狭間の日常編
狭間の日常①
秋特有の乾燥した空気と、強い光の太陽が窓から差し込んでくる。
そんな朝とは言えない午前の時間に川蝉は眼を覚ます。時計を見ればすでに十時を回っていた。
布団から起きあがって簡単な食事を作り始める。トーストを焼き、ベーコンと卵をフライパンに入れて火をかけた。そして牛乳を冷蔵庫から取り出してコップに注ぐ。
卓についてテレビを付けると朝のニュースがやっていた。最近ではアメリカの新しい大統領のことで話題は持ち切りである。
それと一ヶ月前にあった謎の『新宿封鎖』についても特集がなされていた。深夜の新宿駅一帯が全て完全に封鎖された奇妙なできごとであり多数の都市伝説も産んで話題になった。
しかし人の噂も七十五日と言うが、時が経っていたので忘れられつつもある。
一方であれから三日、ダンジョンの死者についての報道は一切なかった。総計九名の少年少女が一夜にして死亡したのだ。普通ならワイドショーをもっと賑わせてくれているはずである。
だが新聞やネットを調べても奇妙なほど何もなかった。
元よりそう言う人間を選んだのかもしれない。
川蝉だってそうだ。死んでも派手に騒ぐ者はいない。
思い起こせば
そう言えば日本では年間一万人程の人間が行方不明になっていると聞いたことがある。警察も事件性を認めない場合は動かないそうだ。ダンジョンで死んだ者もよくある行方不明の一人になっているのかもしれない。
――存在してもしなくても同じ人間か。
虚しくなって川蝉はテレビを消した。
朝食を食べ終え、食器を洗う。掃除洗濯をすると何もやることがなくなってしまった。
今までは複数のバイトのシフトを組み合わせ、朝から晩まで三六五日、一日も休むことなく働いていた。
それがいきなり消えると、どうしていいかわからなくなってしまう。
川蝉くらいの年齢だったなら、今は高校に行って授業を受けるのが普通だろう。
――高校か。
諦めていた進学を考える。忙しすぎて完全に頭から消えていたが、今は事情が違う。
川蝉はテーブルの上に置いてあった郵便貯金の通帳を手に取った。
それを開いて中身を確認する。
¥3670、0000――
「………………」
未だに信じられない桁が通帳に刻まれていた。
ダンジョンで川蝉が獲得したのは367ポイントであった。特に大きかったのは蝦蟇仙人であり、そのポイントは実に200ポイント。半分以上がボス撃破によるものである。
そして蝦蟇仙人との死闘の翌日、黒業から連絡が来た。
『ダンジョン攻略おめでとう。ポイントをどう使うか決めてくれ』
相変わらず淡々とした口調だった。
その後ポイントについて補足説明がなされた。ポイントにはいくつかの用途があったようである。
初心者にはまず二つの選択肢が提示された。
一つ目は現金化。一ポイントを十万円として換金してくれるシステムである。
もう一つは借金の返済だ。
これは魔眼の手術費、ワンド等の必要装備の費用なども含まれている。
それが総額500ポイント、五千万円分に値する。
ただしこれらは現金での返済は認められず、ポイントでの返済のみが可能であった。
例えばポイントを一千万現金化したとする。それを資本に資産運用等で五千万まで増やしたとしても、それによる返済は認められないのだ。あくまでダンジョンでモンスターを狩って得たポイントだけが認められるのだ。
そしてその返済が終わるまでは、あの長ったらしい名前の組織の言いなりである。召集されればどんな理由でもダンジョンに突き落とされるのだ。
あの悪夢の迷宮から逃れるには、完全に返済するしか道はない。
川蝉が選んだのは、全ての現金化だった。どうせまだあそこから足を洗うつもりなど毛頭なかったので、返済には関心が全くなかった。
妹の治療費を稼ぐまでは、少なくともあのダンジョンに喜んで行くことになるだろう。
「あ、そうだ」
そこで久々に妹の見舞いに行かなくてはならないことを川蝉は思い出すのだった。
*
