第九夜*御恩と奉公と、義理と人情*

 笹浦駅前交番。

 日没間近の午後五時前。辺りの外灯が無ければ足元が見辛いほどの、早すぎる冬夜が訪れようとしていた。下校途中の学生諸君で溢れ、不審者の数が増える危険傾向の中で帰宅する姿が多く見受けられる。


 そんなあやぶまれる環境下には、警察官の信太郎の瞳が交番外へ向けられていた。


――「あ、信太郎おじさんだぁ!」

――「こんばんは~! 信太郎おじさん!!」

――「こんばんは~。今日も疲れたよ~」


「おぉこんばんは、みんな。今日も学校お疲れさんな。暗くなるのが早いから、家まで気を付けて帰るんだぞ? いいな?」


――「「「は~い!!」」」


 小学生たちから気軽に声を掛けられるほど、名は老若ろうにゃく男女なんにょ問わず知られている。

 ただそれも必然的な現実だ。ほぼ毎日、交番から身を出して市民を見守っているからである。事件事故の知らせ時にすぐ飛び出していく姿は無論、時には悩める学生たちの人生相談相手にもなり、卓越した人間性に信頼が寄せられている。



『――子の悩みを放っておけるほど、オレは人間できてねぇからな』



 腰に手を当て、薄夜空を見上げた。今宵も澄み渡る天には白く落ち着いた月と、逞しきオリオン座が浮かんでいる。


「センパ~イ! 署への報告書完成しました。チェックお願いします」

「おぉ児島。どれどれ~……」


 交番内で作成中だった秀英に渡され、早速報告書の推敲を始める。訪問者が比較的多い駅前という場所に加え、まだまだ警察官成り立てで間もない後輩だ。背の高さは大敗しているが、先輩としていつもチェックを漏らさず行っている。


 甘やかすことなく厳しい目付きで、誤字脱字並びに言葉遣いを注視していくが、やはり秀才者には小さなミスも見当たらず、自分のことのように嬉しい。


「問題ねぇな。このまま署に持ってけば大丈夫だ!」

「ありがとうございます、先輩!!」


 陽も射すことがなくなって完全な冬夜を迎えたが、秀英の喜ばしい一声にも援助され、交番の灯りは負けず増していた。


「それにしても先輩。最近は事件がめっきり減りましたね。まぁおかげさまで、報告書もすぐ書き終わって助かりますが……眠気との戦いになりそうですね」


「そうだなぁ。でも、眠気なんかに負けたら、警察官務まんねぇよ」


 これから朝の五時までの夜勤だが、信太郎にとって眠気など門前払いである。エネルギッシュな身体と心構えぐらいしか取り柄がなく、勤務中の居眠りなど御法度だ。


「もう少しで年越しかぁ……へっ。結局今年も、一人のままで終わっちまうんだろうなぁ~」


 つい一人言をオリオン座に飛ばし、自嘲気味に笑い肩を狭めた。

 実のところ、彼女という存在を未だに持った試しがない。結婚観や恋愛観がない訳ではなく、むしろ異性と共に過ごしたい気持ちが男心に根付いている。毎年一人の残念さがこの季節に押し寄せ、年々寒さが増している気がした。


