第五夜*人の数えかた*

 国立協同病院。

 笹浦市の中心地に立地された、五階建ての高く聳えた国立施設。傷病利用者は毎日と訪れ、二十四時間三百六十五日ずっとカウンターあかりがまない。

 一方で、めでたい退院者も続々と出口を潜ることができ、健康と笑顔を備えて社会復帰する姿が数多見受けられる。

 それは考えるまでもなく、たった一つの命のために、血眼ちまなこで労を担う医師や看護師のおかげだ。人が最期まで生きていくために必要な就職者のことは、もはや聖職者と呼んだ方が適切だろう。


 現在は日付が換わり十二月三日の、深夜の静けさ拡がる巨大病棟。五階の扉隙間から灯りが漏れた一室――501号室は本日も利用されている。“園越風真様”と標札が掲げられた室内には、今年緊急入院を強いられた一人の少年と、母親の影が床へ写像されていた。


「風真、寒くない?」

「大丈夫だよ、ママ……。病院のベッドは、あ~ったかいんだからぁ~♪」

「フフッ、それはもう古いでしょ」


 常海の柔らかな一声に、ベッド上で点滴を刺されたまま横たわる四歳の風真が、心電図の音に負けぬ微笑みで応答した。か細く弱々しい少年だが小さな魂の中には、光る元気が未だ残っている。

 望まれない入院が始まって以降、常海は毎日息子の目前へおもむいている。


「ママこそ大丈夫なの? すごく眠そうだけど……」

「大丈夫よ風真。ママは、どんなときも~♪どんなときも~♪元気だから」

「それ、いつの歌なのー? 古すぎてわかんなーい」


 愉快でほがらかに接し続けている常海だが、目下には明らかなくまが浮かんでいた。夜遅くまでの付き添いに加え、日中は生活費や入院費をおぎなうためのパート勤め。それを考えれば、多大な疲弊を隠そうとする行動事態おかしい。昨日も睡眠時間は三時間ほどで、ふと目を閉じれば気絶しそうなまでに追いやられていた。


 それでも、常海は風真を見るために、ひた向きに瞳を開き続けた。今の彼を見ていられるのは、母である自分自身だけなのだからと。最愛の息子を一秒でも長く目に映していたいと、包むような微笑みを絶やさぬ努力を重ねる。


「ねぇ、ママ……?」

「ん? どうしたの……?」


 すると、風真は白い天井に語るように仰向けに変わる。先程より頬の緩みが失せたように窺えたが、それも無理はなかった。



「――パパは、いつ帰ってくるの……?」



 思わぬ一言に絶句した常海までも、半開きの視線がベッドの脚に向かってしまう。こんな質問を受けたのは、父の岳斗が空き巣で身を潜めて以来のことだった。しばらく聞かれなかったと言えど、やはり四歳の少年が実の父親を忘れる訳などない。


「そうだね……。わからないなぁ……」


 正直常海としては迷っていた。岳斗を愛人であり、夫として捉えることを。どんな思いであれ、彼が罪を犯した人間ならば、やはり人として許してはいけない責務に駆られる。


「なんでー?」

「連絡もできなくてさ……パパが今、どこにいるのかもわからないの」


 仮に二人のカップルとして同棲していたならば、素直に彼を許していただろう。が、今の常海には風真という大切な息子がいる。父親が犯罪者などと辺りに知れ渡れば、復帰後の少年はイジメの標的になるに違いない。入院まで強いられた身には何一つ罪が無いというのに、懸念材料が増えてしまう。


「……風真はさ……パパに、会いたいの?」


 風真と岳斗をいっしょにしてはいけない気がする。皮肉にも、ずっとそう考え続けていた。


 今日までは……。



「――当たり前だよ。だってぼくのパパは、ぼくのパパだもん」



 純粋無垢な少年の素直さには、大人の常海もけいを評するあまりだった。恐らく風真は、岳斗が罪人であることを知らない。故に、まだ一人の父親として受け入れているのだろう。


「早くパパに会いたいなぁ~。そしたらまた、パパとキャッチボールやりたいんだ。でもまずは、ぼくが退院しなきゃだよね」

「風真……っ」


 微笑みを向けられた刹那、常海の瞳には息子だけでなく、熱い雫まで浮かび始める。今にも溢れ出そうに量が倍増し、口許を押さえて何とか堪えようと、いつしか努力のベクトルが変わっていた。


 親の消失で最も心に傷を負ってしまうのは、残念ながら血の繋がった子どもたちだ。少年少女にとって父母とは、大気圏内を捜索しても代わりが効かないほど唯一無二で、酷にも“大切にしろ”という世間的義務まで与えられてしまう存在なのだから。


