった。
「大丈夫だ。神崎。おまえさんに拒否権はないんだからな。その返事で正しい」
そう権像に心を読まれる。確かにそうだ。警察は完全縦割り。先輩、上司からの命令にノーという答えはないのだ、と千尋も考えていた。
「ろくさん、新人を脅しすぎですよ。それに神崎は心理技官であって、正式な警察官じゃないんですから」
「わかってるぞ、それくらい。だが、郷に入っては郷に従えという言葉もある」
「ろくさんには、敵いませんよ」
槐が助け船を出してくれそうだったが、あっさり引っ込んでしまった。
「やります。身の丈に合ったことから順々に」
それを聞いた槐が立ち上がって出口の方を向いたのに、また千尋の方を見た。
「その意気込みはいいが、違うぞ。身の丈に合ってなくてもやらなきゃならん。それが仕事だ。助けを求めてくる人たちにとって、オレもおまえも同じ警察官なんだ。ベテランとか心理技官とか関係なくな。……フォローは出来る限りするが、頼られても困る」
「はい……」
厳しい言葉だった。豆腐メンタルの千尋にはきつい言葉だ。でも、現実なんだろう。少なくとも槐の顔、仕草に軽蔑も嘲笑もなかった。真剣に千尋を思ってくれたのだろう。ありがたいが、とても重いことだと思った。
「じゃあ、奮戦を期待する。頼んだぜ、生瀬警部補先輩」
そういって、槐は生瀬の肩に手を乗せた後、帰っていく。
わずかに、生瀬の表情が引き締まったように見えた。
昼過ぎに、一組の男女が刑事課に連行されてきた。
男の方は、いかにも粗野という顔立ちで、一般人にしては迫力がある。実際、緊張した視線で見ていたら、思いっきり睨まれた。ものすごく怖い。その過剰な装飾品も迫力に一役買っている。
女の方は、厚化粧をしていて、きつい香水のにおいと微かなタバコのにおいがしており、いかにも水商売をやってますという雰囲気を身にまとっていた。
「どうしたんだ?」
権像がタバコをくわえたまま、連行してきた制服組の地域課署員に聞いた。
「美人局ですよ」
「ほう。じゃあ、管轄は盗犯係か?」
「いえ、こっちのやつが、被害者を殴ってしまったので暴行容疑もあります」
「け、また面倒かけてくれるぜ」
権像がタバコの火を消し、首と肩を回す。それらは、十年ぶりくらいに動かしたような音を立てた。気怠げに立ち上がると、取調室の扉を開ける。
「女はそっち。男はこっちだ」
刑事課にある二つの取調室にそれぞれ振り分けられる。女の方は、盗犯係の女性刑事が担当することになった。
乱暴したとか、人権を無視されたとかの苦情の回避や、いわゆる「面倒見」と言われた容疑者と刑事の間の物のやりとりなどを監視するために取調室の扉は開けたままで行うらしい。
なにもかもが新しい、初めてだらけだったが、誰も千尋に説明をしてくれる者はいなかった。聞ける雰囲気でもない。ただ、権像が千尋にも取調室に入るように視線で促してくるだけだった。
緊張した心持ちで取調室に足を踏み入れる。昨日はよく見ることが出来なかった室内を見渡した。スチールの机一つパイプ椅子が二脚中央に置かれ、角には小さな机と椅子が置かれていた。
容疑者の男は、椅子に浅く腰掛け、大股開きで背もたれに身体を預けている。昨日のケンカの男と同じ態度。これは、自分の縄張りを少しでも大きく見せようとする主張行為だ。このような場では、威嚇すら含まれる。
確かに、千尋はわずかに鼻白む。それを見た権像が、上腕を軽く叩いた。それで、ずいぶん重圧が薄らいだ。千尋は、恐怖や驚きは顔に出る。訓練はしているが、消せない部分というのは残っていた。
権像も正面の席に着く。重心は、椅子の真上くらいか。手は机の上に見せている。千尋は取調室入り口に立って、その姿を後から見ているので、権像の表情は見えない。
だが、背中や雰囲気からは、だらだらと仕事している普段とはまったく違う印象を受けた。他に助けてくれる者がいないというのもあるだろうが、権像の存在の頼もしいことこの上ない。
