神崎千尋は嘘をつく

終夜 大翔

00.

 静かなときが流れていた。

 温かいなにかに包まれ、ゆったりと夢と現実の間をたゆたっている。

 その心地よい空間が一瞬にして冷えて寒くなった。安心感も一緒に吹き飛ぶ。なにかに急かされるように、逃げるように、閉じた目を強くつむった。その顔は苦悶に歪んでいるように見える。すぐに脳は、意識を現実に結びつけた。

 大きく目を見開く。すぐさま現実を確かめた。眼だけで左右上下を確認する。隣で寝ていた幼なじみの姿がない。

「寒い」

「あ、起きちゃった?」

 スエットにジャージ姿の幼なじみ・大多明良おおたあきらは、神崎千尋かんざきちひろに向かってそう尋ねた。

「気にするな。いつものことだから」

 目覚まし時計を確認しながら、答えた。本来ならこんな偉そうな口を利く権利はないのだけども。時間は、六時過ぎだった。

「本当、敏感よね。ちょっと、トイレに行こうと思っただけなのに」

「我ながら困ったものだ」

 肩をわざとらしくすくませた。

 ここは、千尋の一人住まいのアパート。明良とは、特別な関係だが、男女の仲としての特別な関係ではなかった。

 奇妙な関係と表現した方が相応しいだろう。

「で、今日の睡眠は充分ですか? 心理士さん?」

 トイレから出てきて、明良が確認する。

「ああ、充分だ。それから、オレは心理士ではない。心理捜査官見習いになる」

 ここで、ありがとうと言えればなにか違うのかも知れない。でも、相手は四つのときからの腐れ縁である。向こうも無理に言葉にすることを求めてこないし、なんとなくわかった気になっているようだ。

 感謝はしていた。彼女がいなければ、満足に眠れない日が続く。

 神崎千尋という男は、特別な体質であるがために、精神に不調を来たすことがままあった。薬で眠るという方法ももちろんあったが、明良と眠るのが一番身体にも精神にも優しい。

 だから、今年で二四歳にもなるのに、一緒に寝てるだけの関係なのだ。外から見れば仲むつまじいカップルに見えるだろう。だが、そこに性的関係は一切なく、千尋はただ添い寝をしてもらっているのであった。

「朝は、なに食べる? 作るよ」

 千尋は、エプロンを着ける明良をまじまじと見た。観察とか値踏みではなく、純粋に人として見る。

 明良は、器量良しの娘だ。マレットという、全体としてはショートカットだが、襟足だけ伸ばしている髪型をしている。その根本を今もゴムで縛ろうとしていて、首筋が露わになった。その首筋にエロスを感じている。感じているし、明良の大きくはないが、形の良い胸にも何度も頭を埋めてきた。女性としての意識はある。

 でも、彼女もまたそのまま関係を押しも引きもしない。千尋と同じように現状維持を望んでいた。理由は、わかっている。千尋は人間が怖い。それとは違う理由で、明良は、男を恐れている。

 ある意味、千尋としてはこの上なく不名誉なことかも知れないが、千尋はそういう対象ではないということだ。でも、今はそれでも良かった。なんだかんだ言って、千尋もまた明良との関係はありがたいのだ。

 お互い合意の上で、縋りあっているのだった。

「今日から、新しい職場でしょ? スーツは新調したし、朝ご飯も完璧なのを作ってあげる。だから、中身もしゃんとしてきなさい」

「ああ」

 生返事をする。だけど、千尋はしっかり風呂場に向かった。睡眠が充分であるのは、嘘ではない。ただ、惜しむらくは、明良の料理している姿をもう少し見ていたかっただけだ。

 千尋は、風呂場で熱めのお湯を頭から浴びる。今は、台所で明良が料理をしているため、いつもよりさらに熱い。

 でも、今日からは新しい職場への転属だ。不安と期待が同時に胸の中でまぜこぜになっている。その中から不安だけを取り出すには、熱い湯を浴びることは適切なことの様に思えた。

 風呂場から出ると、いい匂いが千尋の鼻孔をくすぐってくる。かりかりに焼けた厚めのベーコンと、とろとろ半熟の目玉焼きが目に浮かんだ。匂いだけで判断出来るのは、明良がいつも千尋の好みに合わせて作ってくれるからだ。

 お互いのことを熟知していると言っても過言ではない。食事の好みから、異性の好み、好きな芸能人に、好きな歌。色、センスなんかもつーかーの仲だと思う。

 昔、思っていた夢。抱いている希望に理想。そこら辺も何となく理解してるし、理解されていると思う。確かめたことはないが。

 頭を拭きながら、食卓に着く。

「親父さんたちは、なんか言ってないのか?」

「孫の顔はまだかー、って繰り返してるだけ」

「そっか。ご期待に添えなくて申し訳無いな」

 二人の仲は周りから見れば公認カップルで、明良の両親の受けも悪くない。でも、実状は全然違う。

「いいんじゃない? 他は他。うちはうち。男女の関係が恋人と友人だけなんておかしいよ」

 傷の舐め合いという関係もあるのだ。

「そうだな。オレは全然構わないよ」

 嬉しいとかありがたいとか、口には出せないけれど。

「……それとも、千尋はやれる女の方がいい?」

「そんなことはない。オレはこの関係に充分に満足してる」

 明良だからいいんだ、と言いたいけど言えない。これを言うと二人の関係は崩壊するかも知れないからだ。 

 男と女ではなく、神崎千尋と大多明良という関係。人には人の数だけ個性があり、カップルの数だけ関係の種類があっていいと信じている。

 だから、これは嘘ではない。

 嘘ではないのだが、引っかかるモノはある。それもまた自分たちの関係における個性だと思うようにしてきた。試行錯誤の結論として、これからもそうであれるか、心配なのだ。

 モノは始まれば終わりが必ず来る。有象無象関係なしに。自分たちはどういう終わりを迎えるか、一時期そればかり考えていた。

 だけど、今はあまり考えないようにしている。考えたって来るモノは来るわけで、ただ形が違うだけだという結論に至った。それでも、少しでも次につながる終わり方になるようには願っている。