「はぁ~……警察なんて、出会いの機会もねぇしなぁ~」

「あの、先輩?」


「ん? なんだよ児島?」

「あの……これは、ぼくの提案なんですが……」


 妙な間を空ける後輩が気になり、秀英へ太い首を傾げる。一体何に対する提案なのかと目が合わさった刹那、とんでもない考えがおおやけにされる。



「園越常海さんと、結婚してはいかがでしょうか?」



「は……ハァァァァァァアア゛!?」


 ず太い轟声が交番内を襲い、薄い窓ガラスが確かに揺れていた。


「オメェどういう意味だよ!? 常海を不倫におとしいれろってことかよ!?」

「まぁまぁ落ち着いてくださいって。だって先輩、常海さんと仲がいいではありませんか?」


「そりゃあ昔からの付き合いだからだよ!! テキトーなこと言ってっとシバくぞテメェ!!」

「こ、こわ~……」


 確かに常海とは高校時代からの知り合いで、結婚した今でも友だち感覚が続いている。が、同級生で親友との子持ち既婚者であることを決して忘れてはいない。


「……それに、常海さんには風真くんという、かわいい息子さんだっているんですよ?」

「それと不倫がどう直結すんだよ!? そこのやなぎ川に沈めんぞコノヤロウ!!」


 いつしかヤクザとも捉えきれない信太郎の悪台詞だが、それも致し方無い。

 道徳心を抱くべき警察官が、罪でなくとも世にゆるされない不倫を起こしてはいけない。相手が親友の既婚者であるだけに、熱い友情を重宝する男としてはあるまじき非道徳的行いと呼べる。


 まだまだ言いたげな秀英には呆れたが、少し落ち着いてきた信太郎は耳だけ傾けることにした。事務机の椅子に座り、頑固親父の如く腕組みで背を向けたが。


「母子状態の園越家には、健全な大黒柱が必要だと思いませんか?」


「――っ! ……ま、まぁ、それはわからなくもねぇけどよ……」


 声のトーンと同じように、背が徐々に丸まっていく。ポケットに両手を入れた後ろ姿は何とも儚げで、表情を見なくてもわかるうつむいた気持ちだった。


「常海さんだって、もう疲弊しきってるのは明らかだったじゃないですか? 今日の顔色、すごく悪そうでしたし」


「そうだな……。そりゃあ一人身で仕事と病人の面倒やってたら、寝るもねぇだろうよ……」


 日中、笹浦国立病院へ出向き会った常海の目下には、遠くから見てもわかるほど隈が濃かった。秀英の言葉は残念にも真実で、信太郎の瞳がまぶたの闇に覆われる。


「それに風真くんだってかわいそうじゃありませんか!! あの歳で心臓病をわずらって……そんなあの子のもとに父親がいないだなんて……あんまりです!!」


 風真の話になった途端、秀英の声に鋭利が増していた。父親不在をここまで否定する彼からは、一種の家族愛を受け取れる。辛いときこそそばにいてやり、くじけそうなときには応援してやるのが父親だと示さんばかりに。


「そうだな……でもよぉ~、風真の親父は、岳斗だ。他人のオレなんかには務まんねぇよ……」


 信太郎の声はどんどん静寂に移ろいでいくが、ふと背後から舌打ちを鳴らされた。思わず顔を上げて見えた窓ガラスには、やはり秀英の怒れる眉間のしわが反射され、先輩後輩の関係を無視した睨みに襲われる。


「児島……」

「お、御言葉ですが! 先輩はどうしてそこまで、園越容疑者に肩を貸すんですか!? れっきとした犯罪者なんですよ!? それも家族を置いていく、非情なヤツなのに!!」


 有頂天うちょうてん気味な秀英から、明確にも見下ろされていた。しかし、彼の生立ちを考慮すれば、極めて自然な感情の訪れだと知っている。



『――児島の家族は、殺人強盗犯に襲われたんだもんなぁ……』



 先日の警察署内で行われた会議でも挙がっていた事件――連続殺人強盗事件における一人の被害者が児島秀英。故に罪人を心の底から嫌悪している。


 どんな理由であれ、罪を犯した者を決して許さない。


 勧善かんぜん懲悪ちょうあくを胸に深く刻んでいる彼だからこそ、罵声をぶつけてきたのだ。振り返って実像を窺う勇気もなく、背凭せもたれに身を委ねる。


「児島……」

「どうしてですか、先輩……? どうして、悪を尊重するんですか? ぼくには、意味がわかりません……」

「ゴメンな、児島。お前の正義感は、絶対に間違ってねぇよ。絶対に……」


 音量は下がってきた秀英だが、反射された両拳が震えを放ち、憤怒ふんぬから解かれていなかった。大切な家族の命を、理由もなく奪われたのだ。そんな気持ちなど、平凡な未経験者が踏み入れてはいけない底無し沼である。