東経大学医学部付属八王子病院――川蝉の住んでいる地域では入院施設のしっかりした大きい病院だった。
八王子駅北口から出ているバスで約三十分で行くことができる。
以前よりシフトの休憩時間等を巧みに利用して見舞いには来ていたが、最近ではめっきり減ってしまっていた。
だからと言って何か変わるわけでもないが。
バスが泊まり、川蝉はパンパンに膨れ上がった肩掛け鞄を持って立ち上がる。
バス停から降りると、病院の白い建物はほぼ目の前にあった。歩道を少しだけ歩き、川蝉は入り口の自動ドアを通り抜ける。
午前中なだけに人は多かった。
やはり時代と言うべきかほとんどが老人ばかりである。
病院の受付で面会手続きを済ませる。
満席に近い待合室を横に、川蝉はエレベーターに足を踏み入れた。入院スペースのある三階まで上がっていく。
エレベーターから降りると通路に出て、『川蝉優季』と古く掠れた印字があるプレートの部屋に迷わずに入っていった。
四人部屋、それぞれの領域がカーテンで仕切られている。その一番奥に川蝉は立った。
「優季」
一応呼びかけてみるが返事はない。
カーテンの隙間から中を覗いて見る。
そこには十二歳の少女がベッドの上でぼんやりと本を開いていた。
正午の日差しが少女の白い肌を差す。首もとまで伸びた髪に、儚げな瞳。吹けば飛んでしまいそうな細い体はベッドに馴染んで見えた。
その粉雪のように綺麗な顔は、弱々しくもあった。
――また少し痩せたな。
川蝉は自分のこと以上に心が痛んだ。
「優季、来たよ」
一応もう一度呼びかけてみる。
優季は不機嫌そうに本をバタンと閉じて睨むように見上げてきた。
「何だよ?」
嫌悪感を隠そうともせず、優季は乱暴な口調で言い放ってきた。
それが一方で安心もさせてくれる。
いつも通りであると言うことだ。刺々しい言葉があってこそであり、川蝉もそれに慣れていた。
「いつもの暇潰しの本とか買ってきたから」
川蝉は持ってきた肩掛け鞄から、大量の雑誌等を取り出す。
「他に何か欲しい物とかはあるか?」
「随分と羽振りがいいんだな」
「ああ、ちょっと臨時収入があって」
「ふぅん」
考えるような素振りをして、優季は口を開いた。
「じゃあ健康な体が欲しいな」
「それは……」
「冗談だよ。困らせたかっただけだ」
優季は皮肉の籠もった笑みを浮かべた。
「欲しい物は特にない。別に構ってくれなくていいから」
無欲とはまた違う。どちらかと言えば投げやりな言葉だった。
そんな妹を元気づけたくて、川蝉は口を開く。
「もしかしたら、どうにか――」
「そう言うのもういいから。諦めてるし」
だが川蝉の言葉は途中で断ち切られた。
優季はばたんとベッドに背中から倒れ込む。
「もう用事が済んだなら帰ってよ」
「……わかった」
これ以上は優季を不機嫌にさせるだけなので仕方がない。
川蝉は空になった鞄を肩にかける。
「また来る」
そう言い残してベッドを去るのだった。
*
「…………」
川蝉は俯いて病院の通路を歩いていた。
――様子がおかしかった。
いつもの優季はもっと攻撃的な性格である。「うぜぇ」とか「さっさと帰れよ」とか喚き散らすのが常だ。「また来る」なんて言えば近くの物を投げてくるのが通常である。
しかし今日は静かだった。
疲れていたのか、少しやつれても見えた。
どうもいい気分はしない。これなら八つ当たりされた方がまだマシだったのかもしれない。
体の調子が悪いのだろうか。
病棟を歩いていると後ろから声がかかってくる。
「川蝉優季さんの親族の方ですか?」
振り向くとナースが何かファイルを持って立っていた。
「そうですけど」
「優季さんのことで先生がお話があると」
川蝉はナースの案内に従って、優季の掛かり付けの医師の元へ向かった。
そしてそのお話と言うのを手短に聞かされるのだった。
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