 それでも一人の少年は心を父に預けていたのだ。罪人であるにも関わらず、たった一人の大切な父親として。



『――ゴメンね、風真……。わたしたち、こんな親で……』



 決して犯罪など犯していない常海にも、初めて罪悪感が生まれていた。父親の大切さを、息子に気づかされたために。


「……あ! ママ、見て。雪だよ」

「ゆ、き……」


 街並み映える窓に指差した風真に煽られ、常海の涙目にも確かに雪景色が窺えた。真っ暗な天から僅かにも降り注ぎ、少しの風で宙を舞って地に落ちる。


「きれいだなぁ~……あ、そっか。もうじき、サンタさんが来る日だよね」

「そうだね……。風真は、今年は何がほしいの?」


 共に向けた窓には二人の顔が反射される。


「うん、あるよ。でも、ママにはナイショなんだ~」

「え? ど、どうして?」

「ど~しても! エヘヘ~」


 結局聞けず終いになった。また次回なら教えてくれるだろうと苦笑いを放ち、再度窓の雪へ目を送った。豪雪には至らなそうだが、次々に白い煌めきが通り過ぎていく。発光体でもないのに、闇を照らしてくれくれるような、小さな結晶たちが。



『――ねぇ岳斗。早く帰っておいで。あなたのこと、まだ待ってる子がいるんだから……』



 笹浦市の街並みを包む雪の前で、常海は誰にも聞こえない心の底で、静かに呟いた。



 ***



 サンタ教習所。

 五人一組グループを作るよう命じられた罪人たちも次第にまとまり、孤立者がみるみる減っていく。

 岳斗も何とか五人の内一人になることができたが、決して無事に済んだわけではなかった。なぜなら新たに加わった一人――輿野夜聖のいびつな存在と出会したからである。


「オレはあくまで名目上だ。お前らと仲良く手を組んで、協力するつもりはない」


 眼鏡奥に秘められたクールさがより尖りを増し、もはや冷徹と称した方が正解だ。しかし規則やルールを破る者こそ罪人であると、同じ素性の岳斗は黙って見ているだけだった。


『グループなんて作っても、結局個人プレーになりそうだな……まぁ、仕方ないだろ……』


 気さくでチャラつく若き茶髪男――流道留文に、無口で目もくれない寡黙な中学年少女――路端土芽依に誘われたことは善しとしよう。

 しかし以降に加わったのは、ヤンキー感を見せつけ一人距離を置いている成人女性――沫天望に、今はっきりと反対意思を露にした輿野夜聖の二人だ。両者の存在がグループに不穏な空気を漂わせていることがいなめなかった。


「フン、グループはもう決まったんだ。オレは個室に戻る……」


 すると聖が赤衣装の背を向け、目の前から立ち去ろうと歩む。まるで同じ空気など吸いたくないと言わんばかりに、心の扉を閉ざして。


――「「ちょ~と待ったぁ~!!」」


 しかし聖の進行方向には、このグループのリーダーとも取れる留文と、いつしかコンビを組み始めたイブが、両手を広げてさえぎる。


「そんなこと言わずに~。ボクらと仲良くしようよ~聖」

「……」

「もぉ~ギンギラしちゃって~。さりげないな~」


『それがアイツのやり方なんだろ……』


 聖は相変わらずの無音だが、胸中で突っ込む岳斗。すると今度はイブがスイッチする。


「そうだよ聖!! アタシたちといっしょに、手と手繋いでハートもリンクしちゃおうよ!! 華麗に羽ばたく五つの心! yes!! ぷりきゅ……」

「……やめろ! 東映に怒られる!!」


 某子ども向け魔法少女アニメのタイトルが鳴らされそうになったため、岳斗は必死の思いでイブの言葉尻を被せた。空き巣として盗難はしたが、盗作まではしたくない。


 とはいえ、聖からは未だに声をもらえなかった。信じるに値しないメンバー集団であることは岳斗も自覚済みだが、正直彼からはあまりにもかたくなな態度だと捉える。


 上辺うわべだけでも良いではないかと思えたが、ふと吹き出し笑った聖はやっと、閉じていた口を開放する。



「――お前らは所詮、すうに過ぎない。マイナス要素を足されたり掛けられたりするなど、オレは大いに御免ごめんだ」



『うわぁ……。あいつ結構めんどくせぇかも……』


 恐らく理系男だと観察できる聖は嘲笑あざわらい、岳斗たちを上から目線の片足重心姿勢で挑まれた。


「ふ……フノスー……? ねぇイブちゃん、フノスーって何? 最近流行りのアプリとか?」

「それはグノシーじゃん留文。負の数ってのは、マイナスの数ってことだよ」

「なるほど~! イブちゃん頭いいんだねぇ!!」


『逆だよなぁ普通……』


 二十歳を思わせる若者が小学生低学年程の少女に、しかも中学レベルの教育を受けていたのだから。

 ウンザリ肩の岳斗は声にまで出す気力など無かったが、聖の発言は決して間違っていないように思える。



『――罪人なんざ皆、社会から外れた負の因子みたいなもんだからなぁ……』



 グループにいるのは計五人の奇数。それぞれの符号がマイナスならば、足し算は言うまでもなく、掛け合わせた結果もおのずと負。結局はマイナスはマイナスのままで、絶対値だけが伸びていくだけだ。