 しかし、信太郎にも貫く想いがある。


「なぁ、児島。ちょっと昔話に付き合ってくれよ……」

「昔話……?」


 話の流れに相応ふさわしくない発言には、首すら傾げないまばたきを返された。が、信太郎は後ろ姿を保ったまま口ずさむ。


「県内最弱ともバカにされた、笹浦二高硬式野球部。そこに、岳斗と常海、そしてオレはいたんだ……」


 十五歳の高校一年次。中学では軟式野球部に所属していた少年は興味本意で硬式野球部に入部した。期待のキャッチャー志望者ともうたわれ、入部早々スタメンマスクを被ることにもなった。

 晴々しい高校デビューを迎え、願わくば甲子園出場とまで高き目標まで掲げたのを覚えている。

 心の旗が無情にも折られてしまうまでは。


「でもそこはオレの想像と違って、愛好会みてぇな部でよ~。バイトで練習休む連中もいたし、テスト二週間前になったら誰もグランドに出やしねぇし、ボールすら触らねぇヤツばっかでさ。意識の低さなら、どこの高校にも負けちゃいなかったと思うぜ……」


 高校球児なら誰もが経験する過激な練習など覚えがない。かさつく寒い冬場は無論三月までオフ期間、熱中症の危惧される夏場は午前中三時間だけで、活動時間の短さが意識の低さと相関していた。


「そりゃあ試合なんか一勝もできなかったよ。それもほとんどコールド負けでさ……。まぁ唯一、九回までやり抜けたのは、引退が掛かった最後の県内予選だけだったな……」


 甲子園出場最後のチャンスとなる、県内予選の一回戦。しかし三年次を迎えてもなお、笹二野球部内の低俗な空気は続いていた。


 打球よ、こっちに来るな。

 試合なんか早く終わってくれ。

 早く受験勉強に切り換えたい。


 キャッチャーであるが故に守備人やベンチ全員の顔が見える信太郎には、そう聞こえてならなかった。気づけば周りに流されて声が出ず、構えるべきミットが俯こうとしていたときだった。



「そのとき、エースで四番で、キャプテンの岳斗だけが、最後の一瞬まで力を注いだんだ……まぁ、勝てなかったけどさ」



 たとえ仲間の誰かが打席で三振しても、また誰かが守備でエラーをしても、チームの主役だった岳斗はいつも鼓舞していた。


“「諦めんな! ラスパだぞ~!!」”


 チームプレーを重視した輝かしい姿を、バッテリー同士の信太郎はいつも目に焼き付けられた。大量リードされてもひるまず、ひたすら全力投球し続けた活躍ぶりまで。

 しかし、儚くも引退試合になってしまったのが現実だった。


「それで試合が終わると、みんな喜んでたっけ。これで明日から暇な時間ができるってさ……。でも、一人だけ泣き崩れてた岳斗は最後、みんなにこう言ったんだ……」


 あの瞬間頭を下げた岳斗からの一矢が、今でも胸に突き刺さったままなのだ。



「“勝つ楽しさを教えてあげられなくて、ゴメン”ってな……。アイツはマジで、チームのために躍動やくどうしてたんだ……」



 チームの大黒柱を示すキャプテンだった。とはいえ、もともと雰囲気に欠ける県内最弱硬式野球部だ。チームへの責任感など生まれる方が不思議で、反って身を滅ぼしかねない。

 それでも、岳斗はボロボロになってまで勝利を求めた。出会えたチームのみんなのために。


「挙げ句の果てに、岳斗は右肘を壊してたんだと……。ピッチャーにとって必要不可欠な利き腕を、オレたちザコ野球部なんかのために、捧げたんだよ……」


 活動無しの日だけでなく、練習が終わった放課後でも、こっそり別所で投げ込み練習をしていたそうだ。

 当時の信太郎も知らず、高校卒業後、マネージャーだった常海から初めて聞かされた。夜な夜な投げ込みを続けていたようで、結果的にはドクターストップまで掛けられる負傷者にちてしまった。プロを目指していた青年でもあり、大学でも野球を続けるはずだったが。