「また、なんか考えてるの?」

「ん? いや、大したことじゃない」

「あんたは、豆腐メンタルなんだから、考えすぎない方がいいよ」

 表面を焼いただけのトーストにかぶりつきながら、明良が言った。

 豆腐メンタル。明良が千尋の心の強さを表現する常套句。自分でも自覚があるくらいメンタルは弱い。そうでもなければ、明良とこんな関係にはならないと思う。

「ホント大したことじゃないんだ。今日の赴任の挨拶を反芻してただけだよ」

「ん。そういうことにしといてあげる」

 明良は、ときどきこういう言い方をする。これではまるで千尋の嘘を見破っているといわんばかりだ。だけど、恐らくだが、明良は千尋の心を見透かしているときがある。

「おまえの方が心理士向きだよな」

「そう? わたしは、勉強嫌いだから」

 そういって、明良ははにかんだ。肩口から垂らした襟足をなでている。これは、不安を抱えている証拠だ。

 明良は、心理学に深い興味を持っていると思う。自分を救う手だてを求めて。男が怖い。この恐怖に打ち克つための知識と方法が欲しいと思っているはずだ。

 千尋と明良は、幼稚園から小学校中学校高校とずっと一緒だった。側でずっと見てきた千尋は、明良が勉強が嫌いではないことを知っている。

 ただ、食堂を営む親父さんが一時期体調を崩したので、家を守る為に調理師専門学校に進学し、調理師の免許を取ったのだ。幸いにも親父さんは、快復し元気に定食屋を続けている。そのまま明良は、そこの看板娘となった。

 元々、責任感は強い。少し緩い千尋には理解出来ないぐらいいろいろ抱え込んでいる。千尋はそれを遠目で見ていた。関心がないように振る舞いながらも、明良が倒れることのないように隣で見続けてきたのだ。

「あ、またこのニュ-スだ」

 パンを頬張りながら、テレビの電源を入れた。そこでは、三日前に起きた殺人事件の報道が繰り返されている。

「あんた、今日からこれに関わるの?」

「わからんよ、そんなこと」

 事件は、千尋たちの暮らしてる美作市の美里みのり区で起きており、千尋は今日付けをもってそこの警察署に赴任するのだった。 

「はい笑顔」

 とっさに明良が千尋に投げかける。

 すっと、千尋は顔に笑顔を浮かべた。

「うん、今日もいい感じに自然に見えるよ。あんたは誤解されやすいんだから気をつけなさい」

「ああ、わかってる」

 これも千尋の欠陥。千尋は喜怒哀楽を司る非錐体神経の一部に損傷があり、身体が感じた感覚や感情と表情が部分的に繋がっていなかった。

 だから、千尋は自分で意識して表情を作らねばならない。その勉強のために千尋は心理学を修めた。正確には表情学だが、日本でこれを教えているところは少ない。

 だが、奇跡的にも千尋の地元でそれを研究しているところがあり、その関係で大学にも講義に来ていた。千尋は、明良と離れずに学びたいことを学べたのだ。

 卒論もこれをテーマにし、大学に来ていた講師に師事し、つい先月まで院にいた。だが、そこを卒業する前に、講師の推薦があって、千尋は日本ではまだ数少ない公的な犯罪心理学研究所に所属することになる。

 ここは警察と公式に協力関係にあり、千尋はそこから心理技官として派遣されることになった。なので、今日からは、公務員であり、警察官であり、刑事なのである。

 警察官としての訓練も院にいながら受けたし、専門家としての勉強も怠ってはいない。事実、実績も一件だけだがすでに作っている。

 それでも、豆腐メンタルの千尋は表情には出なくてもとても緊張していた。外から見れば少し線が細いが、そこそこに整った顔立ちで精悍な表情に見える。その実、さっきから、箸でスープを飲もうとしていた。

 意識は、完全に今日の挨拶回りに飛んでいる。それを見て嘆息しながらも、微笑ましく明良は千尋を見つめていた。

「はい、微笑んで」

「お、おう」

 今度は、薄く上品に笑った。

「うん、良くできてるよ。わたし、あんたの笑顔の大半嫌いだけどね」

「ああ。知ってる」

 だから、普段千尋はあまり明良の前で表情を作らない。回りから見れば実に仏頂面な彼氏なのだろう。でも、本当の気持ちは明良には伝わっていると思う。だからこそ、千尋は自分に明良の前だけでは嘘をつかなくていい。

 それが、千尋にとってどれだけの救いになっていることか。その価値を具体的に表わそうとすることさえ失礼になると思っている。

「着替える前に、頼む」

「はいはい。本当にお豆腐ね」

 呆れながらも、明良は震える千尋を抱きしめた。

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