正義と悪とヒーローと
正月やテレビ視聴者が増える時期には特別番組が多く放送される。
その中でも私は警察官の取材を多く取り扱う番組が好みで、新聞などで放送される表記を見るとついついテレビの電源を入れてしまうものだ。
普段見ることのできない活動や警察官としての努力、そういった見どころもあるのだがやはり一番は多種多様な人間模様だ。
職務の一部として警察官は目を光らせ治安維持を行うのだが、この時に見せるやり取りが何とも人間らしいやりとりを見せる。
違反の証拠を見せつけられてもある程度粘りを見せるスピード違反や、激情する相手を必死になだめようと探る警察官、荷物を見られまいと投げ捨てたり飲み込んだりと様々な手法で逃げの手を考える者、編集され短い時間のなかだがどれもこれも中々頻繁に目にする光景ではない。
と、好きな番組はこれくらいにして、今回は正義の味方について考える。
正義の味方。
誰もが耳にしたことのある言葉だろう、正しさを端的に表す美しさがあるが聞いたことがあっても深く考えたことはない、この言葉の意味を私は正しく捉えられているだろうかと私なりの考察を行う。
私は正義の味方が好きである。
物語や作品だけでなく、世の中でも当然のように行われる正しさは疑いようもなく素晴らしいものだ。
しかしどれもその正しさはすべてを救っているとは言えないのではないだろうか、例えばアニメの正義の味方は悪となるものを倒しぶっ飛ばし爆発させたりするが、それで救えるのは悪によって害されていた者だけで悪そのものは救えてはいない。
悪は賛同されず、理解されず、歩み寄られもしない。
そして救われるものは悪であるものを深く知らないものでさえ見てきたかのように否定してしまう、なぜ排するのか考慮せず周りに流されるように排他的になってしまう。
私は正義と悪の戦いよりも、自らで思慮せず行動できないものこそが悪であると強く思う。
そしてそれこそが自分であるとも思い知ってしまう。
正義を信じて疑わないことは、悪を知らずに切り捨てることではない。
正義も悪も人が考え決めて行動しなければ誰からも認められない、正義の味方は無であることをやめ正しくありたいと考え行動する人間なのだ。
そして悪とされたものも自ら思い行動し、間違えて正されたとしても一歩が踏み出せ改めることのできる強い人間なのだ。
私は踏み出せない無である。
嘲笑するモブである。
少しずつ正義と悪を知り、正しくなりたい。
自らを誇れるようになりたい。
知ることも知られることも恐れない人間になりたい。
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