 これで長い昔話は終了だと語るように、信太郎は秀英に背を向けたまま起立する。


「要するにだ、園越岳斗っていう人間は、誰かのために身を滅ぼす、呆れるほどバカなヤツなんだよ……。知ったこっちゃねぇんだよ、どんな想いでやってるとか……」


 相手が抱く想いを知らされたことで生じる罪悪感は、必ず時間に比例する。想いなど最初から言えば良いものの、なぜ後々になっておおやけにするのだろうか。いっそのこと、冥土めいど土産みやげとして持ち去ってほしいばかりだ。


「でも、そんな岳斗を見てたから、今のオレがいる……。アイツは、オレにとっちゃ恩人なんだよ……」

「恩人……?」

「あぁ。だからさ、オレはそんなヤツを……」


 するとようやく、実像の秀英に顔向けする。先ほどまでの怒れた表情は消え、瞳を合わせながら素直な想いを吐き出す。



「――容疑者と呼べるほど、大した勇気はねぇよ」



 驚いた目の見開きを見せられたが、発言の後悔など全くなかった。なぜなら園越岳斗とは罪人である以前に親友――いや、一人の恩人なのだから。


「誰かのために、全身全霊を掛ける素晴らしさを、岳斗は教えてくれたんだ。ちなみにそれが、オレが警察官になろうと決めた、志望動機でもある」

「誰かのために、全身全霊で……」


「あぁ。オレは別に、児島の罪人嫌いを否定してる訳じゃねぇ。あくまでこれは、オレ個人の、岳斗に対する考えだかんな」

「は、はぁ……」


 結局秀英には渋い了承で済まされてしまった。が、信太郎の表情には深夜にも負けない炎が灯し出し、太眉を立てた前向きさを顕にしていた。


 警察官として罪を許すつもりはないが、その人を憎むまでの復讐心は無い。罪人でさえ、今後があり未来があるのだから。



『――御恩を受けたら奉公すんのが、義理と人情だ。岳斗の未来は、誰にも渡さねぇよ……』



 それは最終回ツーアウト満塁で迎えた、一打サヨナラのラストチャンスと似た、恩返し精神だった。



 ***



 サンタ教習所。

 夜を迎えるまで実技演習を行った二十四班だが、今度は屋内での基礎体力特訓が始まろうとしていた。前回担当者のブリッツェンから告げられて来たものの、室内は何も見えないほど真っ暗闇に染まっている。


