「やっぱり、いないかぁ」


 分かっていた事なだけに、実際を目の当たりにするとがっくりと気は落ちた。


 三日空けて来てみれば、ガラリとした路地には人や猫の姿は見当たらない。

打ち捨てられたコンテナの中を覗いたり、空のゴミ箱をひっくり返したりもしてみたが廃材ばかりで生き物の気配すらない。


 諦めて帰ろうと足を進めると、かさりと足元に落ち葉を踏んだような感触が伝わってそれを拾って見る。

 習字で使う半紙のように薄くザラザラした、長細い紙の束。漢字のような赤い文字がそこに書かれていた。御札、にしては何だか簡素で粗末な感じがするし、落書きにしては全ての紙に同じように書かれていて違う気もする。紙もわりと新し目だからもしかしたらあの人が落としたのかもしれない。


「確か、灯野派って。灯野さんに聞けば分かるかも」


 どうしても彼らが人を食べる様な、残忍な人達とは思えなかった。でんちゃんにも会いたいし、この紙の束が落し物なら届けないといけないから。



「………ギ……ィ……キ……」


 コンテナの奥からなんだか声のようなものが聞こえてくる。それと何かを引き摺るような音。

 でんちゃんとあの人だろうか。置いて行かれないように急いで駆ける。鉄錆のような独特な臭気が鼻をつく。妖でも狩っていたのだろうか。

 そう思いコンテナの奥の突き当りを曲がって、凍り付いた。


 パチパチと切れかかった街灯の下。それに照らされて見えたのは、体毛に覆われた子供の身長程の巨大な身体。そこから覗く赤い無数の複眼。白い体毛から生えた黒光りしている八つの脚――大蜘蛛。


 それの足元には猫ほどの子蜘蛛がわらわらと群がり、パキパキと音を立てて口を動かしている様だった。布の切れ端や赤い肉片が、所々に子蜘蛛の群衆から覗いていた。鉄臭い血と、生ものが腐ったような臭いが濃く漂ってきて、慌てて口元を抑えた。

 多分、人――喰ってる。


 おぞましい光景に悲鳴を上げそうになるのを必死にこらえる。

 複数の赤い目玉をきょろきょろと動かし、カチカチと八つの脚を動かして璃子を見つめている様だった。気付かれてる。


 絶体絶命のこの状況で、必死に頭を巡らせる。

 少しでも動けばきっと蜘蛛も動く。走って逃げようにも恐怖で足が竦んでうまく動くことが出来なかった。

 じりじりと相手も向きを変えて、今か今かと機会を伺っていた。


 逃げようと竦んだ足をゆっくりと、後ろに脚を少し下げた。――その時だった。


 ぱちり、と何かが後ろで反応した。

 薄い膜状の何かが自分を囲んでいて、それが後ろでぱちぱちと音を立てているようだった。手に握っていた紙の束の一枚が、すっと溶けるように消えていった。


 嫌な予感がして視線を足下に向けるとそこには数匹の子蜘蛛がわらわらと周囲に集まり、かちかちと顎を開閉し生え揃った牙を鳴らして璃子を見つめていた。


「ひぃいっ!?」


 あまりの気味悪さに悲鳴を上げて跳び上がる。それが引き金となって、隙が出来た璃子にがつがつと足音を立てながら向かってくる大蜘蛛。

 ぞわりと全身に鳥肌が立ち、全身の血の気が引いた。


 このままでは確実に喰われてしまう。

 竦んだ脚を諫め、なけなしの勇気を振り絞ると急いで蜘蛛のいない方向へ走る。もしかしたらこの紙の束が膜を張って守ってくれるのかもしれない。これに頼るしかない。


 命懸けで走ったことと恐怖もあり息が上がる。両足も限界を迎え、縺れてすっ転んでしまった。バチバチと足元で音がする。掌と膝の痛みに耐えて、先を走ろうにも見えたのは突き当りの薄暗い壁。後ろには当然、蜘蛛の群れが向かってきている。

 仕方無しにそこまで走り、紙の束を抱えたまま壁に背を預け、脚も限界を迎えてずるずると座り込む。コンクリートの壁が体温を奪うかのようにひんやりと背中を冷たくした。


 子蜘蛛たちが集まり張られた結界に触れる度に、握っている束が一枚一枚消えていく感覚が手に伝わってくる。親蜘蛛は狩りをする子蜘蛛を見守るように遠くで眺めているようだった。

