灰谷曜市の場合 その2
空は青く透き通り、山は緑に萌え盛り、しかしそれら自然の造形は無限の広がりを見せつける事も出来ない紛い物で、四角く切り取られた枠の中にのみ存在する触る事のできない虚像だった。
そこはすべてが立体感に乏しく、まるで精密に描かれた一枚絵を目の前に掲げられているようで、そしてその絵の向こう側にあるのは半透明の膜で覆われたまだ生まれていない世界だ。
マイキャラクターはこんな平べったい風景を見ていたのか。同じ平面でもディスプレイ越しに見るゲームワールドとはやはり一味違う。
曜市は目の前に展開する薄っぺらい景色に手を伸ばしてみた。感覚的には前方三メートルくらいに全方位球形スクリーンがある感じだ。視線を上下左右に振らずにギリギリ画面全体が見えるくらいの視界で、フォーカスがどこにでも合っていてその情報量に圧倒されてしまう。
動いたら視界に慣れるまで3D酔いしそうだな、これは。
ふと、背景が映し出されているスクリーンに触れようとして伸ばしたはずの腕が見当たらない事に曜市は気が付いた。意識としては右腕を前に突き出しているのだが、そこに腕は表示されていない。
通常ゲームスタート時はマイキャラ作りから始まり、チュートリアルとして操作説明などが入るのだが、まだマイキャラ設定すらされていないので右腕も表示されないのだろうか。
待てよ。マイキャラがまだ作成されていないなら、僕のステータスはどうなっているんだ?
ウインドウスクリーンよ、開けっと曜市は念じてみた。画面にステータスや会話内容などが表示される情報の窓だ。
すると音もなく視界のやや右上にドンデン返しのようにウインドウが開いた。よし、ウインドウはゲームと同じだ。確かにここは『ブリリアント・ストーリーズ・オンライン』の世界のようだ。
おや。普通ならウインドウにはパラメータの数値が表示されるはずだが、何やら文章が書き込まれている。何々? 曜市は半透明のウインドウに書かれた文章を読んだ。
『平素より当社のオンラインゲーム『ブリリアント・ストーリーズ・オンライン』をご利用いただき、ありがとうございます。
この度、まことに勝手ながら20XX年XX月XX日をもちまして、すべてのサービスを終了させていただくこととなりました』
えっ。
『──最後にはなりますが、カウントダウンパーティーをお楽しみください。ありがとうございました』
カウントダウンパーティーって、おい、まさか。
曜市は空を見上げた。画面がゆっくりと上にスクロールし、空いっぱいに大きな数字が浮き上がっているのが見えた。その数字は9だった。
8、7、6、5。どんどんカウントダウンしていく。
「ちょっ、まっ」
それが、ゲーム内に生まれ変わった曜市の最初で最後の台詞だった。
4、3、2、1、……ゼロ!
空が突然折り畳まれた。
青い空に白いラインが刻まれた。そのラインを中心に空の両端が落っこちてくる。バキバキと轟音ととものヒビが走り、折れ砕けた空は白い光を撒き散らしながら舞い降りた。大地を震えさせ、空の下にあったオブジェクトがすべて巻き込まれ、真っ白い闇に飲み込まれ、粉々に砕けて消えた。
転生したばかりの曜市のデータも、あっけなく消去されてしまった。
「……と、言う訳なんですよ」
灰谷曜市は言った。
「だから知らねえって」
ノーラ・カリンは応えて言った。
そういえばサービス終了するとかなんとか言ってたような気もするが、そんなの私の知ったこっちゃない。曜市の希望を忠実に叶えてやったまでだ。どんな結末が彼を待ち受けていたかなど、ほんと、知ったこっちゃない。
「我々はどこへ行くのか。我々は何者なのか」
曜市が頭を抱えてつぶやいた。
「我々って、こっそり私まで加えないでください。これは元ヨウイチさんのひどく個人的な問題です」
「どうしたら、いいんですか?」
「二択ですね。再転生か、消滅か。お好きな方を選んでください」
曜市はとても短い時間ではあったが『ブリリアント・ストーリーズ・オンライン』の世界に転生していた。しかしゲーム世界のルールに則ってマイキャラクターを作成する前にデータ消去に伴って再死亡。
まだまだ未消費の人生ポイントがたっぷり残っている状態だった。死亡ガチャの結果はR+と平凡なものだったが、大量に余っているポイントでもう一度転生のチャンスを得たのであった。
ただし、転生先は動植物限定。いよいよ昆虫への転生が現実味を帯びてきてしまった。
「人間以外への転生例もかなりありますよ。ほら、喋る猫とか犬とか、たまにテレビに出てたりしません?」
曜市がようやく顔を上げた。もう『ブリリアント・ストーリーズ・オンライン』と係わりのある人生は歩めない。そう悟ったのか、どこか吹っ切れた感のある爽やかな笑顔をしていた。
「もしも生まれ変われるなら、花や草になりたい。そっと、ビルとビルの隙間に咲くタンポポに生まれ変わって、人々の癒しとなりたい。そう思うよ、僕は」
「花言葉は『思わせぶり』ですね。さあ、転生っちゃいましょう」
ノーラが速攻で金色トンカチを振りかざすが、曜市は振り下ろされるその手を掴んで止めた。
「『思わせぶり』だなんて、ちょっいとやだな。そうだな、鳥だ。鳥になって空を自由に飛ぼう。平和の象徴、白い鳩になって」
「いいですね。カラスやトンビがよく鳩を襲って喰ってますもんね。じゃ、やりますよ」
ノーラが曜市の手を振り解こうとするが、曜市がそうはさせない。がっしと掴んだままだ。
「ネコ。ネコだよ。さっきあなたが言っていたように、喋るネコになって人々を癒したいんだ」
「スイスのとある地方では猫を食べる食文化があると聞いたことがあります。じゃあ、スイスアルプスにでも転生しちゃいますか?」
「いちいち何なんですか! 僕が転生しちゃダメな理由でもあるんですか?」
ノーラはそこで初めてニヤリと笑って見せた。
「実は、とっておきがあるんです。あなただけにおすすめしちゃうとっておきが」
「とっておき?」
「……マンボウです」
曜市はあの独特な形をした大きな魚を思い浮かべた。プカプカと大海原の波間に浮かんで日光浴をするかのように泳ぐ魚、マンボウ。で、マンボウ?
