マリア・フリオンの場合 その1


 マリア・フリオンは女騎士である。しかし、もうじきそうではなくなる。路傍に転がる骸に転職できそうだ。



 こんなにも近くに土の匂いを嗅いだのは久しぶりだ。土の匂い、と言うべきか、泥の味、と言うべきか。マリアは馬から転げ落ち、昨晩降った雨のせいでぬかるんだ街道にうつ伏せに倒れ込んでしまった。


 水たまりの泥を舐めながら顔を上げる。共に戦ってきた馬は後脚に矢の一撃を食らったようで、泥の中でいななき、足掻き暴れている。転倒した際に骨を折ったか、右前脚が異常な角度でひん曲がっていた。


 これは助からないな。


 マリアは熱く昂ぶっていた気持ちが、すうっと熱を落としていくのを感じた。金色の前髪を一雫の泥水が伝う。それを目で追うと、マリアが跪く水たまりにポタリと落ちた。


 街道の馬車道にできた水たまりは濁った泥色をしているくせに、見る角度によってはやけに澄んだ青空の光を反射させていた。


 街道の側に繁る森の濃い緑色と透き通った青い空色とのコントラストがきれいだ。マリアは絶体絶命の時だと言うのに水たまりに映る空の色彩に心を奪われてしまった。


 マリアが心ここにあらずに水たまりの青い空を見つめていると、その視界に一振りの剣が突き出された。


「姫は、どこだ?」


 泥に跪いたまま剣先を見上げると、マリアを追っていた騎士が目の前に立ちはだかっていた。さすがは有名騎士団だ。身に纏っている鎧の輝きが違う。マリアは思った。同じ金属光沢でも、自分が身につけている鎖帷子とプレートとでは全然違う。それこそ泥水と青空ほど輝きに差がある。


「そこにいるでしょ」


 騎士だった父に憧れて、女だてらに騎士になる夢を見るまでは良かった。しかし立場の低い女性が入団できるのは地方城主に雇われた弱小騎士団が関の山だった。揃いの装備も身に付けられない貧乏騎士団ではまともに戦争に駆り出される事もなく、気が付けば傭兵まがいの仕事をして日銭を稼ぐ毎日だ。


「嘘を言うな。何故、奴を庇う?」


 明日のパンすら心配しなければならない貧乏女騎士にようやく舞い降りてきたチャンス、姫を守れと言う大仕事も、とんだ貧乏くじだったようだ。素性の知れぬ姫とやらは有名騎士団に追われる身で、仲間達はあっけなく倒れていき、自分は泥水に浸かって跪いている。何てざまだ。


 せめて姫とやらだけでも逃げ延びてくれれば、まだ騎士としての名を汚さずに済むのでは。と、周囲を見渡せども姫の姿はなく、泥の水たまりに沈むように跪いている自分と倒れた馬がいるだけだった。


「あれ?」


 一緒に馬に乗っていたはずなのに。随分と小柄な姫君だったから、勢い余って森の方へでも吹っ飛んで行ったか?


 どこかに隠れているのなら、ここは時間を稼がなくては。姫よ、出来るだけ遠くへ逃げてください。


「……パンッ!」


 マリアが騎士の気を引こうと口走った言葉は、パンだった。一応僅かながら効果はあったようで、騎士の剣先が少しだけビクッとなった。


「ねえ、パン食べない? こんな天気のいい日はピクニックよ、ピクニック」


 マリアは泥塗れの背負い袋をごそごそと漁りながら続けてまくし立てた。


「火を焚いてさ、チーズをとろとろになるまで焼いてパンに乗っけるのよ。あーんって口を大きく開けてパンにかぶり付く! 溶けたチーズが熱ッ! 慌てて口を離そうにもチーズが糸を引いてくっついてくるの。もう熱ッ!」