「だからオレは、お前たちと関わる思いなんてない。プレゼント配りの当日も、オレは個人で行動するからな……」


 聖による一声で、沈黙という居心地の悪い空気が否応いやおうなく舞い込む。望と芽依は相変わらずだが、元気満々だった留文も返す言葉が無い。説得という努力の結晶がみぞれになりかけそうだったが、イブが一歩報いる。


「そんなことないよ。だってみんなは今、人として生きてるんだもん!」


 聖から鋭く睨まれながらもおくせず、少女は仁王におう立ちで真剣眉を立てる。


「何言ってんだ? 自分の言った意味、わかってんのか?」

「おっ! やっぱ聖はロリコンじゃなさそうだ! ウケる~」


『どっちにしろウケるんかい……』


 ロリコンと称されたことを真面目に考えた己の、羞恥心しゅうちしんが増すばかりだった。が、微動すら発見されないイブは顕在で、身長差開けた聖と向き合い続ける。


「ねぇ聖?  アタシたちは人を、何て言って数える?」

「あぁ? 一人ひとり二人ふたりに決まってんだろ……」

「その通り!! 聖は頭がいい!!」


 いくら何でも小学生が、理系男性にかなう訳がない。説得などもう無理だと思いがらも、ニヤリと笑った少女が出す結論は、年齢不相応な解答だった。



「人はみんな、生きてさえいれば自然数なんだ! でも死んじゃったら、虚数きょすうになっちゃう……。だから、そこで初めて、マイナスが出てくるんだと思うよ?」



『――っ!? イブのやつ……何でそんな知識まで……?』


 明らかに高校レベルの内容――複素数が入り込んでいたのだ。一体どこで、彼女は高校数学の一部を知ったのか。実は小柄な成人女性だとでも言うのだろうか。


 見る目が徐々に変わる、アラサー男性の岳斗。またイブの台詞には留文や望も、そして芽依までもが顔を上げて反応を示していた。それはきっと皆、揃った思考だと意味した証明に違いない。



「――だからね聖! ここにいるみんなは、整数であってプラスなんだよ。足しても掛けても、ぜぇ~ったい! お得になるんだよ!!」



「……チッ。くだらん」


 聖は間もなくイブの前から去り、岳斗たちの視界からも、姿を闇の中へ溶かしていく。恐らくは、彼専用の個室に向かったのだろう。それはまるで、返す言葉も無くなり、論破された後の質問者のようだ。


「あ~あ……聖、ちゃんと聞いてくれてればいいんだけどね~」

「な、なぁイブ?」


 岳斗はイブの元に寄り、固唾を飲み込む。疑問だらけのサンタ幼女にも関わらず、つい瞳に怖い尖りを宿す。


「お前は、一体何者なんだ……?」


 誠心誠意の胸を張りながら尋ねてみた。もはや初対面時のイブの幼さなど、脳裏には毛頭残っていない。


 イブは一体何歳の少女――いや、いくつの乙女おとめなのだろうか。

 そもそも、イブはなぜこんなサンタ教習所に訪れているのだろうか。

 それにイブとは、もっと他の実名があるのではないのか。


 彼女の見た目と中身を知ってしまった今では、理解に苦しむばかりで不思議極まりない。その思いを全て包み込んだ言葉で、質問の応答を待ち構えていた。


「今さらなによ~? だから言ったでしょ?」


 するとイブは自嘲気味な笑いを放ち、戸惑い表す岳斗の目に焦点を当てる。



「――アタシの名前はイブ! 情けない大人だけどサンタをやる岳斗にとって、とぉ~っても頼れる世話役なんだよ!! エヘヘ!」



 ニッと白い歯を輝かせたが、またしても詳細情報を耳に入れることができなかった。


 しかし、聖が現れてから続いていた暗雲からは、光の粒と相似した雪結晶が降り始めたようで、少しばかりだが居心地が増した気がする。


『とりあえず、一件落着……なのかな?』


 不安要素が無いと言えば、それはたいへんな嘘になる。まだ一言も会話をしていない者さえいるチーム内は、やはり静夜の鐘が聞こえてくるほど。


 だが、流道留文と路端土芽依、沫天望に輿野夜聖、そして園越岳斗を入れた五人グループ結成は確か。後は本番の十二月二十四日の深夜――クリスマスイブまでに準備を重ねることだ。


 子どもたちに配るプレゼントは無論、同チームメイト一人一人との深い相互理解も含めて。

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