「なにやらかしてここに来てるのか自覚はあるのか?」
「知らねえなぁ」
男は、権像に視線を合わせようとせず、左上の虚空を見つめていた。
「なあ、美人局ってどうやるんだ?」
「さあね。やってないからやり方もわからないなぁ」
「そうか、神崎、辞書」
「え? あ、はい」
急いでデスクに戻って辞書を持って引き返す。
「美人局。男が妻や情婦に他の男を誘惑させ、それを種に相手の男から金品をゆすりとること。ということらしいな。で、おたくは、会社員の男性を殴った、と。間違いないか?」
「ああ、殴ったのは認めるが、正当防衛だぜ。あの男が人の
「正当防衛ね。神崎、辞書。正当防衛。急迫・不正の侵害に対して自己または他人の権利を防衛するためにやむをえずなした行為。だそうだ」
「だろう? おれの権利が侵害されそうになったんだよ。おれはあんたらに怒られるようなことなんてなにもしていない」
男が勝ち誇ったように、侮蔑の笑みを口元に一瞬浮かべた。
「それで、会社員を三ヶ月の重症を負わせたのか?」
男の表情が一瞬止まった。緊張が走ったのがわかる。目が若干泳いで、自分のしたことがよろしくないことであるというのを顔で語っていた。
「それともう一つ。おたくは、会社員の男を正当防衛で殴った。じゃあ、なにをしてここに連れてこられてるかは自覚があったわけだ。つまり、おたくは嘘をついたわけだ。虚偽の証言をしたってことだな。そいつは、『軽犯罪法の第1条で虚構の犯罪または災害の事実を公務員に申し出たものは、これを拘留できる』に該当する。簡単にいうとブタ箱にご宿泊できる」
千尋は、驚いた。目が若干見開く。
「美人局はしていなくても、偽証罪と過剰防衛で反省の時間は与えられるな。どっちが長いと思う?」
男は言葉をなくしていた。
しばらく、取調室に沈黙の幕が下りる。千尋は、そのせいですごく息苦しかった。男は、なにも言わず、身体は開いたままうなだれている。
「さて、どっちがいい?」
権像がおもむろに自白を促した。
「……やりました。美人局を企みました」
「そうか。じゃあ、詳しく聞かせてくれ」
後は、男が余罪などを話して終わり。その調書を千尋が作ることになる。慣れないながらなんとか書き終えた頃には夜の帳が降り始めていた。
「権像巡査長、これでいいですか?」
「おう、オッケーだ。おつかれさん」
何回目かのダメ出しの後、ようやく認められた。
「わかったか? あそこが俺とおまえさんの戦場だ。戦い方は今一つ教えた。徐々にだが、全部覚えてもらう」
「権像巡査長は、なんだかんだ言って面倒見がいいんですね」
「そうか?」
「はい。この書類が書き終わるまで指導してくれてるじゃないですか」
「おまえさん、危ないな。これは、面倒を見てるんじゃない。終業までの時間を潰してたんだよ」
そういったとき、時計が五時を回った。権像は颯爽と吸っていたタバコをもみ消し席を立つ。
「でも、お見事でした。さすがですね。刑法にも詳しいなんて」
「ああ、あれか。あれは嘘だ。警察の取調べで嘘をついても罰する法律なんてない」
千尋は、理解が出来ずぽかんとしてしまう。
「口を割らすために、揺さぶりをかけただけだ。あるものは親でも使えってな。そんじゃ、また明日」
嘘? また? 昨日の架空の法則とは性質が違うように感じる。千尋は驚きを禁じ得なかった。
確かに、犯人は美人局と暴行の容疑を認めそれ相応の罰を受けることとなったわけだ。それは、正しいことのように思える。でも、手段に納得は出来ない。
なにか、言い得ぬ不安が胃の底に溜まっていくような感覚がした。自分がなにかとんでもない場所に来てしまった、そんな気がする。
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