 しかし背負い袋の中にチーズはなかった。おとといの夜に最後のひとかけを食べたっけ。


「黒パンはどう? 焚き火で焦げる寸前まで炙ったベーコンを挟むの。ベーコンから染み出た熱い脂を黒パンが吸って、ジューシーな香ばしさはもうたまんないわよ」


 ベーコンなんてここ一ヶ月くらい見てないな。背負い袋の中にはベーコンどころか黒パンすら入っていない。最後の黒パンの切れ端はゆうべのメインディッシュだった。


「チーズとベーコンの脂でぬらぬらする口の中をワインで洗い流すの。やっぱり強い赤に限るわ! 革袋に入ったワインをぐびぐび飲み交わすの! それが騎士達のピクニックの醍醐味よ!」


 腰の革袋に手をやるも、すかっと空振ってしまう。見れば、まだいくらかワインが入っていたはずの革袋は水たまりに浸かってとぷっとぷっと泥水を吸っていた。


「……こんなもんよね、あたしの人生なんて」


 泥色の水たまりに映える青空が虚しく波紋に揺れている。ああ、お腹減った。マリアは剣を構えたまま返事すらしない相手騎士を見上げた。精悍な顔つきをした、年齢もマリアとさほど変わらなそうな若い男がそこにはいた。


「あ、えーと、その、大丈夫か?」


 まだ若い騎士は静かに剣を下ろした。ピカピカの鎧に泥がつくのも構わずに水たまりに膝を浸し、汚れたマリアへ手を差し伸べた。


 敵騎士に情けをかけられるなんて。何て情けない最期だ。ああ、死ぬ前に一度でいいからフォアグラって言うのを食べてみたかった。ガチョウの、その、どこかの部分のソレをアレした奴だ。


 マリアが覚悟を決めた時、水たまりに写った青空が掻き消えた。視界全体から光が溢れ出し、地面は熱を帯び、ビリビリと顔の皮膚が勝手に震え出す。そして真っ白い光の暴走が始まって、マリアは空高く打ち上げられるような浮遊感を感じ、眩しすぎて目も開けられず、熱い空気の塊を喉に押し込まれたように息も出来ず、でも、あれ? 普通に呼吸できるし、何か少しだけ涼しい空気が爽やかに流れているし、マリアは恐る恐る目を開けてみると、どこかの真っ白い部屋のベンチにポツンと座っていた。


「あれ?」


 ここはどこだ? さっきの騎士さんは? 護衛対象の姫様は?


 周囲を見回すと、見た事もない白い壁、白い床、光る天井と、いつの間にやら屋内にいるようだ。ん? 光る天井? 見上げると、自分の頭上に淡く光る輪っかが浮いている。


「光の輪っか?」


 子供の頃、教会の壁面に描かれたフレスコ画に光の輪っかを頭上に浮かべた天使の絵を見た事がある。天使が持つ光の輪っかを、自分も頭の上に浮かべている。と言う事は、あたしは天に召されたのか? まだフォアグラも食べていないのに死んでしまったのか?


「ここは、天の国?」


 ぼんやりと光る輪っかを見つめていると、ピンポーンと木琴を叩いたような軽やかな音を奏でて輪っかが点滅し、その中心部に数字が浮かび上がった。


「350番のお客様ぁ!」


 誰かがその番号を呼ぶ。声のする方を見ると、栗色の髪の毛を頭の天辺で丸く結んだ赤い眼鏡をかけた女性がこっちを見ていた。


 しばらく睨み合うマリアとノーラ。


「そこの金髪碧眼のコスプレさせたら何でも似合いそうな人、こっちこっちー!」


 周りを見回しても、この部屋には自分一人しかいない。マリアは金色の髪を撫でてから自分の鼻先を指差して首を傾げて見せた。


 ノーラはうんうんと頷いて、ハスキーなアニメ声で言った。


「一人しかいないでしょ? こっちに来なさい」


 偉そうな女だな。敵か? マリアは警戒しながらノーラにゆっくりと近付いた。

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