 目の前の恐怖と嫌悪感で歯が震え、かちかちと音が鳴るのを抑えられるはずもない。

 時間が経つにつれ次々と消えていく札ももう数枚と残り少ない。

 こんな事なら変な所に寄り道などせず真っ直ぐ帰ればよかったとほぼ諦めきったところだった。


「一匹って話のはずが……よくまあこんなわらわらと子沢山なことで」


 聞き憶えのある声が、この狭い空間に反響して耳に届いた。


 ばきりと鈍い音が響いた瞬間、ゆっくりと迫り始めていた大蜘蛛の姿は目の前から消えた。――否、すぐ横の地面にひっくり返った大蜘蛛が脚をバタつかせていたのが目の端に映った。

 変わりにその場に立っていたのは、上げていた片足を下ろした例の彼だった。


 彼はわらわらと散らばる子蜘蛛を、まるで蟻でも潰すかのようにプチプチと踏みつけながら親であろう大蜘蛛へと向かって歩いて行く。

 標的を璃子から彼へと変えた子蜘蛛達はどういう訳か数が減るどころかどんどん増えている気もする。


 足元に纏わりつく子蜘蛛に向かって舌打ちをした彼は心底面倒くさそうに逃げ惑うそれらを蹴り飛ばし、数匹を巻き込みながらも潰していく。パチンと水風船が割れるような音を立てて地面や壁が群青色で染まっても、それでも数はなかなか減ることはなかった。


 助けてくれたのだろうか。

 かさかさと群れからあぶれた一匹の子蜘蛛が再びこちらに向かってくるのが見えて「ひっ」と引きつったような声を上げる。彼はそんな璃子を一瞥すると見なかった事にするように視線を外し、未だにひっくり返っている大蜘蛛に蹴りを入れていた。ひどすぎる。流石にその反応はひどすぎる。

 命がかかっているこの状況でそれはないだろうと、一言言ってやろうかと口を開いたがそこから漏れたのは抗議の声ではなかった。


「ひっ!? ひぎゃあああ!! いっいっ、いやぁああ!!」


 ぞわりと全身の毛が逆立つ。這うように向かってきていた子蜘蛛が、顔の位置まで跳ね飛んだ。オマケとでも言うように上からもさらに小さい子蜘蛛がボトボトと頭上に降り注ぐ。その子蜘蛛達に卵のような殻がくっついている事から、真上はきっと巣だったのだろう。ギリギリの所で薄い膜が働いて弾かれていく子蜘蛛達を見て、恐怖と嫌悪感で鳥肌が立つ両腕を擦る。


 それを見た彼は「上、蜘蛛の巣だから」と今となっては警告の意味もなさない言葉を無表情で平然と呟いた。

 そんな彼に怒りと怨みの混じった目で睨みつけるも、彼は飄々としてカチカチと牙を鳴らす大蜘蛛に向かって人差し指を――正しくは蜘蛛の下のマンホールに向かって指す。


「あと、そこ邪魔。刺さるぞ」


 そう言い終わる前に、蜘蛛の腹の下から水が勢い良く噴き出した。大蜘蛛の腹が水柱によって吹き飛び、舞い上がった飛沫が槍の様に降り注いで子蜘蛛達に次々と当たり、弾け飛ぶように絶命していった。

 降ってきた水の槍に咄嗟に両腕で頭を手で庇うも、それも札の膜が防いだおかげで怪我一つ負うことはなかった。


「シゥ、やっぱコイツ、すとぉかー」


 軽い音を立てて白い猫が璃子の傍に着地した。口に咥えた子蜘蛛を噛み潰した一つ目の猫は呆れたように尾を振った。


「でんちゃん!!」

「うぐあぁぁ!! デる、クッたのデる!!」


 再び会えた感動と過ぎ去った恐怖に思わず抱き上げる。

 もう会えないかもと思っていたものだからその思いも加算してか、つい力を込め過ぎて締め上げるように抱きついた。抵抗するように押し付けられた肉球すらなんだか愛おしく思えた。


