狭間の日常②
病院から川蝉は出る。体が酷く重い気分で、足がうまく動かないようだった。
前には駐車場と、手入れのしてある草木が生い茂る。
院内にある横断歩道を過ぎようとした時だった。
「険しい顔をしているじゃないか」
ねっとりとした低い声が聞こえてくる。覚えのあるものだった。
「…………」
川蝉が横を向くと黒業がいた。
相変わらずハットとコートで全身を黒に染めている。
服装だけでなく、存在そのものが不吉な男だった。
けれど川蝉には今以上に彼に会いたいと思った日はないだろう。
「一つ聞きたいことがあります」
「私からも話がある。キミには私と共にある場所に来てもらいたい。どうかな?」
「……わかりました」
「そっちの話は後で聞こう」
*
黒塗りの車に黒業と後部座席へ乗り込んだ。車内は心地の良い程度の軽い暖房で暖められている。
黒業が右手を上げると運転手はエンジンをかける。
病院の駐車場からそのまま発進するのだった。
東京だと言うのに自然豊かな車道をしばらく走っていると、黒業が口火を切った。
「キミの事情はだいたい把握している。妹さんのことだね?」
「……はい」
容態が良くないらしい。ここのところ小康状態が続いていたので川蝉も正直油断していた。だが元々爆弾を抱えているような状況だったのだ。来るときが来たと言われればそれまでのことである。
そしてもし手術をするなら後一ヶ月以内でなければ厳しいと宣告があったのだ。
ダンジョンでの稼ぎで少し光明が見えた先での出来事。
その分の落胆も大きかった。
「でもどうしてそれを?」
「優秀な人材のデータは最新のものを持っていたい主義でな。特にキミは私の中では上の上だ」
黒業はそう言って口の端を歪める。
「前回のダンジョン、よくやってくれた。あのレベルは我々も予想外の代物でな、正直あのメンバーでは完全に力不足だった。それでも攻略できたのはキミの力が大きいと言える」
「そうですか」
「それで今回、キミともう一人の新人に特別にプレゼントをあげようと思っていてね」
「プレゼント?」
「そう、新しいワンドだ」
*
車で一時間程走ると、目的の場所に到着したようだった。
こじんまりとした住宅街の中に目立たない施設がさりげなくある。
三階建てで屋根は茶色く、小奇麗な図書館のような雰囲気を醸し出している。少なくとも怪しい団体の施設には見えなかった。
そう言えば以前、黒業から貰った名刺の肩書きの中に『内閣府』という文字があった気がする。ともすればここは政府系の建物と言うことにもなるのだ。ならば怪しまれないのも納得する。
建物の前で川蝉と黒業は車から降りた。
「中ではこれを使いたまえ」
黒業がプラスチックのような質感のカードを渡してくる。そこには『GUEST《ゲスト》』と印字がなされていた。
そして黒業が慣れた足取りで建物の中に入っていく。川蝉もそれに付いていくのだった。
分厚いガラスで造られた手動のドアを押し、内部に入る。白い壁に観葉植物が心なし程度に置いてあった。
会釈をする警備員の横で、セキュリティゲートに黒業はカードキーをかざす。ゲートは開き、川蝉も借りたカードを使って内部に入っていった。
階段の横にあったエレベーターを使用して、上の階に行く。三階で降りると、通路の一番奥まで移動した。
奥には古めかしい茶色で木製の扉があり、そこを開いて黒業はそこに足を踏み入れる。
事務的で簡素な部屋が目に入った。木製の大きなデスクを除けば、後は資料のファイルと大量の本が詰まったアルミ製の棚が両脇にあるだけである。
おそらくは黒業に割り当てられた部屋なのだろう。予想はしていたが、上の方にいる人間らしい。
黒業は座らず、デスクの上にあった箱に手を伸ばす。それを川蝉の前で開いた。
そこにあったのは二本のワンドだった。何の変哲もなく見えたが、色が少しだけ違う。わずかだが黒の中に緑の光沢があった。
「キミの新しいワンドだ。受け取ってくれ」
黒業は箱を閉じるとそれを渡してきた。