「……ここでいいんだよな、イブ?」

「いいんですか? いいんです! クゥ~!!」

「サッカーファンに怒られるから辞めなさい」

「ムムっ!」


 相変わらず世話役とは思えない発言に、岳斗は精神攻撃を真に受けてため息を漏らす。


――パシャッパシャッ……。


 突如として室内の照明が点灯し、再び不思議な景色を目にする。


「ん? ママチャリ……?」


 所々錆び付いた婦人用自転車が、ローラー台に載せられた光景だった。


「「ドモドモ~!! 基礎体力特訓場へ、よ~こそ~!!」」


 イブにそっくりな少女のかん高い声が鳴らされ、罪人たちの不審焦点が一致する。

 スポットライトが当てられた奥はステージの如く段差構造で、その上に声をふるわせたであろう二人が見受けられた。


 恐らくは今回の担当者に違いないのだが。



「――コンニチワオ~ン!! ダンサーでぇす!!」

「――コンニチワイ~ン!! プランサーでぇす!!」

「「――手と手合わせて! ダンサープランサーでぇぇす!!」」



『あ~あ……。これまた酷~い人選ミスだ……』


 こめかみを強く握りながら思ってしまった。

 今回担当になる両者は、小さなイブよりも幼さが観察される、うり二つな幼女たちだ。

 スーツ姿はもちろん、癖毛ありの緑ショートツインテールから身長、声の高さまで同等で、阿吽あうんの呼吸で踊り回る二人は双子姉妹のようだ。

 見分ける判断材料を示すのならば、赤いリボンを結んだ方がダンサーで、青のリボンがプランサーだ。


「「それでは皆さ~ん!! 早速基礎体力特訓をやりましょ~チャチャチャ!!」」


 何かと踊りながら落ち着けないダンサーとプランサーには、腹立たしさを覚えてならなかった。しかし、無理強いにも説明を聞くことにする。


 今回は、目の前の婦人用自転車に乗りながら行うそうだ。電動式ローラー台に合わせながらペダルを回し、時間が経つに連れてスピードアップが設定されているらしい。


 ところで、基礎体力特訓で使用する道具がなぜ自転車なのか。



「「本番当日も、プレゼントは自転車で配ってもらうからねぇぇ!!」」


「せめて原付きだろうが!!」


 罪人を代表して叫んだが、ダンサーとプランサーの前向きスマイルは顕在のままだった。


「もぉ~。ワガママだなぁ~!」

「ライトにブレーキ、それにギアまでついてるのにぃ~!」

「「ねぇぇ~~!!」」


「百歩譲って電動式だろ!!」


 まるで子どもの御使いではないか。

 箱詰め作業でも沢山の宛先を見た限り、本番当日は多件を回ることだろう。が、ダンサーとプランサーの陽気な考えに変化は見当たらず、悩ましいため息を吐いて特訓を始めることにした。


 まずはぎやすいようにイスを高く設定し、固定化してからペダルに足裏を載せる。軽く試乗してみたが、やはり一万円程度で購入できそうなギア付き中古自転車感否めない。

 聖は早くも整え、また望も深呼吸をしてから腰を預ける。

 一方で留文と芽依だが、


「芽依ちゃん大丈夫なの? さすがに危ないんじゃ……」

「今は、大丈夫。当日、危なかったら停めて……」

「う、うん……」


 と、何やら確認していたが、間もなくダンサーとプランサーによる開始宣告が鳴らされる。


「「それでは基礎体力特訓!! ミュージック~~スタートォォ!!」」


――ズチャチャズチャチャ♪


 ローラー台も稼働すると、なぜか大音量の音楽まで流される。どこの国のポップソングなのかわからないが、ダンサーとプランサーも踊り回る愉快な雰囲気もあり、漕ぐペダルが軽く感じられる。


『まぁ脚には自信あるし、これもやってのけてやろう!』


 スピードアップは連続的にほどこされるが、懸命ながらケイデンスを増やす。汗がひたいに浮かび、息も苦しいまでに荒れていくが、前傾姿勢を保ちながら一回り一回り強く踏み込んでいく。


――ズチャチャズチャ……。

「「ハイハイちゅ~も~く!!」」


 ローラー台は停止しなかったが、突如室内音楽がむ。ステージ上のダンサーとプランサーの間にはなぜか、マイクを持ったイブが訪れていた。これからライブが始まるかのように、スポットライトで身をきらめかせて。



「「こちらは本日の特別ゲスト~!! サンタアイドルのイブちゃんでぇぇす!!」」


「それでは、聴いてください……。“聴いてください”」



『わっかりづれぇタイトルだなぁ! 他に無かったのかよ?』


 ダンサーは踊り回り、プランサーに関しては踊り跳ね、ノリノリのイブライブを活気付けていた。

 ただ、幼女に美声は持ち合わせていないようだ。初聴でもわかるくらいに音程を外し続け、完全に彼女だけが楽しんでいる状況である。相手を楽しませることがアイドルの必須条件だとは、まだ知らないらしい。


「ハァ……ハァハァ……」


 スピードは立て続けに上昇し、もはや立ち漕ぎで挑んでいた。早急に酸素ボンベが欲しくなるなるほど喉が荒れ、脈打つ心拍数もハイテンポ。一端休憩の時間が早く訪れてほしいと、そう願った矢先である。



――ガシャガシャ、バタッ……。



 背後から突発的に、自転車が倒れた金属音と、また何かが地に落ちた鈍音が鳴らされた。背後を窺うと予想外の事態を捉え、すぐに自転車から降りて当事者に駆ける。



「――沫天!? しっかりしろ~!! 沫天ッ!!」



 悲壮な叫びを繰り返した岳斗に抱き抱えられたのは、自転車と共に地に倒れた望だ。過呼吸による痙攣が治まらず、意識すら飛んでいる緊急事態に直面した。

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