「おい、そろそろ離してやれよ。泡吹いてんぞ」

「え……ああっ!? で、でんちゃん、ごめんね。だ、大丈夫…?」

「ち……チッソクにてシボウ……」 

「無事だってよ。そんなことよりお前、何やってたんだよこんな所で」

「あ、ええと……そうだ、これ」


 握っていた紙の束をおずおずと差し出す。留めてあった紐は緩んで垂れ下がり意味を成さない様で思わず嫌な汗が流れた。おこられる、かな。

 彼はそれを訝しげに眺めた後、はっとしたように上着を探る。


「あれ、無え……わざわざどうも。ってかほとんどもう無えんだけど」

「あの、助けていただいてありがとうございました。一応……」

「……べつに、餌場漁りながらこれ探してたついでだし」

「さっき、キづいたんじゃ、んギャッ!!」


 何かを言いかけたでんちゃんは頭上に湧くように現れた水玉をそのまま頭に受けた。ばしゃり、といたそうな衝撃音がしてふわふわな体毛がべっしょりと雫を零しながら垂れる。

 ぷるぷると身体を震わせて水分を弾き飛ばして「なにすんだ、ばかやろう」と不機嫌に罵声を浴びせた。浴びせられた彼は何事も無かったかのようにそっぽを向いている。


 その様子にぽかんと見つめていた。マンホールから突然水が噴き出したのも、でんちゃんの真上に突然水がわいたのも全部この人がやった事なのだとしたら。


「それ、もしかして妖術ですか」

「そうだけど」


 彼はぶっきらぼうに答える。


「やっぱり……あの、ええと……お名前は」

「……集真」


「集真さん……私に、術の使い方、教えてください!! 私、術師の家系なのに全然出来なくて、このままじゃ周りに申し訳ないし私自身身を守ることも……あれ? ちょっ、待って」


 勢い良く下げた頭を上げると集真さんは踵を返して早足で去ろうとしていた。慌てて追い引き留めるも聞く耳持たずな風で歩みを止めない。唯一声を聞いてくれたのは小脇に抱えられていた猫だけだった。


「オイ。あのエダ、くれたら、カンガえる」 

「構うなバカ猫、ぜってぇ厄介な奴だ。確実に面倒くせえヤツだ俺は嫌だ」


 本当に面倒臭そうに顔を顰めて言うものだから思わずムッとして、

「じゃあ灯野さんの所に行きます」

「そしたらそれが俺に回ってくるんだよ、絶対そうだ。あのババアならやり兼ねねぇ、絶対来んな」

「絶対行く」


 ムキになって追う。薄暗い脇道をずんずんと進んで、突き当りまで来るとようやく歩みを止めた……と思ったら打ち捨てられた自動販売機によじ登って更に屋根に登ろうと壁に足を掛けていた。でんちゃんをしっかりかかえたまま。そこまで嫌がるのか。

 負けるものかとそこらの廃材に足を掛け、自らも自動販売機によじ登ろうとしたところで上から盛大な溜息と呆れたような声がした。


「別に灯野じゃなくても、坂谷んとこと鈴切んとこがあるだろ」

「坂谷さんは警察の偉い人だからそうそう会わせてもらえないんです。鈴切さんの所はもう行ったけど、よくならなくて。だからもう、他に頼るしかないんです」

「……ああ。桐生ってたしかそんな噂が立ってたな。随分前に突然、一族全員術が使えなくなったって」

「でも昔はすごく頼りになったって、みんなが言うんです。近所のおばあちゃんなんて、命の恩人だって拝まれるし……でも私、何も出来ないんです。悔しいじゃないですか、そんなの。だから、どうかお願いします」


 屋根の上に座って見下ろす彼はしばらく考え込んでいるようだった。でんちゃんのびちょびちょの身体を擦り付けられても文句も言わない。


「一族全員……それが桐生の術ってんなら興味はあるが、」

「イイってヨ」


 ぼそりと呟かれた言葉に猫が勝手に承諾する。その機会を逃すことなく、


「ありがとうございます!よろしくお願いします、集真さん」

「んなこと言ってねえ……ああくそ、ってかおい馬鹿猫、何やってんだてめえ!?」


 集真さんのパーカーの下部分はびっしょり濡れて色が変わっている。じろりと見やる彼を今度は猫が飄々とした態度でそっぽを向いた。



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