「どの辺がとっておきなんですか?」
「ご存知の通り、マンボウは一度に産卵する卵の数が2億とも3億とも言われています。その中で成魚になれるのは数匹だとか。それだけ厳しい生存競争に勝ち抜け、実績を積めば人間への再転生も夢ではありません。何より、海にプカプカと浮かぶのは気持ちいいとも評判です」
「評判ですって、誰の?」
「マンボウから人間に再転生した人です。ごく最近も一人いらっしゃいました」
ノーラは自分の腕を掴んでいる曜市の力が緩んだのを感じ取った。よし、もう一押しだな。
「脊椎動物の中で最も多くの卵を産むマンボウは、あらゆる死者が転生先に選びます。それこそ、元カゲロウとか、元タンポポとか。なので3億の転生先もすぐ埋まっちゃって、次まで少し待たなくてはならないんですが、今なら、まだ席に余裕があります。今なら」
「今、なら?」
「今でしょ」
「今、か」
落ちたな。ノーラはゆっくりと優しく曜市の手を解いて、自由になった腕で金色トンカチを軽く素振りした。
「もしもまだ迷っているなら、時間を差し上げますからじっくり悩むのもいいでしょう」
「いえ、その必要はないです」
曜市は言った。
「マンボウに生まれ変わって、ただ浮かび漂うだけの他のマンボウ達の道標となるよう、しっかりと生き抜いてみせます。この僕が」
「期待してますわ」
金色トンカチが唸りを上げた。
あ。産まれた。卵から孵化した。曜市は自我が芽生えた。マンボウとしての第二の人生が今、始まったのだ。あ、ゲームの中に一瞬だけ転生したっけ。第三の人生か。
ここは海の中だろうが、水深が深めなのか、やや暗く、水も冷たい。でもそれがいい。この冷たさが心地いい。身体を押す潮の流れもまるでゆりかごかロッキングチェアか。ゆらりゆらりと安らぎのリズムを与えてくれる。
なるほど、あの赤眼鏡の言う通り、マンボウも悪くない。
周囲を見れば、海流のせいか、自分だけでなく産まれたての仔マンボウや卵達がふわふわと漂っている。かなりの数だ。
ほら、あいつ。産まれた。まさに今孵化した。誕生おめでとう、弟よ。それとも妹か? ひょっとしてあいつもマンボウに転生した誰かだろうか。どちらにしろ、この海を共に生き抜こう。
と、あの産まれたての弟の後ろに大きな何かが迫ってきてるのが見えた。危ない。背後で肉食魚が口を開けているぞ。
「産まれたての弟よ、後ろだ! 危ないっ!」
叫んだが、間に合わなかった。
ぱくん。弱肉強食の洗礼だ。あいつは喰われちまった。弱い者は強い者の糧となる。この海のシステムだ。誰に覆せるものか。
しかしこのままではこの周囲にいる仔マンボウ達もまだ産まれていない弟、妹達もあの大きな魚に喰い尽くされてしまう。曜市自身も例外ではない。いきなり修羅場か。
やるしかないな。人間だった頃の知識と経験を活かし、生き残る道を作り出すんだ。この僕が。
「みんな、聞け!」
仔マンボウの曜市は叫んだ。
「僕の声が聞こえるか? 聞こえたら応えろ!」
声の限りに叫んだ。
「集まるんだ! 一匹一匹は小さいが、ここにいる数千、数万のみんなで集まり、一体の巨大な魚影を作るんだ! 生き残るために!」
マンボウ達の革命の時が来た。
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