コミュ障

人と人とのコミュニケーションを苦手とし、上手く会話が続かず輪に入り込むのに障害を感じることをコミュニケーション障害(以下コミュ障)と表現するそうです。

これが中々厄介なもので、人間には承認欲求という自らを知ってもらいたいと思う欲があります。

この欲を満たすには他人がいなければ成り立ちません、自己完結で承認欲求を満たすこともできますが、自分以外の人に知ってもらうのが一番強烈に欲を満たしてくれますし、自らを納得させる物差しや尺度は人との摩擦によって徐々に出来上がる時間のかかる方法です。

そしてコミュ障と自称する人ほど知ってもらいたい承認欲求を満たすことに貪欲ですが、意欲的な人とそうでない人との差が激しくでやすい極端な傾向があります。

アピールが過ぎてしまうと受け取りてがとっつきにくさを感じてコミュ障の人と話すのが嫌になってしまう、コミュ障の人は自分を受け入れてくれないと意固地になってしまう悪循環が出来上がります。


もちろんこれらがコミュ障のすべてではないのですが、私なりの人付き合いの考え方を書いてみたいと思います。


私はまず人の話を聞くことが一番大切だと思っています。

その人が何をどう感じどう考え、いやな気持ちになる言葉や言われると嬉しくなることを探り、相手の承認欲求を満たしてあげます。

例え会話のなかで地雷を踏み抜いて機嫌を損ねても、それがコミュニケーションにおいて間違いであることが学べます。

逆に人が喜んでくれるのはどんなアプローチなのかも経験を積むことができます。

要するにこの過程を疎かにせず、どう伝えれば自分のことを多く理解してもらえるかを理解しなければなりせん。

相手を理解すれば自分の無駄が見えてきます。

人に与えるだけでは押しつけがましくなり、与えなさすぎると考えが読めない不気味な人になってしまいます。

何かを与えたいときには相手から受け取らなければならない、コミュニケーションが一方通行だと双方不快になってしまうのです。


「理解されない」「伝わらない」「やっても無駄」

叫び続けることに疲れるとこう思いがちになってしまいます。

だからこそ理解されないときは人を理解することが重要なのではないでしょうか?

理解されないのはどうしても受け入れられない、その人にとって譲れないほど大切で苦しいことなのかもしれません。

伝わらないのは話にならないほど激情してしまっていたり、準備がたりない詰めが甘い状態なのかもしれません。

やっても無駄なことは本当にそうでしょうか、行動しない限りはそれが正しいか間違っているか判断もされません。


すべての人がそうだとは思いませんが、基本的に人は個を大事にします。

苦しい思いや辛い気持ちは共有しにくいです。

それは相手も悲しい気持ちはなるべく味わいたくないからです。言い換えれば自分を大切にしたいからです。

そして「自らを優しくできない人は人に優しくなれない」とも言います。

相手にも受け入れられる容量があることを知ることは優しさの第一歩だと私は考えています。


相手を理解し自分も理解してもらう、与え与えられる。

そんな対等な関係をゆっくりと築けていけたら、きっとかけがえのない絆になっていくのだと私は信じています。

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