キングマンボウ その1


 海面に三角形の背ビレがぷかりと浮かぶ。それはしばらく揺らぎを楽しむかのように波間に見え隠れして、やがてとぷんと潜り、冷たい海の深みへと泳いで消えた。


 海はゆりかご。


 見渡す限りの大海原の下、流線形の身体を潮の流れるままに任せて、ゆらりゆらり右へ左へ漂い泳ぐイルカが一頭。


 そして、イルカは同じゆりかごに揺られる仲間、浮かぶのか沈むのかわからないくらいゆっくりのんびり泳ぐマンボウを見つけた。


「ねえねえ、そこのマンボウさん。ちょっと聞きたい事があるんだけど」


 マンボウはゆらーり翻る旗のように大きくて平べったい身体で振り返り、声をかけてきたイルカの方へ泳いだ。


「やあ、イルカさんですね。知っています知っています。三角背ビレのとんがりお口はイルカさんです。同じ三角背ビレでも潰れたお口は怖いサメさんです。こんにちは」


「はい、こんにちは」


 マンボウが身体を傾けるように頭を下げた。イルカもそれに倣って頭を下げて見せる。


「でも、そのお口の上の赤い物は、ボクの知っているイルカさんにはない物ですね」


「これは眼鏡って言う私のトレードマーク。これを一度でも見た者は敬愛と畏怖の念に囚われるの」


「ふうん。じゃあボクもケーアイとイフに捕まっちゃうのかな? ケーアイとイフでどっちが捕まったら危ないですか?」


「どっちでもいいわよ。あなたともっとお話したいところだけど、会いたいマンボウがいるの。ここら辺で一番大きなマンボウはどこにいる?」


 赤眼鏡をかけたイルカは少し早口でまくし立てた。動物とお話する時、いつもピントのずれた好奇心のせいで会話が成り立たなくなる。知能がそれほど高くない動物と会話するなら聞きたい事をストレートに投げかけるのが一番だ。


「一番大きいマンボウなら一日前に一緒にいましたよ」

 

「そう、一日前ね。じゃあ今はどこ?」


「今は?」


 マンボウがヒレをひらひら一生懸命動かしてくるっと回転した。


「今はここにはいませんね」


 見りゃわかるって。知覚系はイルカの方がマンボウよりも圧倒的に優れてるんだから。イルカは少しイラッとしてしまった。


「今ここにいるかじゃなくて、どこにいるか知ってるかどうか聞いてるの。ここより深いところ? ずっと沖?」


「イルカさんがいるかいるか言うのって異口同音の言葉の繰り返しで面白いですね」


 マンボウがちょっと知的なツッコミかましてんじゃねーよ。イルカは思わず身をよじって叫びたくなった。ダメだダメだ。優しくてフレンドリーな海の人気者がそんなツッコミに負けるんじゃない。


「そうじゃなくて。ねえ、私は大きいマンボウに会いたいの。どこにいるか知ってる?」


「またいるかって言いましたね。うふふ、面白いイルカさんですね」


 マンボウが身体を揺すって笑って言った。それを見て、赤眼鏡のイルカは今度は何も言わずに凄みのある視線を真っ直ぐにマンボウにぶち当てた。マンボウの野生の本能が、生命の危機を感知する。


「あっ、はい。見ての通り、ボクより大きいマンボウはここにはいません。でも太陽が空のてっぺんにいる頃に、みんなで海面まで上がって人間達を観察する事にしているので、そこならあるいは泳いでるかも知れません」


「それを早く言いなさい」


「でもそれは、今じゃなくて未来の出来事です。時間は連続しているとは言え、未来を予測するには今を切り離して考えないと、希望的観測が入り込んでしまいますから」


「意識高えな、おい」


 ただの通りすがりのマンボウですらこれだ。マンボウに転生した灰谷曜市の奴は、一体どれだけのマンボウ達に高い意識を植え付けたのやら。


 赤眼鏡のイルカは通りすがりのマンボウに礼を言って海面を目指した。この近辺の海域はマンボウの大量発生により、マンボウ観察ツアーの船でごった返しているはずだ。なるべくそれらとの接触は避けたいが、仕方ない、ちょっとだけマンボウを観察する人間達を見物してみるか。




 海面まで浮上すると、その巨体はすぐに見つかった。ゆらゆらと何体ものマンボウ達が浮き漂う中、ゆうに二回りは大きな影を波間にゆらつかせ、海面をヒレで叩いている大マンボウがいる。でかい。こいつ一体だけ他とは違う貫禄がありまくる。まさにボスの風格を持ち合わせている。


「ハーイ、こんにちは」


 赤眼鏡のイルカは巨大マンボウの隣まで浮き上がり声をかけてみた。


「やあ、イルカさんから声をかけてくるなんてこれは珍しい。こんにちは」


 マンボウが挨拶を返してくれた。それと同時に近くの観光遊覧船から歓声が上がる。しまった。早速観光客に見つかったか。マンボウとイルカが一緒に泳いでいたら、そりゃあちょっとした事件だ。


「ちょっと話があるんだけど、潜らない?」


「この時間帯は観光船にサービスするんだ。そうすればクラゲなんかよりも栄養価の高い餌がもらえる。僕らはそれを子供達に届けなくてはならないんだが、君と話す事によって失われるサービスタイムと餌を、イルカである君は補償できるのかな?」


 うわ、めんどくせえ。赤眼鏡のイルカは思った。こいつマンボウに生まれ変わってもめんどくさい性格変わってないわ。


 と、イルカのすぐ近くに何かが着水した。観光遊覧船に乗った人間が何かを投げてよこしたようだ。団子状に丸められたそれは、着水と同時にゆるりと解けて水の中に拡散する。


「人間が釣りで使う練り餌だよ。僕らマンボウが食べられる物の中では、このメーカーの練り餌が一番美味いんだ」


 何匹かの若いマンボウがやって来て、煙のように水中に拡っていく練り餌の中に突っ込んでいって口をパクパクとさせる。


 なるほど。よく人間を調教している。海の中のマンボウダンスを披露して、その報酬として海では得られないとびきり栄養価の高い食事を貰うのか。


「つまり、人間へサービスしつつ餌を確保できれば幾らでもお話してくれるのね」


「ほう、イルカさんにしては協力的かつ建設的なご意見だね。問題はそれができるのかだ、君に」


「海の人気者はマンボウじゃなくてイルカなのよ。思い知りなさい、マンボウに生まれ変わった灰谷曜市さん」


「……どうしてそれを!」


「この赤い眼鏡に見覚えはないかしら?」


 イルカは胸ビレで赤眼鏡をくいっとやって見せた。


「赤い、眼鏡?」


 マンボウの胸に蘇る人間だった頃の記憶。どくんと心臓を高鳴らせて、まん丸い目がさらに見開かれる。驚き、懐かしさ、困惑、そして畏怖。それらが混ざり合わさった感情が心の奥底から一気に吹き上がってきた。


「君は、転生ハローワークのノーラ!」


「思い出してくれた? 麗しのノーラ様が会いにきてあげたわよ」

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