拒否する理由もないので川蝉は受け取る。
「これにはアルター機能と言う新しい仕様が追加されたワンドだ。通常のものとは少し違う」
「アルター機能……」
八雲のことを思い出す。彼女はあのダンジョンでワンドを『蛇腹剣』へと変化させていた。
確かその能力をアルター機能と言っていた気がする。
「これがどんなものか、もう知っているはずだ。詳しい説明は中にあるマニュアルを読んでくれ」
「わかりました」
川蝉は次に本当に聞きたかったことを切り出す。
「次はいつですか?」
「ダンジョンは不定期に現れる。だが一度出現すれば、次に現れるのは最も早くて二週間か。まあ一ヶ月くらいは出ないのが普通か」
「っ……」
それは川蝉にとって都合の悪い事実だった。次の出現まで一ヶ月、もしそうであれば妹の事情は間に合わない。
「だが――」
黒業がそれに言葉を付け加える。
「今回はイレギュラーが発生している。たぶん一週間もしない内にまた呼び出すことになるだろう」
「その次は?」
正直なところ、あと一回のダンジョンで七千万を稼ぐのは厳しかった。せめて二回は潜らないといけない。故に次の次まで考えなくてはならないのだ。
「血気盛んだな。まあそれも当然か」
黒業は愉悦の入り交じった瞳で語る。
「しかし残念ながらそこまでの予測は不可能だ。次々回のダンジョンについては何も言えない」
川蝉は落胆した。無茶とは思っていたが、もしかしたらと言う淡い希望があったのは事実だ。
けれど黒業の言葉はそこで終わらなかった。
「そこで一つ提案がある?」
「提案?」
「そう、キミの妹を助けるための提案だ」
黒業の口からとんでもない発言が飛び出てきた。
「次に出てくるダンジョンまでにまともな人員補充は不可能だ。おそらく前回以上に厳しいものになるだろう」
「それで?」
「そこでもしキミがポイントを400以上稼ぎつつ、ボスを直接撃破したか、あるいは撃破に多大な貢献をした場合に特別ボーナスを与える」
ボーナス、つまりその内容は――
「件の治療費の不足分を貸しだそう。手続きもこちらでスムーズに進めさせるサービス付きだ」
「それは本当ですか?」
「ここで嘘を言っても私にメリットはない」
信じられないような破格の条件だ。
そこまでしてくれて感謝しかないはずだった。
だが川蝉の中でそこまで自分が優遇されていることが不信感を産んでしまう。特に黒業はどこか信用できない男だった。
「……何故そこまでしてくれんですか?」
「理由は三つだ。まず一つはダンジョンに関する事案にかけられる金額は常人の想像を遙かに越すものであり、キミの妹の治療費なんてその中では塵程度にもならない」
それは魔法師の報酬も含めての話だろう。十代の人間にとって大金に見えるそれも、ダンジョンに注がれた予算からすれば本当に大したことはないのだ。
「二つ目としてはそれだけ巨額のカネが動いている程ダンジョンと言うのは重要であり、危険な代物だ。何としてでも攻略しなければならない。その確率を上げるためならこの程度はして当然」
それは黒業の仕事の一つなのだろう。職務に忠実とも言える。
「三つ目、個人的な話だがキミには期待している。そのモチベーションを高めるための策だ。逆に妹を失って気力をなくされても困るからな」
「期待ですか?」
「ああ、キミのようなタイプは経験さえ積めば強力な戦力になる。それを初陣のダンジョンで見せてくれたのだから期待するなと言う方が無理だ。それに……」
黒業はそこで一旦言葉を止めた。
ちらりと天井を見上げると再び話し始める。
「いや、何でもない。しかしこれで説明は充分だろう」
最後に言い掛けた言葉に引っかかりはあった。しかしそれ以上の追求は無駄だろう。
「条件はそこまで楽じゃない。その命を糧に奴らを狩れ」
そんなことを言われなくても川蝉にはわかっている。
元よりそのつもりだった。
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